私の従軍記 飯塚 定次
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はじめに
この記録の
メロウ伝承館への転載につきましは、飯塚 定次様のご了承を
いただいております。
メロウ伝承館スタッフ
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昭和十四年八月、胸ふくらませ徴兵検査を受ける為、故郷六合(現島田市)へ五年ぶりで帰ってきた。家を出る時、母に「お勤めはきびしからうが男子、家を出て一度志を樹(た)てたなら自らが足で立つ力を備えて何の某と名乗る迄は此の家の敷居はまたぐまじ」と亡き父のいる佛壇の前で私の顔を穴のあく程ひきしまった顔で門出のあいさつに応えてくれた母の顔をじっと見つめて、大きく、無言で頭を下げた。
五年ぶりで迎えてくれた母や妹弟兄嫁達が涙を流し乍(なが)ら歓迎してくれた。
三年程前、名古屋市中区住吉町の松屋写真館で写真をとり家宛に「比の通り元気です」と母や家族に手紙を添えて便りしていたが、母に身を樹てずに家へ帰るなといわれて初めての家だったのでうれしかったが、徴兵検査のための里帰りだから逃げ帰ったわけではないと自身にいい聞かせ乍ら亡き父にも母にも挨拶し、「今度は兄さんのような体格でないから判らないが国の一大事、父や兄と同じ様に軍人としての務めを果たす様、決心をして明日に臨む」と母に申し上げた。母は、「その体では平時なら無理だらうが、戦時の事なれば男はみんな戦場へ立つ事と覚悟していなさい。」と云ってくれて、昔、父が日露戦争にあたって応召して明治三十八年二月第三師団乃木大将の率いる第二軍に参戦、旅順攻撃の激戦に厳冬の野戦で伏せて数分の間に軍服が地面に凍てつき服が破れてしまった事を、「生涯誓って『寒い』というまい」と、父が生還して家人に話して、その通り生前決して「寒い」とはいわなかったと、その父の決心と、勲章をこの時母から心意気として持つ様みせてくれた事を思い出した。
二ケ月程して、役場から通達があって「第二乙種合格。入隊は昭和十四年十二月二十日」と、入隊は第三師団第三輜重聯隊とあった。当時、名古屋の会社に勤務していたので縁というものを感じました。勤務先では二年先輩の出征があって二人目、みんなからも町内の方々からも「お目出度うございます、御苦労様です」とお祝いを受けました。郷里へ十二月十七日帰り、その日徹夜、村中の人達からお祝いを戴き、友人、知己、親戚等々挨拶とお酒に徹夜で攻められて、朝の挨拶は両脇を友人に支えられて杉の葉で飾られた門の前で真当(まっとう)な挨拶もできない程酪酎して徹夜の宴席止むを得ないと恥かし乍ら自戒の中、「恥ない御奉公を致します」といって万歳で村境の川の橋迄、大勢の方々に送られ出発。名古屋の会社へ入り二十日の朝、又名古屋の会社の人達、町内会、婦人会、青年学校等の大勢の方々に送られて入隊いたしました。
そして、昭和十四年兵、新兵四千人程と第一期の教育、凡ゆる初年兵教育を受けました。
そして、ここでも人間関係の縁というものを痛感いたしました。知らない他人なのですが隊長の田中見習士官が浜松の方、この方とは野戦でもずっと同じ部隊でした。そして、教育係助手として佐々見習士官、此の方が早大出の方で教育期間中、大変きめ細かく個人的に応援して下さいまして楽しい教育期間をすごしました。もう一人班長の早川伍長が静岡出身の方で班長室は同じ建屋の隣室ですので大声の日常がすべて判る訳です。それで共同制裁を受けそうな雲行になると班長室から大きな声「おい飯塚ちょっと来い」と呼ばれるので恐い教育係助手達は「おい飯塚、班長がお呼びだ。いって来い」となりまして必ずピンチを救って下さいました。うれしくてありがたくて益々精励克己いたしました。
