私の従軍記 飯塚 定次 5
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私の従軍記 飯塚 定次 (編集者, 2015/3/30 8:56)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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話が前後するが俘虜輸送の前四月下旬シンガポールに置いて来た荷物をメダンへ引取りに日帰りでトラック五両で行った時、港の集積場の中央に大きな塔が樹っていて「沼兵団集積場」となっていたので沼兵団は故郷の部隊だ、誰か何か情報が手に入るやも知れんと思って、私の部下に小休止、但し、車輪を離れるべからすと厳命して沼兵団の宿舎を尋ねた処三島銃砲部隊の留守残留隊で出て来たのが郷里の隣組三〇〇メートル隣の宿島仁作君、私より二才下級生、昨年の初年兵でスマトラ上陸から目下ニューギニア作戦の出撃中で私の従兄弟曽根兵長は前線だが元気で活躍中と思いもよらぬ奇遇に抱き合って健康を喜んだ次第。二千キロメートル離れた異国でしかも命のやりとりをしている身で神様先祖様の御導きと思って感激した。お互いの武運を祈り乍ら握手して別れた。ラパール作戦ではみんな戦地で昇天したと思って帰国後話した二人共我が家で待っていてくれて正に奇跡だ夢だと思った。
荷貨物を受領してロスマウエの部隊本部へ帰ったその夜四十二度の高熱でデング熱と判定され斉藤軍医の手厚い看護を戴いた。一週間の発熱で平熱に戻った処で部署について作戦に参画したが八年間の野戦勤務で大部分の人がマラリヤ熱を患っているのに私はマラリヤに罹らなかった事は稀有で、斉藤軍医のご指導に依る事とずっと感謝いたしております。その斉藤軍医は東京都中野区で帰国後元通り玄関を開かれ斉藤医院を経営していらっしゃいましたが間もなく過労で亡くなられた事を伺いましてお参りいたしましたが遂にお礼の話は昇天された先生の御霊とのお話でした。自動車班長の大川中尉と斉藤軍医中尉は司令部内でも格別親密な間柄で出掛られる時等よくお供をいたしましたので今でも当時の事を考えますと胸が痛くなります。
停虜輸送が終わりまして間もなく、時間を作って軍事訓練をしていましたが或る日演習を終え点呼をして異常なしとて帰隊した処、岡野一等兵が弾薬盆を一個演習で失ったという報告が来ましたので本人と戦友の神山を呼び出し、神山に側車(サイドカー)を運転させ私がサイドに乗り岡野を神山の後に乗せて出発して鉄道沿いの道路を行きました。道路の両側は線路を作る時線路の両側を掘って土盛りをして両側は深さ一メートル位の堀になっていました。
十五キロ位いった処で道路が線路を左側へ渡って又併行して走っていたのですが、列車は来ていませんので神山は線路を横ぎるべく道路通りに左へハンドルを切った処、岡野がカーのチェンジレバーを引いてサイドカーのギヤを入れてしまったので「カー」は直進しかできないのですがそこで踏切りでスピードは落ちていましたが神山はハンドルまっさかさまが切れなくなった現況把握出来なくて車はカーの前進圧力で車を右へ倒してしまい莫逆様(まっさかさま)に掘り割りの川へ頭から突込み、運転手の後に乗っていた岡野は飛ばされて川から直ぐ出られたが後で判りましたが突っ込んだカーの私は沼の中へ頭が突っ込んでまず二人の事が気になり、カーのボデーをたたいて返付を待ったが応答なし。私もドロ沼へ逆さにはまり込んだ中、運転手の神山はほうり出されればそんな深い川ではなし、流れが殆どない堀だから助かるかも知れんと少し息をするとズルズルッと沼がのどを通るのが判るのでこれが最後だナと決心をしたのです。どれ位の時間何分程か判りませんがカーが引張られて水上へ出たので十人位の現地の人達がやってくれたのです。ほうり出された岡野が助けを求めて現地の人達に助けられたのですが、運転手の神山もほうり出されて水ですので怪我もなく私もどこも痛まず唯肺に入って行った沼のドロドロはどうなるのかナと気になりましたが後何分か遅れたら当然不帰の身だったナと実感いたしました。岡野に側車に関する知識がなかった事を教育の不足不備と自覚し、報告もし自覚も致しました。泥沼が呼吸出来ない苦しさでズルツ、ズルツ、とのどを動くのを今でも実感いたします。三回程生命の危険を感じた危機がありましたがこの事件が最も厳しい事象でした。弾薬盒は発見できまして岡野も助かりました。