私の従軍記 飯塚 定次 8
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日本軍は南西アジア攻略のための基地にニコパル諸島(サンゴ礁)を死守。我が第三十五旅団を新規に興して我々が先進してここ迄来たのである。東京から一番遠距離の占領地だと思う。
話がそれましたが私は調理師三名と行を供にし、メダンから四昼夜の行程を出発した。大波にゆられて文字通り木の葉の如く、これでは潜水艦も相手にせぬだろうと思った。さて、それで考えたのが彼等持参の麻雀牌だ。時間つぶしに持ってこいのアイデアだった。久しぶりの麻雀という事も気に入った事だった。
丸四日でアンダマン島埠頭に到着。出迎えてくれた事で山上の司令部へ。彼等は海軍司令部へいよいよアンダマン島奮戦記が始まる。前に申しました通りここは刑務所で住民も殆どかつての受刑者との事。印度洋の東南部の群島で基地としての要地として占領したが英印軍は反撃の基地としてアンダマン、ニコパル諸島の奪還を策し、月二回二十数隻(内一隻航空母艦)で艦砲射撃攻撃を行い、私も上陸後数回グラマンの地上掃射をタコツボの塹壕の中で受けた。実害は少なかったと思う。後に申しますが私が戦犯としてキャンプに収容されたのはこの戦況の緊迫して来た状況が原因ですが後記いたします。
私がアンダマン司令部へ到着した頃、陸軍航空隊のいわゆるゼロ戦部隊の一部が司令部近くの飛行場に数機待機していました。熱帯の飛行場は熱砂のど真中、日中、航空兵は裸でおりました。
ビルマ作戦中のアンダマン飛行場は敵にしてみれば咽喉へヒ首(あいくち)を当てられている様な地形上危険な地。毎日偵察飛行で毎月インド洋艦隊で攻撃してくる現況が、それを物語っていますが、私が着任して間もない頃、敵重爆撃機二機を我がゼロ戦が撃墜し、内一機が陸上に墜落していて修理班がそのエンジンを回収して自動車の修理部晶として大変効果を上げたのであります。その時の逸話に地上五千メートル以上の上空の活動は防寒用具で身を固めて軍務に着いていたのに敵機襲来のサイレンから一秒でも早く飛び出さないと敵機を捕捉できないゼロ戦の操縦士はゲタばき半袖シャツ一枚殆ど裸で敵機に喰らいついた。四千メートル位上空の敵機を落とす事は神業という外なしの状態でよく落としてくれたと感涙でした。そして、その敵の乗員をみれば半袖半ズボンサンダルばき。「鳴呼英軍も搭乗服も防寒具もなくなったのか。よしもう少しだ。」と大声を上げて戦果をたたえた事だったが、後に考えられた事は当時の戦闘機の整備が四千メートル極寒の作戦に敵は暖房設備を機に備えていた。そう気づいて話し合った事でした。我々は出征以来いずれの作戦でも一回も敗けた事はない全勝の記線をアンダマンでも樹立すると、そう心に決めたのである。