三ケ月の研修期間が満期、愈々(いよいよ)出征となったのですが、私は教育係として残る事になりました。それで班長に頼みましたが命令だからというのです。私は身体が弱く医師から小学生の時から長生きは無理といわれ、小学生三年生の時から運動を止められた体ですので戦争に出会い国家の為にこの身体を捧げようと決めていたのです。それが内地に残って教育係では靖国神社へ行けません。どうしても身命を国に捧げて親孝行をすると決めていた事に違反することになるのです。それで教育係長をして下さった田中少尉殿に直談判して田中隊長も御一緒に戦地へ発たれる事になっていましたので強くお願いして私の代わりの方を出征名簿の中から四百分の一、何かの理由で残りたい方、事情のある方を選んで戴いて戦地へ私をつれて行って下さいと懇願いたしました。出発直前になって田中隊長の処へ編成された一人を繰替えて御一緒に戦地へ発つ仲間に入れてもらいました。願いが叶いました。私は武者震いして自分の前途に乾杯いたしました。
昭和十五年三月二十三日午後十一時営門出発、大勢の方々に見送られ三千名(四千名だったか?)名古屋駅迄徒歩行進。深夜の東海道線を西下し、早朝の名古屋港から輸送船(貨物船)に乗船して大陸に向って時速五ノットといふ最低スピードで海南島に立寄り、三月三十日廣東港に入航上陸いたし、配属先へ分かれて行った。この間、船内では二百名を単位に班が編成され、私も二百名の同志を預かる班長を命ぜられ、船内の行動を指揮した。船よいで何も食べないので酒保でリンゴを木箱一ケース買い、これをかじって八日間過ごした。
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廣東には二~三日滞在し私外四名計五名の新兵は廣西省欽県に進み、ここで編入される部隊、独立自動車第一八五中隊、隊長長谷川中尉の下に参加すべく待機。四月六日頃だったと思う、南寧に布陣していた近衛師団司令部へ向って出発した。街道は百五十キロメートルの間、戦車壕で寸断されていて軍馬の死骸は未だそのまま放置されていた。数日前此の街道で敵機に襲撃され道路沿いの河中に散開して身をかくしたが執拗な敵機は離れず、反復攻撃し夜間迄水中で難を逃れたと云う。その第一日目、最初の野営の午後八時頃大河の向側の山の中腹から夜襲を受け、急遽壕に入り応戦した。三十分位かなと思った。一時間位で戻った。まず戦地へ入ったと実感した。翌日敵機襲撃の現場を通り翌々日、南寧到着。申告すませて間もなく竹田小隊長より、明日、命令受領者随員として出張を命ぜられた。部隊みんなから羨望のヤジが飛んだ。これは任務を全うして一日休暇が出るので社会の風に浸る事が出来るからと判った。
私には無用だったが、先任の用事がすむ迄待って帰隊。ところが部隊復帰と同時に小隊長に呼ばれ、「飯塚は即、本部書記を命ずる。」と辞令を受けて欽県の長谷川部隊本部へ服務した。部隊本部は民間の三階建煉瓦造りを徴用していた。部隊は七、八百メートル離れていて、営庭で吹くラッパも殆ど聞えず、朝五時前に起きて上官(事務関係の准士官下士官)の世話をした。水は五百メートル離れた処にいた久能兵団司令部の井戸迄天秤で二回汲みに行った。南支那方面には当時、この兵団以外に九州の兵団と近衛師団の三箇軍団で第二十五軍の主力をなしていた。十万以上の戦力で間もなく東南アジアへ進出して行ったのである。
長谷川部隊は兵站自動車第一八五部隊で従来、馬が担当していた輸送、兵員兵具食料等の補給が任務である。私個人は戦時日誌、日々の行動戦歴をコピーして本国の軍司令部、部隊本部等々二十五ヶ所へ日誌として発送するのですが、現在の様にコンピューターがある訳ではなく全部手作業でガリ版刷りで仕上げるのでかなりの仕事量だ。
予備役応召の一色兵長に親切にご指導いただいた。とにかく本部に五十名余の処へ初年兵は私一人だけ。将校には当番が一名ついていますから良いが下士官伍長から曹長迄は当番がついていないので全部私の処へ廻って来る。朝四時に自律起床、六時に部隊の水事班に本部の朝食を受領に行ってくる。下士官の洗面の支度、兵器の手入れ、靴の手入れ、これだけ朝の特注作業だ。上級下士官(曹長)五名の洗面は井戸水を汲んで来たのを一度滅菌の意味で沸かして、それを冷やして用意した。夜、就寝は十二時。正味睡眠は三時間半位、それが四月二十九日着任から十月の大移動(国内国外全部の組織変更。これを第七六次の編成改正と号した)。
