私の従軍記 飯塚 定次 7
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私の従軍記 飯塚 定次 (編集者, 2015/3/30 8:56)
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編集者
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秋、九月学徒動員で戦地へ到着した新兵司令部で教育計画が出来ていてトーバ湖畔で部隊全部の教育、打上げに近くの山(私の記憶では「シナブン山」といったと思っていますが今地図をみますと載っていないので活火山シナプンザンとして)へ午後から登り本部直轄部隊のなかで計三百名位だったと思いますが競争で登り(軽装備で)登りは二十番、下りは四番目でしたが私の最高に張切っていた頃でしょうか。二千数百メートルの山ですが中腹位の処に宿舎がありましたが、でもきつい行軍でして夕方四時頃終了、宿舎に入って自室は我が班四十名は廊下を隔てていて反対の位置に班長室があり個室ですが夜中に猛烈な腹痛に見舞ゎれ、大きな声が出ないので暫らくして不寝番が廻って来たので事情を話して医務室へ連絡してもらって軍医さんに診察してもらい過労からの腹膜炎との事、痛み止めをしてもらって翌朝陸軍病院へ行き入院。その為に数日後のアンダマン諸島への展開に間に合わなくなって駆逐艦は出発。その為に数日後のアンダマン島の埠頭に武力上陸の予定に乗れなくなってしまった。
二ケ月入院して留守隊がいましたので戻った処「班長が退院したお祝いをしよう」となり、その夜叉熱を出して病院に逆戻り。軍医にしぼられたがそのまま手術室へ連れて行かれてお尻からイルリガートル一本下剤をやられ手術室中糞まみれの状態にして面目なし。軍医は乱暴だが正解だった。スッキリ痛みもとれ翌日退院しアンダマン行きの次の便を調べたら司令部着任の調理師三名の便があるというので便船頼んだのが五十トンの便船だ。かえってこの方が潜水艦にねらわれないという。その通りだろう。アンダマン島は英軍のインド洋艦隊に月二回毎月攻撃されている。旗艦は巡洋艦航空母艦を一隻持っていて月二回必ず艦砲射撃をやり続けて艦上よりの掩護を受けて艦載機(グラマンだろう)が地上掃射をして約一時間半位の攻撃が終了。ここには海軍第二特別根拠地隊司令部がアンダマン、ニコパルの両島島嶼の海を護っていたがアンダマンの要塞一つは駆逐艦の猛攻を受けて全滅した。北方近くビルマの南端連合軍の海軍もアンダマンの基地化を恐れて必死だ。アンダマン島を遠くから見ると立派な数階建のビルが一杯だ。これが英国が印度ビルマの統治に反対した者を投獄した刑務所だ。