我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 10
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我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 (編集者, 2013/4/5 7:48)
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編集者
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騎兵学校の章 2
騎兵学校では中隊長から「貴様達は戦略、戦術などでは陸士を出た現役の将校には絶対に勝てっこない。だから実兵指揮で彼らに負けない実力をつけてやる」ということで訓練は猛烈を極めた。騎兵学校の横から拡がる習志野の原は実に広い。
その広大な習志野の原を、右に左に走り廻って、夕方校舎へ帰って来るともうクッタクタであった。夕食を終え風呂で汗を流し兵器を手入れして、消灯までの間自習室に入って学習や、その日の反省などをするのであるが、疲れ果てて学習・反省どころではなく、ついウトウトと居眠りするのがオチであった。だから消灯の時間になって寝台に入ったか最後、翌朝まで前後不覚で殺されても分からない。そんな或る日、起床ラッパと共に飛び起きて毛布をたたんでいるとき、白い敷布の足の方に血の筋がスーと斜めに十糎程ついていることに気が付いた。最初のうちは何の血なのかサッパリ判からず、さして気にもしなかったが、そのうち誰かが「寝台に南京虫がいるぞ」と言い出した。寝台は深草の聯隊では鉄製だったか、騎兵学校のは木製であった。その寝台の木の合わせ目を見ると、芥子粒よりも小さい赤黒い虫が一列縦隊になって身をひそめているのが目に付いた。妻楊枝で掘り起してみると居るわ居るわ、その小さな虫が何十匹何百匹ともなくゾロゾロとはい出て来た。お初にお目にかかる南京虫である。その逃げ足の速いこと速いこと。あわてて片っ端から潰して廻った。そのときようやく気が付いたのだが、毎日の猛訓練でグッスリ寝込んでいるときに喰いつかれて痒いので、無意識に動かす足で南京虫をすり潰して、その血が十糎程の筋になって敷布に付いていたのであった。それからは毎日曜日になると校庭へ寝台を持ち出して南京虫退治であった。お蔭で卒業する頃には、絶滅までは行かなかったが大分居なくなった。
六月一日。「陸軍伍長ノ階級二進ム」
九月一日。「陸軍軍曹ノ階級二進ム」
階級章の付け替えか忙しかった。階級だけは昇っても候補生である限り、あくまでも仮の階級であって、何らかの事故かあればすぐ一等兵に降等するので油断かならなかった。
在校中三度ばかり外出しただけだったと記憶している。外出しても騎兵学校の附近には目ぼしいものは何もなかったので東京へ出た。東京に出ると真っ先に二重橋前へ直行し宮城を遥拝、次に九段の靖国神社に参拝して、サテもう行く処がない。あったとしても地理に不案内だし、仕方がないので恵比寿に在住の増田さん(奈良の私の家のお向かいに五・六年居られて家族ぐるみの交際で極く親しくしていた。私と同年の一人娘さんか実践女子専門学校に入学したので、東京に引越しされていた)の処で暇をつぶして帰校した。今になって考えれば幾らでも行く処があったのに…と残念に思う。
猛烈な訓練は相変らず続いていた。時には乗馬訓練で、習志野の原を過ぎて南に拡がる下志津の原まで足を伸ばすことかあった。下志津の原は習志野の原よりも更に広かった。習志野の原は夜は兎も角、昼間は豊臣台とか号砲舎などの目標物かあるので滅多に迷うことはなかったか、下志津の原は広過ぎて昼間でも迷った。斥候の任務を与えられ「○時○分、○○ニ於テ報告スベシ」などという命令を貰っても、道に迷ってしまって指定された時間に行き着けないことか多かった。
乗馬訓練も猛烈で習志野の原を、時には駆足で時には襲歩で駆け回り、最後に輪乗りをするのであるが、その乗馬時間の長いこと。人も馬もクタクタになるまで走り抜いた。そんな或る日、輪乗りの最中に八木候補生かバタッと人馬転倒をした。馬は横倒しになったまま、しばらく四肢を振るわせていたが、間もなく動かなくなった。これが訓育の良い材料となった。
「馬ですら死して後己む。まして貴様等は人間であり候補生である。であるから死しても尚己まざる精神を発揮せよ」
その頃我々第一区隊の区隊長が吉住菊治大尉(少候十八期)に替わった。何か人を小馬鹿にしたようなオカルトがかったうすら笑いを常に浮かべている馴染めない区隊長であった。