今迄は軍馬が大砲も兵員も移動手段だったが昭和十五年十月から自動車が兵器として編成されて長谷川部隊は近衛師団の機械化に編成され、私は崎口准尉(人事担当)の業務も助手として特に自動車班の編成についてお手伝いし、近衛第二師団第三聯隊と第四聯隊へ転属編入の手続を執った。私は第三聯隊本部へ崎口准尉と全部の手続を終了した時点で近衛師団司令部へ手続きを済ませ、歩兵第三聯隊本部へ参り転属の手続きをすませ、本部自動車班四十数名の班長は新任の大川中尉(満州の第一連隊から赴任)、内務班長は予備役(昭和八年兵軍曹)内務四班編成、私は第四班長と聯隊本部教育係として聯隊全体の自動車班の教育係大川中尉の助手を命ぜられ、新編成の聯隊本部、第一、第二、第三各大隊の自動車教育が始まった。第三聯隊は第一へ田中少尉、第二へ平塚中尉、第三へ竹田少尉が、崎口准尉は兵器班の修理班長として、私の処へも内務班新兵(民間の運転手をしていた召集兵)、補充兵、新兵と大所帯となりました。軍隊の組織が新兵器による新装備で私のような外様は肩身がせまい処ですが新しい任務が生じて階級に合致しない上下の関係が生じ、特に聯隊本部とか旅団本部、師団司令部は任務に依って変則的な部署が出来上っていました。
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昭和十五年十月から十六年六月迄教育訓練が行われ、南支中山県を愈々出発。この期間、軍は南支の作戦に参加していた。中山県はマカオの近くだったので物資の拠点となっていた。ベトナムへ進撃が始まり六月末海南島に陸海の軍船が進撃準備に集結。巡洋艦、航空母艦、駆逐艦、輸送船等々二百隻余の船団で中山県を出る時は内地と同じ様に日の丸旗を沿道で中国の人達が送ってくれた。貨物船を徴用して私達は乗り込んだが仏領インドシナのサイゴンへ敵前上陸する為の作戦会議が甲板で行われ二十五軍と十五軍のいわゆる日本が英、仏、オランダ、タイへ向かって大東亜戦争への緒戦が火ぶたを切る事になったわけです。
海上見渡す限り軍艦と貨物船。最初で最後の観艦式となった七月二十八日、陸海の敵前上陸はなくなり(仏国と合意が成立)、七月三十日サイゴンで入城式を行う事になり、予定通り入城式を行い部隊本部は市街地の中、確か六階建位だったと思いますが学校の予定で建てた建物を当てた様で十二月三日迄ここを拠点に南インドシナ三国を偵察に大川中尉のお供をしてフランスが作った道路のすばらしさに脱帽した。そして、生活は中国流であり経済を掴んでいるのも中国人、いわゆる華僑だとみました。十二月二日完全軍装で全員出発。ラオスのタイ国境のジャングルへ向かった。大川中尉が運転して私が助手席に乗って行軍途中から大川中尉から「愈々米英佛蘭と戦う対戦争が近日中に始まる。近歩三(近衛歩兵第三聯隊)は第十五軍の基幹部隊としてまずタイへ進撃し飛行場を召領し空軍基地とする。ジャングル野営の一週間は蚊とさそりの攻撃を受け、死を覚悟させられた。各自の身勝手な行動をとらぬこと、現地人の言動に動かされぬ事、勝手な言動は許さぬ、飲食は支給されるもの以外口にするべからず、と厳重に言渡した。十二月八日早朝、暗闇の中を出発。バンコックへ進撃、(午前八時)空港を占拠。タイ国は即日降服して協力体制をとったので、空軍は即、作戦を進め、二日目も寝る時間はないまま、カンボジヤへ前進。プノンペンを前進基地として、体勢を整え寝食を得た。そのため十二月八目から十二月三十日迄連日連夜の軍需物資輸送を十両のトラックで敵の攻撃も受け乍ら夜陰、仮眠一時間位で完送して生沼部隊長から感謝状をいただいた。愈々これからマレー半島を南下して英軍根拠地へ突入する。死に場所へ来たぞと実感出来た。
私がプノンペンを発った時、一月十八日頃だったと思うが、マレー半島を制圧して我が部隊は二月八日頃シンガポールの対岸に集結し上陸用舟艇部隊で第三大隊があらゆる援護を受け乍ら全島が要塞だったシンガポール島に大きな犠牲を払ってジョホール水道から全島に張り巡らされた集音器(その集音器に音が入ればその地点に集中攻撃をかけてくる陣地、即ち要塞で出来ていた。)兵士の前に戦車がゆく。その戦車を踏み越えて敵陣を一つ一つぶして前進して行った。二月十日の紀元節には日章旗を樹てる予定が約十日近く遅れた。詳細は内地の方々の方が御存じと思いますが、島の中央辺に水道池があって『ライフ』の表紙になった擱座(かくざ)した戦車があった地点を通ったのが十八日だったと思う。この時点では既に聯合軍司令官が降服していたと思います。