我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 6
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我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 (編集者, 2013/4/5 7:48)
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新兵の章 2
京都の冬はすごく寒い。底冷えがする。その厳しい寒さの中での厩作業は本当につらかった。馬の大小便のビダンヨリと泌み込んだ寝藁をロールに巻いて担架で運び出す作業は、鼻にツンくるアンモニアの臭いがたまらなく嫌であった。水槽に張った二・三糎の氷をわって蹄洗桶に水を汲んで蹄鉄を洗う作業は、白魚のように奇麗だった(?)手を一ペんに見るも無惨なヒビーアカギレだらけの手に変えてしまった。それでも厩作業を終えて駆け足で兵舎に帰る頃には、ホカホカと体がほてっていた。また飼付けの最中に逃癖のある「義島」という馬を放馬させてしまって、大目玉を食ったこと等、今にして思えばつらかったけれども、楽しい思い出である。
馬は一日四回の食事をする。毎朝起床ラッバと共に飛び起きて点呼を済ませ、直ちに駆け足で厩舎へ直行、馬を一頭づつ曳き出して、馬繋柵に繋ぎ、寝藁を厩舎外へ運びだし、直ぐに取って返し馬の手入れ(蹄洗・刷毛かけ等)をした後、又、一頭づつ、馬房へ曳き入れ飼付けを行い、後片付けをして厩作業を終り、又駆け足で兵舎へ戻り洗面をしてようやく朝食にありつける。午前中の演習を終って営庭に‘帰ってくると、その足で厩舎へ直行して馬に昼の飼付け。兵舎へ戻り自分たちの昼食。ホッとする間もなく午後の演習。それが終って厩舎へ直行して夕方の飼付け。終って我々の夕食。その後兵器・被服の手入れ、洗濯、入浴等をして又厩作業で晩の飼付けを済ませ、日夕点呼の後、兵舎へ帰り、消灯ラッパで一日を終わる。毎日がその繰返しであった。しかし私は新兵である。五・六枚の毛布で寝床を作ったり上げたりの寝台の作業、兵器・被服の手入れ、洗濯等はすべて古年次兵のものまで一緒にやらねばならない。要領の悪い私は時間の都合をつけるのが下手で、入営第一日に入浴しただけで、幹部候補生に合格するまでの四ヶ月間、終に入浴は出来なかった。
内務班での私の寝台は、通路の北室東側で、南隣りは銃架に接して三年兵の曽和清兵長(現下間清之氏)、北隣りは山室勝美応召兵で、共に温厚な方でよく面倒を見て頂いた。(下間氏とは本当の意味での戦友として、今でも兄弟以上のお付き合いを願っている。山室応召兵は捜索第五十三聯隊に動員が下ってビルマヘ出動したとき、彼の地で戦死された)
また、第一班には四年兵の津田武雄上等兵か居られた。彼は奈良の小学校で、私の二年先輩で、家もごく近所だったので大変心強かった。時折、お八つの館巻きや六方焼きが手箱に入っていた。彼の心づくしに違いなかったので涙が出る程嬉しく感謝して頂いた。彼は一年後、昭和十八年十月フィリッピンで戦死した。
捜索聯隊は第一中隊が乗馬隊、第二中隊が乗車歩兵隊、第三中隊が軽装甲車隊という編成で、厩舎も半分は軽装甲車の車庫に改装されていた。第一中隊だけは、昔の騎兵の軍装をそのまま残してあって、他の中隊の兵隊は、歩兵や他の兵科と同様にコンボ剣に短靴・巻脚絆であったが、私達はたとえ星一つの新兵であっても、長靴に長刀(サーベル形式の三十二年式軍刀甲ではなく、日本刀形式の五年式軍刀)だったので格好が良かった。それだけによく見習士官と間違われた。或る日、聯隊の南門を出た処にある陸軍病院(現国立京都病院)に、入院している誰かを見舞いに行った時のこと。遠くの方を五・六名の他の聯隊の兵隊が隊伍を整えて「歩調を取れ、頭ア右」と号令をかけて此方に敬礼をした。附近に上官がいるのかナと、辺りを見廻したか誰もいない。長靴を履き、日本刀形式の軍刀を吊っていたので見習士官と間違ったのだろうが、間違われた私は面喰らった。あわてて此方から敬礼をしたか、先方も此方が星一つの新兵なので、バツが悪かったことだろうと思う。