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我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 2

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通常 我が軍隊的自叙伝 緒方 惟隆 2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2013/4/8 7:35
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 我が軍隊的自叙伝

 生い立ちの章

 大正十年九月二十五日早朝。大阪府泉北郡浜寺町(現在大阪府堺市浜寺町)の一陋屋で、一人の男子が暇々の声を上げた。
 即ち斯く言う私である。父は子福者で五男三女の子供があり、私は四番目の三男であった。

 当時、私の父は既に退官して一介のサラリーマンであったが、その一年前までは京都深草の歩兵第三十八聯隊(この聯隊は後に奈良に移駐する)に勤務する明治三十八年兵の陸軍歩兵特務曹長(後の准尉)であった。従って、大礼服や白い鳥の羽根で作った前立てのついた正帽を始め赤い鉢巻の軍帽・歩兵を表す赤い襟章に38の数字のついた軍服・長靴・サーベル型の軍刀・指揮刀・儀式刀・外套・将校マント・背嚢・図嚢・双眼鏡に至るまで軍装品は一式完全に揃っていて、納戸に大切にしまってあった。

 物心がついた時期、私の一家は奈良市に転宅していたが、父が元軍人だった関係で、その影響を受けてか、私の遊びは大てい兵隊ゴッコであった。そして納戸から軍帽や指揮刀などを持ち出しては母からよく叱られたものである。叱られても叱られても、又しても持ち出すので、終には母も諦めてか、あまり叱らなくなった。

 昭和三年四月。奈良県師範学校附属小学校に入学した。この頃父は日曜祝祭日などの休みの日、ハイキングや当時盛んであった皇陵巡拝などによく連れて行ってくれたし、また時には母の里(今の京都府相楽郡精華町北稲八間)へ行く時などは、奈良電車の新祝園駅から母の実家までの約十町あまりの田圃道を、あたりに人家の無いのを幸いに、ありったけの声を張り上げて、軍歌を合唱し、歩調を取って歩いた。そんなことが度々あったし、もともと軍歌は勇壮で好きだったので、今でも「橘中佐」(上19番・下13番)や「広瀬中佐」(12番)「戦友」(14番)「勇敢なる水兵」(10番)「討匪行」(15番)「ブレドー旅団の襲撃」(15番)などの長い歌詞の軍歌であっても、一節も忘れてはいない。自慢ではないが、軍歌だけは全く自家薬寵中のものである。

 三・四年生の頃「少年倶楽部」という月刊の少年向けの雑誌かあって、田河水泡の「のらくろ二等兵」の漫画などと共に、山中峯太郎の「敵中横断三百里」という連載小説があった。日露戦争の末期、金沢師団の騎兵第九聯隊の建川美次騎兵中尉が部下の、豊吉軍曹、野田上等兵、神田上等兵、大竹上等兵、沼田一等卒の五名と共に、奉天のロシア軍の背後(鉄嶺附近)深く捜索した挺進騎兵斥候の物語で、樺島勝一の挿絵がまた非常にリアルだったので、血湧き肉躍らせて夢中で読んだ。
 
 そして大いに騎兵にあこがれたものである。今でも樺島勝一のあの挿絵は、その場面までハッキリと覚えている。

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