市街地に直結したゴム林に部隊本部は野営して、二月二十五日次の作戦への準備に入った。三月八日シンガポール港に前進し、次の攻撃地スマトラ島進撃部隊で出撃態勢に入り、部隊長生沼大佐以下(第一大隊はビルマ作戦に出陣)直轄の通信隊、速射砲隊、聯隊砲の三部隊、第二、第三大隊が出陣した。その中で第三大隊の第十中隊は中隊長以下殆どシンガポール作戦で軍曹以下十名程が生き残ったがその外、戦死してしまった。宮兵団のスマトラ(オランダ領)島へ敵前上陸した処は北スマトラのアチエ地区、三月十日シンガポール港を出発、三月十二日夜コタラジャ沖に集結、夜明けと共にオランダ軍の反撃を制して腰迄海水に浸ってサイドカー一台をかつぎ上げて十時過ぎに設営した本部に入った。オランダ軍は約二千名山中へ逃込んだので、自動車班は全力でシンガポールから上陸した部隊の輸送を反復行った。作業の途中で部隊長から至急来る様に伝令が来たので、参上すると、「只今から偵察先遣隊を小林旅団長が指揮されて出発される事になったに付き、車輌二両(現地調達)で先遣隊を搬送任務を」と下命された。
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午後五時頃だったと思う。小林少尉幕僚以下護衛隊と通信隊、機関銃二基、すみだ機関より数名、私と大沢一等兵とその外助手二名初めての敵地への潜入なので全てを神様次第という想いでした。真暗闇の砂利道(北スマトラは殆ど砂利道)、無燈で走る事は確か戦地へ来てから初めてだと思う。懐中電灯で車の直前の地形を確認し乍ら前進、私が先頭車を運転し小林閣下グループと通信隊をのせて時速三~四キロで前進して行った。時々二号車が来ないので戻ると道路の真中を大の字で大沢が寝てしまっている。無理もない。一昨日来、全く寝ていない。昼間アチエへ後続隊を迎えに行った時も前夜から寝ていないので私も道路の補修用の砂利石に乗入れたり半分無意識の処もあった。その後、引継ぎでの運転だから、顔に水を吹きかけて目覚めさせて運転させた。夜中の二時頃指揮系統の者二十名位集められ先遣隊長から報告事項があり「我々は現在敵軍より先に出てしまっているのでロスマウニという地点迄戻る。敵は山中(タケゴン)方面へ逃げ込んで途中の橋を皆落して逃げている」という。又引返して朝八時ロスマウエの生沼部隊本部に到着。生沼部隊長に報告した処大変喜んでくれて「御苦労だった。とにかく一眠りしてくれ食事用意しておいたからすませて休んでくれ。」とねざらって下さった。
自動車班長の大川中尉に報告したら「すまんがまだ遅れている部隊があるので全力で輸送している処だ。すまんが迎えに行ってくれ、遅れて事故でも起きたら困るから」といわれて食事を戴いて直ぐ迎えに行き、部隊責任者に三日間殆ど寝ていないから運転中何の話でもいいから大声で話をしてやって下さい、たたいてもひねってもねむらない様にして下さいと各車輔に伝達し夕方迄かかりました。自動車は徴発したのだけで殆どシンガポールに残していますので輸送に時間がかかりました。唯敵一千八百名位の大部分が司令官以下山中のタケゴンという処へ逃げ込んだので予想された戦乱は殆ど今まではなかったのでシンガポールの二の舞はありませんでした。夕方になって部隊はオランダ軍の逃げた街道を追跡しました。未だ眠れません。三十キロメートル位で山にぶつかり、その入口の川の橋が落されていて歩くしかない山路になりました。あいにく雨が降り出して山路の行軍は最高の難行苦行となりました。
午後十時頃建物を見つけ、まず火を炊いて衣類を乾かし乍ら私はそのまま寝込んでしまいました。前後不覚といいますが只たき火の傍で五時間位、不寝番に護られて五十名位が死んだ様に眠っていました。たき火の傍で軍装を整え人員点検よし、落伍者なしと確認、大川隊長の命令で一名連れて道路偵察に夜明けの街道を登った。一時間位行った処で川にぶつかった。大きな谷川で橋が落されていて川の手前に部落があり工場があった。中を点検したら物音がしたので銃を構え乍ら突込んだら敵兵二名が手を上げたので押え、手を後手にしぼって柱にくくつた。緊張した。それは「コカコーラ」の工場だった。無人になった工場は無気味なもんだ。間もなく本部が到着。状況を報告。工作隊に連絡して仮橋の所在確認して四方警戒を徹底しつつ既にタケゴンに到着。