私の従軍記 飯塚 定次
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投稿日時 2015/3/30 8:56
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
はじめに
この記録の
メロウ伝承館への転載につきましは、飯塚 定次様のご了承を
いただいております。
メロウ伝承館スタッフ
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昭和十四年八月、胸ふくらませ徴兵検査を受ける為、故郷六合(現島田市)へ五年ぶりで帰ってきた。家を出る時、母に「お勤めはきびしからうが男子、家を出て一度志を樹(た)てたなら自らが足で立つ力を備えて何の某と名乗る迄は此の家の敷居はまたぐまじ」と亡き父のいる佛壇の前で私の顔を穴のあく程ひきしまった顔で門出のあいさつに応えてくれた母の顔をじっと見つめて、大きく、無言で頭を下げた。
五年ぶりで迎えてくれた母や妹弟兄嫁達が涙を流し乍(なが)ら歓迎してくれた。
三年程前、名古屋市中区住吉町の松屋写真館で写真をとり家宛に「比の通り元気です」と母や家族に手紙を添えて便りしていたが、母に身を樹てずに家へ帰るなといわれて初めての家だったのでうれしかったが、徴兵検査のための里帰りだから逃げ帰ったわけではないと自身にいい聞かせ乍ら亡き父にも母にも挨拶し、「今度は兄さんのような体格でないから判らないが国の一大事、父や兄と同じ様に軍人としての務めを果たす様、決心をして明日に臨む」と母に申し上げた。母は、「その体では平時なら無理だらうが、戦時の事なれば男はみんな戦場へ立つ事と覚悟していなさい。」と云ってくれて、昔、父が日露戦争にあたって応召して明治三十八年二月第三師団乃木大将の率いる第二軍に参戦、旅順攻撃の激戦に厳冬の野戦で伏せて数分の間に軍服が地面に凍てつき服が破れてしまった事を、「生涯誓って『寒い』というまい」と、父が生還して家人に話して、その通り生前決して「寒い」とはいわなかったと、その父の決心と、勲章をこの時母から心意気として持つ様みせてくれた事を思い出した。
二ケ月程して、役場から通達があって「第二乙種合格。入隊は昭和十四年十二月二十日」と、入隊は第三師団第三輜重聯隊とあった。当時、名古屋の会社に勤務していたので縁というものを感じました。勤務先では二年先輩の出征があって二人目、みんなからも町内の方々からも「お目出度うございます、御苦労様です」とお祝いを受けました。郷里へ十二月十七日帰り、その日徹夜、村中の人達からお祝いを戴き、友人、知己、親戚等々挨拶とお酒に徹夜で攻められて、朝の挨拶は両脇を友人に支えられて杉の葉で飾られた門の前で真当(まっとう)な挨拶もできない程酪酎して徹夜の宴席止むを得ないと恥かし乍ら自戒の中、「恥ない御奉公を致します」といって万歳で村境の川の橋迄、大勢の方々に送られ出発。名古屋の会社へ入り二十日の朝、又名古屋の会社の人達、町内会、婦人会、青年学校等の大勢の方々に送られて入隊いたしました。
そして、昭和十四年兵、新兵四千人程と第一期の教育、凡ゆる初年兵教育を受けました。
そして、ここでも人間関係の縁というものを痛感いたしました。知らない他人なのですが隊長の田中見習士官が浜松の方、この方とは野戦でもずっと同じ部隊でした。そして、教育係助手として佐々見習士官、此の方が早大出の方で教育期間中、大変きめ細かく個人的に応援して下さいまして楽しい教育期間をすごしました。もう一人班長の早川伍長が静岡出身の方で班長室は同じ建屋の隣室ですので大声の日常がすべて判る訳です。それで共同制裁を受けそうな雲行になると班長室から大きな声「おい飯塚ちょっと来い」と呼ばれるので恐い教育係助手達は「おい飯塚、班長がお呼びだ。いって来い」となりまして必ずピンチを救って下さいました。うれしくてありがたくて益々精励克己いたしました。
三ケ月の研修期間が満期、愈々(いよいよ)出征となったのですが、私は教育係として残る事になりました。それで班長に頼みましたが命令だからというのです。私は身体が弱く医師から小学生の時から長生きは無理といわれ、小学生三年生の時から運動を止められた体ですので戦争に出会い国家の為にこの身体を捧げようと決めていたのです。それが内地に残って教育係では靖国神社へ行けません。どうしても身命を国に捧げて親孝行をすると決めていた事に違反することになるのです。それで教育係長をして下さった田中少尉殿に直談判して田中隊長も御一緒に戦地へ発たれる事になっていましたので強くお願いして私の代わりの方を出征名簿の中から四百分の一、何かの理由で残りたい方、事情のある方を選んで戴いて戦地へ私をつれて行って下さいと懇願いたしました。出発直前になって田中隊長の処へ編成された一人を繰替えて御一緒に戦地へ発つ仲間に入れてもらいました。願いが叶いました。私は武者震いして自分の前途に乾杯いたしました。
昭和十五年三月二十三日午後十一時営門出発、大勢の方々に見送られ三千名(四千名だったか?)名古屋駅迄徒歩行進。深夜の東海道線を西下し、早朝の名古屋港から輸送船(貨物船)に乗船して大陸に向って時速五ノットといふ最低スピードで海南島に立寄り、三月三十日廣東港に入航上陸いたし、配属先へ分かれて行った。この間、船内では二百名を単位に班が編成され、私も二百名の同志を預かる班長を命ぜられ、船内の行動を指揮した。船よいで何も食べないので酒保でリンゴを木箱一ケース買い、これをかじって八日間過ごした。