私の従軍記 飯塚 定次 10
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編集者
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我が軍約二万は私が到着した当時全員で防衛の為の陣地構築で早朝兵員を自動車で海岸線の陣地へ輸送、夕方宿舎へ送還のくり返しでした。
任務で調べましたが岩盤を手掘りで敵の上陸を阻止する為の陣地造りは人間の思考力、判断力、希望を抹殺してしまいます、と現状を見まして深夜脱出して死を選んだ人が数名あったと聞きましたが余程の信念を持たないと耐え難い苦境だったと今でも絶対に戦争を起したり考えたりしてはならんと私が徹しているのはこの現状を思い出すから、その悲惨さ非人道さを繰返す事の許し難い行為を作り出すからです。
何故アンダマン、ニコパルを死守するかといいますと、アンダマンは全島が小高い山で出来ていますが港湾があります。ニコパル諸島はサンゴ礁で平地で滑走路が遠隔地へ飛べる条件に叶っているので敵に渡す事の出来ない基地であった訳です。アンダマンはニコパルの防衛の基地であった訳です。アンダマンへは毎夜爆撃機が来ていました。攻撃と偵察とスパイとの連絡が任務です。対岸ビルマ、印度とは潮流の関係で季節に依ってボートでも小舟でもエンジンなしでアンダマンへは交通が可能でした。その潮流を利用してスパイは入り込み信号弾を使って情報伝達が出来ていました。昭和十九年二十年に入って敵前上陸を含め九月十五日を実行日と決めて空中からチラシを播く様になりました。そしてスパイの活動が積極的になりました。それで陸、海軍司令部は戦略会議を臨む様になりました。
海軍十二特根司令部は八月に命の綱としていました四発水上爆撃機二機をサイパン攻撃作戦に出撃させました。弱体の海軍としては決死の覚悟で送り出したと思いますがそこ迄追いつめられたかと私は痛感いたしました。それから間もなく司令部ではリストに載っているスパイ全員を逮捕する作戦に入る事になりまして陸軍の作業隊(建築)より隊長以下十二名、我が自動車班より十一名計二十三名で特務機関の名簿により検挙に入りました。八月八日から三日間だったと思いますが少し不確実な思いもいたしますが、敵の上陸間近かと考えて実施に入りました。近日来夜間の信号灯等が激しくなった事もあります。百五十~六十名位捕えた様に記憶していますが私が十名を選んで作戦隊長田村大尉の下に参り完了いたしました。