敵を降伏させ武装解除をして部隊本部で収容所管理に任じている事も判明した。河を越して台地に出て間もなく、街道の両側にある大木の上から狙撃され四列縦隊で進行中の一列目へ小銃らしき銃声と供に耳元で「カチッ」と音がした。倒れる音がして、見たら私の左が二大隊の自動車班長平塚中尉、その左が二大隊自動車班の西川甚一兵長だった。彼が頭部を鉄帽の上からやられたのだったがかすり傷ですんだ。平塚中尉は上背があり軍刀を提げているから敵からねらわれ、それが外れて隣のそうだ西川君といった西川甚一といったかナ、彼は気丈に大丈夫ですといったが衛生班へ下げて続行した。樹上の狙撃兵は射殺したと思った。その後一日か二日かかってタケゴン到着。
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話が前後するが俘虜輸送の前四月下旬シンガポールに置いて来た荷物をメダンへ引取りに日帰りでトラック五両で行った時、港の集積場の中央に大きな塔が樹っていて「沼兵団集積場」となっていたので沼兵団は故郷の部隊だ、誰か何か情報が手に入るやも知れんと思って、私の部下に小休止、但し、車輪を離れるべからすと厳命して沼兵団の宿舎を尋ねた処三島銃砲部隊の留守残留隊で出て来たのが郷里の隣組三〇〇メートル隣の宿島仁作君、私より二才下級生、昨年の初年兵でスマトラ上陸から目下ニューギニア作戦の出撃中で私の従兄弟曽根兵長は前線だが元気で活躍中と思いもよらぬ奇遇に抱き合って健康を喜んだ次第。二千キロメートル離れた異国でしかも命のやりとりをしている身で神様先祖様の御導きと思って感激した。お互いの武運を祈り乍ら握手して別れた。ラパール作戦ではみんな戦地で昇天したと思って帰国後話した二人共我が家で待っていてくれて正に奇跡だ夢だと思った。
荷貨物を受領してロスマウエの部隊本部へ帰ったその夜四十二度の高熱でデング熱と判定され斉藤軍医の手厚い看護を戴いた。一週間の発熱で平熱に戻った処で部署について作戦に参画したが八年間の野戦勤務で大部分の人がマラリヤ熱を患っているのに私はマラリヤに罹らなかった事は稀有で、斉藤軍医のご指導に依る事とずっと感謝いたしております。その斉藤軍医は東京都中野区で帰国後元通り玄関を開かれ斉藤医院を経営していらっしゃいましたが間もなく過労で亡くなられた事を伺いましてお参りいたしましたが遂にお礼の話は昇天された先生の御霊とのお話でした。自動車班長の大川中尉と斉藤軍医中尉は司令部内でも格別親密な間柄で出掛られる時等よくお供をいたしましたので今でも当時の事を考えますと胸が痛くなります。
停虜輸送が終わりまして間もなく、時間を作って軍事訓練をしていましたが或る日演習を終え点呼をして異常なしとて帰隊した処、岡野一等兵が弾薬盆を一個演習で失ったという報告が来ましたので本人と戦友の神山を呼び出し、神山に側車(サイドカー)を運転させ私がサイドに乗り岡野を神山の後に乗せて出発して鉄道沿いの道路を行きました。道路の両側は線路を作る時線路の両側を掘って土盛りをして両側は深さ一メートル位の堀になっていました。
十五キロ位いった処で道路が線路を左側へ渡って又併行して走っていたのですが、列車は来ていませんので神山は線路を横ぎるべく道路通りに左へハンドルを切った処、岡野がカーのチェンジレバーを引いてサイドカーのギヤを入れてしまったので「カー」は直進しかできないのですがそこで踏切りでスピードは落ちていましたが神山はハンドルまっさかさまが切れなくなった現況把握出来なくて車はカーの前進圧力で車を右へ倒してしまい莫逆様(まっさかさま)に掘り割りの川へ頭から突込み、運転手の後に乗っていた岡野は飛ばされて川から直ぐ出られたが後で判りましたが突っ込んだカーの私は沼の中へ頭が突っ込んでまず二人の事が気になり、カーのボデーをたたいて返付を待ったが応答なし。私もドロ沼へ逆さにはまり込んだ中、運転手の神山はほうり出されればそんな深い川ではなし、流れが殆どない堀だから助かるかも知れんと少し息をするとズルズルッと沼がのどを通るのが判るのでこれが最後だナと決心をしたのです。どれ位の時間何分程か判りませんがカーが引張られて水上へ出たので十人位の現地の人達がやってくれたのです。ほうり出された岡野が助けを求めて現地の人達に助けられたのですが、運転手の神山もほうり出されて水ですので怪我もなく私もどこも痛まず唯肺に入って行った沼のドロドロはどうなるのかナと気になりましたが後何分か遅れたら当然不帰の身だったナと実感いたしました。岡野に側車に関する知識がなかった事を教育の不足不備と自覚し、報告もし自覚も致しました。泥沼が呼吸出来ない苦しさでズルツ、ズルツ、とのどを動くのを今でも実感いたします。三回程生命の危険を感じた危機がありましたがこの事件が最も厳しい事象でした。弾薬盒は発見できまして岡野も助かりました。
