私の従軍記 飯塚 定次 2
投稿ツリー
-
私の従軍記 飯塚 定次 (編集者, 2015/3/30 8:56)
- 私の従軍記 飯塚 定次 2 (編集者, 2015/3/31 6:39)
- 私の従軍記 飯塚 定次 3 (編集者, 2015/4/1 7:55)
- 私の従軍記 飯塚 定次 4 (編集者, 2015/4/2 7:34)
- 私の従軍記 飯塚 定次 5 (編集者, 2015/4/3 6:45)
- 私の従軍記 飯塚 定次 6 (編集者, 2015/4/4 8:14)
- 私の従軍記 飯塚 定次 7 (編集者, 2015/4/5 8:58)
- 私の従軍記 飯塚 定次 8 (編集者, 2015/4/6 8:18)
- 私の従軍記 飯塚 定次 9 (編集者, 2015/4/7 8:32)
- 私の従軍記 飯塚 定次 10 (編集者, 2015/4/8 6:38)
- 私の従軍記 飯塚 定次 11 (編集者, 2015/4/9 6:36)
- 私の従軍記 飯塚 定次 12 (編集者, 2015/4/12 21:15)
- 私の従軍記 飯塚 定次 13 (編集者, 2015/4/14 6:16)
- 私の従軍記 飯塚 定次 14(最終回) (編集者, 2015/4/15 6:41)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
廣東には二~三日滞在し私外四名計五名の新兵は廣西省欽県に進み、ここで編入される部隊、独立自動車第一八五中隊、隊長長谷川中尉の下に参加すべく待機。四月六日頃だったと思う、南寧に布陣していた近衛師団司令部へ向って出発した。街道は百五十キロメートルの間、戦車壕で寸断されていて軍馬の死骸は未だそのまま放置されていた。数日前此の街道で敵機に襲撃され道路沿いの河中に散開して身をかくしたが執拗な敵機は離れず、反復攻撃し夜間迄水中で難を逃れたと云う。その第一日目、最初の野営の午後八時頃大河の向側の山の中腹から夜襲を受け、急遽壕に入り応戦した。三十分位かなと思った。一時間位で戻った。まず戦地へ入ったと実感した。翌日敵機襲撃の現場を通り翌々日、南寧到着。申告すませて間もなく竹田小隊長より、明日、命令受領者随員として出張を命ぜられた。部隊みんなから羨望のヤジが飛んだ。これは任務を全うして一日休暇が出るので社会の風に浸る事が出来るからと判った。
私には無用だったが、先任の用事がすむ迄待って帰隊。ところが部隊復帰と同時に小隊長に呼ばれ、「飯塚は即、本部書記を命ずる。」と辞令を受けて欽県の長谷川部隊本部へ服務した。部隊本部は民間の三階建煉瓦造りを徴用していた。部隊は七、八百メートル離れていて、営庭で吹くラッパも殆ど聞えず、朝五時前に起きて上官(事務関係の准士官下士官)の世話をした。水は五百メートル離れた処にいた久能兵団司令部の井戸迄天秤で二回汲みに行った。南支那方面には当時、この兵団以外に九州の兵団と近衛師団の三箇軍団で第二十五軍の主力をなしていた。十万以上の戦力で間もなく東南アジアへ進出して行ったのである。
長谷川部隊は兵站自動車第一八五部隊で従来、馬が担当していた輸送、兵員兵具食料等の補給が任務である。私個人は戦時日誌、日々の行動戦歴をコピーして本国の軍司令部、部隊本部等々二十五ヶ所へ日誌として発送するのですが、現在の様にコンピューターがある訳ではなく全部手作業でガリ版刷りで仕上げるのでかなりの仕事量だ。
予備役応召の一色兵長に親切にご指導いただいた。とにかく本部に五十名余の処へ初年兵は私一人だけ。将校には当番が一名ついていますから良いが下士官伍長から曹長迄は当番がついていないので全部私の処へ廻って来る。朝四時に自律起床、六時に部隊の水事班に本部の朝食を受領に行ってくる。下士官の洗面の支度、兵器の手入れ、靴の手入れ、これだけ朝の特注作業だ。上級下士官(曹長)五名の洗面は井戸水を汲んで来たのを一度滅菌の意味で沸かして、それを冷やして用意した。夜、就寝は十二時。正味睡眠は三時間半位、それが四月二十九日着任から十月の大移動(国内国外全部の組織変更。これを第七六次の編成改正と号した)。
今迄は軍馬が大砲も兵員も移動手段だったが昭和十五年十月から自動車が兵器として編成されて長谷川部隊は近衛師団の機械化に編成され、私は崎口准尉(人事担当)の業務も助手として特に自動車班の編成についてお手伝いし、近衛第二師団第三聯隊と第四聯隊へ転属編入の手続を執った。私は第三聯隊本部へ崎口准尉と全部の手続を終了した時点で近衛師団司令部へ手続きを済ませ、歩兵第三聯隊本部へ参り転属の手続きをすませ、本部自動車班四十数名の班長は新任の大川中尉(満州の第一連隊から赴任)、内務班長は予備役(昭和八年兵軍曹)内務四班編成、私は第四班長と聯隊本部教育係として聯隊全体の自動車班の教育係大川中尉の助手を命ぜられ、新編成の聯隊本部、第一、第二、第三各大隊の自動車教育が始まった。第三聯隊は第一へ田中少尉、第二へ平塚中尉、第三へ竹田少尉が、崎口准尉は兵器班の修理班長として、私の処へも内務班新兵(民間の運転手をしていた召集兵)、補充兵、新兵と大所帯となりました。軍隊の組織が新兵器による新装備で私のような外様は肩身がせまい処ですが新しい任務が生じて階級に合致しない上下の関係が生じ、特に聯隊本部とか旅団本部、師団司令部は任務に依って変則的な部署が出来上っていました。