私の従軍記 飯塚 定次 9
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私の従軍記 飯塚 定次 (編集者, 2015/3/30 8:56)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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もう一つ悲しい想い出がある。スマトラ島上陸作戦が成功し全島制覇して守備体制を整えた時、部隊本部の近くの部落で不平分子の五百名程が教会へ立て籠もって不穏な動きがあるという情報が入って調査に入った処、元来アチエ州はオランダ政府に反発して反オランダ作戦を犯した前科がある地方。その点は承知の上で対応して来たのに今回の独立運動もこの際一気にやろうという過激の煽動が明らかだという事になり、軍の圧力で解散させようと部隊長と旗衛兵、通信隊、情報関係で第五中隊の主力を以って昭和十七年一月十日バイユ村を包囲して即時解散する様宣撫班を交渉に立て説得したが次第に激昂して蕃刀をふり廻し乍ら前進して来た。丁度稲田は田植え後の水を一杯張った状態で細い畦道に最前線に一人の影、裸足の彼等は田の中を横に並んで前進して来て、一番右翼の兵隊がやられそうになったので私の前の軽機関銃から援護射撃をした。それがきっかけとなって対峙していた部分で蕃刀をふり廻してかかって来た彼等と衝突止むを得ず軽機関銃の一斉掃射となり双方に死傷者を出した。街道は一本、自動車は五台程だった様に記憶しているが彼等と殆ど対時しているので小銃を発する術は当初なかった。元々イスラム教徒の反抗だったので宣撫して解散させる作戦だったので捨身の彼等ど白兵戦になってしまった事は予期せざる最悪事態になって機関銃も指揮官の五中隊長も苦慮した事をよく推察出来た処だ。
路上の両者は入り乱れて彼等の中に取り込まれた兵は無残だと、唯そのすさまじい激闘の最後をどうする事も出来ない現場をうらみ悲しんだ。一瞬の出来事だった死に物狂いのイスラム教徒の神に対する身を捨てて果てて行った人達の精神力は戦闘兵力よりすさまじいものを実感した。
道路側の溝へ死者や負傷者を引き下し自動車で負傷者を応急手当てした者から部隊医務室へ送り、暮色に包まれた一帯は血なまぐさい風で覆われ、その凄惨さは私の経験の中で最悪のものとして今も消え去る事のない悪の権化としてこびりついている。この時の戦死者四名、負傷者三十二名、その中で船越軍曹、剣道二段軍旗護衛隊長で全身三十数ヶ所の切傷を受けられ重傷であったが、その後病院の手当よく完治され今でも年賀状を戴く大切な戦友。愛媛県善通寺にお住居。私の部下森田一等兵は全身切傷で即死なされました。二名の.負傷者は全快帰省された。
バイユ事件は首謀者を追って作戦が続行され首謀者をジャングルに追い詰めて乱戦の末、逮捕しバイユ事件は作戦終了いたしました。
今日現在も同族が血で血を洗う悲劇がアフリカや西アジアでも発生しております。国連で取上げるべき重要な課題です。有力国が特権で取上げず放置してありますが、これを議題として地球防衛の最大最重要議題としてその他の国が力を合わせて地球を楽園にするための機関になる様な運動を起し解決していく道を大至急作っていただきたい。議決権を持っている国はその責任を負うべきです。