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私が勤めていた会社の社長の従兄弟に宮内庁に勤めている方がいらっしゃって私の出征をきかれてその大山侍従から皇太后陛下のお手造りになる御守護を授受致し身につけておりましたが終戦時作戦の責任を問い晴れて持ち物を深化に調べた時、この御守護がどう探しても見当たりませんのでその後ずっと気にかかっていましたが今迄の記録を書き乍らこの時私がせまい水中間でひょっとしてもがいていた身から私を助けて下さったのは皇太后陛下から賜った御守護神であったのかと初めて何十年かの謎が解かれた様に心に染み入って来る心地で筆を握りしめました。
その翌年六月北スマトラ警備の任務から次の作戦の為赤道直下で年間平均気温が十八度~二十三度という冬と夏のない避暑地ブラスタギーへ雲の上人として約一年半過しました。すべて原始の世界、竹の家で暮らしました。近くに湖がありまして一帯が演習場で最後の学徒動員で出征して来た人達が綜合訓練をいたしました。その前に昭和十七年八月に召集年令九年兵三年兵が内地へ帰還除隊いたしました。部隊の自動車隊の教官で私の大変お世話になった大川中尉、司令部自動車班の北村軍曹外古年兵が内地の土を踏んだ訳ですがこの方々の大半が帰国早々北東辺海の離島守備隊、再召集で出陣されて間もない春、殆ど大部分の人が全員が華々しく散華されたのです。「一足先に凱旋で悪いナア」と満面の笑みをたたえて郷里へ喜びのさめぬ間のアッツ島玉砕は私達戦友はニュースを聞いて本当に辛かった。私はあれから六十余年の今人間の生死の摩訶不思議なる夢見る心地で思い起こしている。
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秋、九月学徒動員で戦地へ到着した新兵司令部で教育計画が出来ていてトーバ湖畔で部隊全部の教育、打上げに近くの山(私の記憶では「シナブン山」といったと思っていますが今地図をみますと載っていないので活火山シナプンザンとして)へ午後から登り本部直轄部隊のなかで計三百名位だったと思いますが競争で登り(軽装備で)登りは二十番、下りは四番目でしたが私の最高に張切っていた頃でしょうか。二千数百メートルの山ですが中腹位の処に宿舎がありましたが、でもきつい行軍でして夕方四時頃終了、宿舎に入って自室は我が班四十名は廊下を隔てていて反対の位置に班長室があり個室ですが夜中に猛烈な腹痛に見舞ゎれ、大きな声が出ないので暫らくして不寝番が廻って来たので事情を話して医務室へ連絡してもらって軍医さんに診察してもらい過労からの腹膜炎との事、痛み止めをしてもらって翌朝陸軍病院へ行き入院。その為に数日後のアンダマン諸島への展開に間に合わなくなって駆逐艦は出発。その為に数日後のアンダマン島の埠頭に武力上陸の予定に乗れなくなってしまった。
二ケ月入院して留守隊がいましたので戻った処「班長が退院したお祝いをしよう」となり、その夜叉熱を出して病院に逆戻り。軍医にしぼられたがそのまま手術室へ連れて行かれてお尻からイルリガートル一本下剤をやられ手術室中糞まみれの状態にして面目なし。軍医は乱暴だが正解だった。スッキリ痛みもとれ翌日退院しアンダマン行きの次の便を調べたら司令部着任の調理師三名の便があるというので便船頼んだのが五十トンの便船だ。かえってこの方が潜水艦にねらわれないという。その通りだろう。アンダマン島は英軍のインド洋艦隊に月二回毎月攻撃されている。旗艦は巡洋艦航空母艦を一隻持っていて月二回必ず艦砲射撃をやり続けて艦上よりの掩護を受けて艦載機(グラマンだろう)が地上掃射をして約一時間半位の攻撃が終了。ここには海軍第二特別根拠地隊司令部がアンダマン、ニコパルの両島島嶼の海を護っていたがアンダマンの要塞一つは駆逐艦の猛攻を受けて全滅した。北方近くビルマの南端連合軍の海軍もアンダマンの基地化を恐れて必死だ。アンダマン島を遠くから見ると立派な数階建のビルが一杯だ。これが英国が印度ビルマの統治に反対した者を投獄した刑務所だ。
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日本軍は南西アジア攻略のための基地にニコパル諸島(サンゴ礁)を死守。我が第三十五旅団を新規に興して我々が先進してここ迄来たのである。東京から一番遠距離の占領地だと思う。
話がそれましたが私は調理師三名と行を供にし、メダンから四昼夜の行程を出発した。大波にゆられて文字通り木の葉の如く、これでは潜水艦も相手にせぬだろうと思った。さて、それで考えたのが彼等持参の麻雀牌だ。時間つぶしに持ってこいのアイデアだった。久しぶりの麻雀という事も気に入った事だった。
丸四日でアンダマン島埠頭に到着。出迎えてくれた事で山上の司令部へ。彼等は海軍司令部へいよいよアンダマン島奮戦記が始まる。前に申しました通りここは刑務所で住民も殆どかつての受刑者との事。印度洋の東南部の群島で基地としての要地として占領したが英印軍は反撃の基地としてアンダマン、ニコパル諸島の奪還を策し、月二回二十数隻(内一隻航空母艦)で艦砲射撃攻撃を行い、私も上陸後数回グラマンの地上掃射をタコツボの塹壕の中で受けた。実害は少なかったと思う。後に申しますが私が戦犯としてキャンプに収容されたのはこの戦況の緊迫して来た状況が原因ですが後記いたします。
私がアンダマン司令部へ到着した頃、陸軍航空隊のいわゆるゼロ戦部隊の一部が司令部近くの飛行場に数機待機していました。熱帯の飛行場は熱砂のど真中、日中、航空兵は裸でおりました。
ビルマ作戦中のアンダマン飛行場は敵にしてみれば咽喉へヒ首(あいくち)を当てられている様な地形上危険な地。毎日偵察飛行で毎月インド洋艦隊で攻撃してくる現況が、それを物語っていますが、私が着任して間もない頃、敵重爆撃機二機を我がゼロ戦が撃墜し、内一機が陸上に墜落していて修理班がそのエンジンを回収して自動車の修理部晶として大変効果を上げたのであります。その時の逸話に地上五千メートル以上の上空の活動は防寒用具で身を固めて軍務に着いていたのに敵機襲来のサイレンから一秒でも早く飛び出さないと敵機を捕捉できないゼロ戦の操縦士はゲタばき半袖シャツ一枚殆ど裸で敵機に喰らいついた。四千メートル位上空の敵機を落とす事は神業という外なしの状態でよく落としてくれたと感涙でした。そして、その敵の乗員をみれば半袖半ズボンサンダルばき。「鳴呼英軍も搭乗服も防寒具もなくなったのか。よしもう少しだ。」と大声を上げて戦果をたたえた事だったが、後に考えられた事は当時の戦闘機の整備が四千メートル極寒の作戦に敵は暖房設備を機に備えていた。そう気づいて話し合った事でした。我々は出征以来いずれの作戦でも一回も敗けた事はない全勝の記線をアンダマンでも樹立すると、そう心に決めたのである。
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もう一つ悲しい想い出がある。スマトラ島上陸作戦が成功し全島制覇して守備体制を整えた時、部隊本部の近くの部落で不平分子の五百名程が教会へ立て籠もって不穏な動きがあるという情報が入って調査に入った処、元来アチエ州はオランダ政府に反発して反オランダ作戦を犯した前科がある地方。その点は承知の上で対応して来たのに今回の独立運動もこの際一気にやろうという過激の煽動が明らかだという事になり、軍の圧力で解散させようと部隊長と旗衛兵、通信隊、情報関係で第五中隊の主力を以って昭和十七年一月十日バイユ村を包囲して即時解散する様宣撫班を交渉に立て説得したが次第に激昂して蕃刀をふり廻し乍ら前進して来た。丁度稲田は田植え後の水を一杯張った状態で細い畦道に最前線に一人の影、裸足の彼等は田の中を横に並んで前進して来て、一番右翼の兵隊がやられそうになったので私の前の軽機関銃から援護射撃をした。それがきっかけとなって対峙していた部分で蕃刀をふり廻してかかって来た彼等と衝突止むを得ず軽機関銃の一斉掃射となり双方に死傷者を出した。街道は一本、自動車は五台程だった様に記憶しているが彼等と殆ど対時しているので小銃を発する術は当初なかった。元々イスラム教徒の反抗だったので宣撫して解散させる作戦だったので捨身の彼等ど白兵戦になってしまった事は予期せざる最悪事態になって機関銃も指揮官の五中隊長も苦慮した事をよく推察出来た処だ。
路上の両者は入り乱れて彼等の中に取り込まれた兵は無残だと、唯そのすさまじい激闘の最後をどうする事も出来ない現場をうらみ悲しんだ。一瞬の出来事だった死に物狂いのイスラム教徒の神に対する身を捨てて果てて行った人達の精神力は戦闘兵力よりすさまじいものを実感した。
道路側の溝へ死者や負傷者を引き下し自動車で負傷者を応急手当てした者から部隊医務室へ送り、暮色に包まれた一帯は血なまぐさい風で覆われ、その凄惨さは私の経験の中で最悪のものとして今も消え去る事のない悪の権化としてこびりついている。この時の戦死者四名、負傷者三十二名、その中で船越軍曹、剣道二段軍旗護衛隊長で全身三十数ヶ所の切傷を受けられ重傷であったが、その後病院の手当よく完治され今でも年賀状を戴く大切な戦友。愛媛県善通寺にお住居。私の部下森田一等兵は全身切傷で即死なされました。二名の.負傷者は全快帰省された。
バイユ事件は首謀者を追って作戦が続行され首謀者をジャングルに追い詰めて乱戦の末、逮捕しバイユ事件は作戦終了いたしました。
今日現在も同族が血で血を洗う悲劇がアフリカや西アジアでも発生しております。国連で取上げるべき重要な課題です。有力国が特権で取上げず放置してありますが、これを議題として地球防衛の最大最重要議題としてその他の国が力を合わせて地球を楽園にするための機関になる様な運動を起し解決していく道を大至急作っていただきたい。議決権を持っている国はその責任を負うべきです。
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我が軍約二万は私が到着した当時全員で防衛の為の陣地構築で早朝兵員を自動車で海岸線の陣地へ輸送、夕方宿舎へ送還のくり返しでした。
任務で調べましたが岩盤を手掘りで敵の上陸を阻止する為の陣地造りは人間の思考力、判断力、希望を抹殺してしまいます、と現状を見まして深夜脱出して死を選んだ人が数名あったと聞きましたが余程の信念を持たないと耐え難い苦境だったと今でも絶対に戦争を起したり考えたりしてはならんと私が徹しているのはこの現状を思い出すから、その悲惨さ非人道さを繰返す事の許し難い行為を作り出すからです。
何故アンダマン、ニコパルを死守するかといいますと、アンダマンは全島が小高い山で出来ていますが港湾があります。ニコパル諸島はサンゴ礁で平地で滑走路が遠隔地へ飛べる条件に叶っているので敵に渡す事の出来ない基地であった訳です。アンダマンはニコパルの防衛の基地であった訳です。アンダマンへは毎夜爆撃機が来ていました。攻撃と偵察とスパイとの連絡が任務です。対岸ビルマ、印度とは潮流の関係で季節に依ってボートでも小舟でもエンジンなしでアンダマンへは交通が可能でした。その潮流を利用してスパイは入り込み信号弾を使って情報伝達が出来ていました。昭和十九年二十年に入って敵前上陸を含め九月十五日を実行日と決めて空中からチラシを播く様になりました。そしてスパイの活動が積極的になりました。それで陸、海軍司令部は戦略会議を臨む様になりました。
海軍十二特根司令部は八月に命の綱としていました四発水上爆撃機二機をサイパン攻撃作戦に出撃させました。弱体の海軍としては決死の覚悟で送り出したと思いますがそこ迄追いつめられたかと私は痛感いたしました。それから間もなく司令部ではリストに載っているスパイ全員を逮捕する作戦に入る事になりまして陸軍の作業隊(建築)より隊長以下十二名、我が自動車班より十一名計二十三名で特務機関の名簿により検挙に入りました。八月八日から三日間だったと思いますが少し不確実な思いもいたしますが、敵の上陸間近かと考えて実施に入りました。近日来夜間の信号灯等が激しくなった事もあります。百五十~六十名位捕えた様に記憶していますが私が十名を選んで作戦隊長田村大尉の下に参り完了いたしました。