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心のふるさと・村松 第三集

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2015/10/29 17:41
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 スタッフより

 この投稿は、
  大 口 光 威 様
 のご了承を得て転載させていただくものです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

心のふるさと・村松 第三集
元少通生らが寄せる村松への思い

 第十期生徒 佐藤 嘉道
 第十期生徒 大口 光威


一、村松少通校の教育
 村松少通校について本誌は、先にその第一集に於いて、村松少通校の教育が、どのような考えの下に、どのような仕組みで行われたかについて、当時の教官(区隊長)であった渡部善男氏に「村松と私、思い出す儘に」として、綴って頂くと共に、続く第二集に於いて、幻の教本とも言われた「村松陸軍少年通信兵學校生徒心得」の抜粋を復元することによって、学校側が将来の幹部を目指す生徒達をどのように育成しようとしていたかを、教官と生徒の関係などを中心に明らかにしました。

 しかし一方、これらの記述では、具体的に、同校で行われた教育の内容はどういうもので、どのような行事の下に行われたかは明らかにされておらず、この点、今回は、記録として残す意味で、以下に、私(大口)と六中隊四区隊で枕を並べあった戦友の小林龍馬氏(戦後、立命館大学教授として国際金融論等の分野で活躍)が綴った文章を再掲してみます。


教育科目の概要と同校に於ける行事略年表
             十二期  小 林 龍 馬
(一)、教育科目の概略
 軍学校では通常、座学と術科・演習及び服務に分かれている。座学には普通学と軍事に関わる科目により成る。通信学校生徒隊→少年通信兵の在籍期間は通常二カ年で第一年は基礎課程で国語、数学、歴史、電磁気学、通信修技、器材取扱いであり、第二年で応用に入って実戦に即した野外通信訓練、行軍、索敵、露営の陣中勤務と二年後半で必要な服務要項と戦術教育をさずけるとなっていたが、戦争状況の急迫がつげられると、在籍期間も短縮されるようになった。九期生の一カ月短縮にはじまり、以後、十期が約六カ月、十一期の一部は一年足らずで卒業して戦地におもむいた。

 これら諸科目の中、重点的に教育された科目は何と云っても通信修技であり、電磁気学であった。それは通信兵の基本科目であったからである。
 學科始めが午前八時から開始されたかどうか不明であるが、午前に三段(一時間目と呼ばず、一段、二段、三段)とし、午後も三段(四段、五段、六段)と一日、六時間(六段)と区切られていた。一段の正味時間は恐らく五十分刻みではなかったかと思われる。ただし、同一内容の科目、例えば通信所勤務などであれば通して行われたようである。段と段の間に休憩が入ったことも記憶にある。

 又、休日も毎日休みではなく、月に終日休み一回、半日休二回の回数であったが、三種混合注射を受けた後とか、夜間演習、長時間演習を行なった場合は翌日、休業となることもあった。

 さて、国語、歴史などの内容については余り記憶が定かではない。
 ただ文官教授により、軍人勅諭の解釈が講述された。
 したがって、歴史といっても勅諭の前文に関わって国史の一部を習わった様に思われる。数学については主に電磁波や通信器材の内部の周波数の関係からか三角函数が主に教授された。全体的に生徒の理解度が充分でなかった為か、教授の方法は繰り返し教育がなされたし、講堂以外に内務班にまで教授が足を運ばれ質問に答えられていた。時間表の一部を見ると、後期にも特別一段(一時間)を割いて、数学の授業があった程である。語学は敵性語ということで一切講義されてない。陸士の受験科目も昭和十五年以後に受験科目対象から外されている。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/1 9:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ア、典範令教育

 典範令とは衆知のように、我々であれば「通信兵操典」、「通信教範」、「軍隊内務令(書)」、「陸軍礼式令」「作戦要務令」などを総括していう。これらは軍人として共通して理解しておくべきことがらについてのマニアルと思えばよい。

 とりわけ軍隊内務書と陸軍礼式令は入校後、直ちに教えられる科目である。これらの内容やその他兵器の取扱い法は、抜粋して理解し易いように学校で独自に編集された配布文書(今でいうガイドブック)があったように思われるが原本がないので不詳である。例えば、生徒の外出制限区域として蒲原鉄道の今泉までは許可されるが、五泉や新津は不可であったことを記述した本があった。これは「生徒心得」のガイドブックであったかも知れない。

 さきにも述べたように軍隊内務令や陸軍礼式令、さらに通信兵操典など日常の起居・學習・服務について支障のない最低限のことを教育されると、後は主として「通信教範」に依っていた。「通信教範」は総則にはじまる第一部から第五部まであったが全部教わった訳ではない。ただ別冊があって、これは暗号の組立て、解読教育の為に用いられたが、軍事秘密に属するから、個人所有は認められず、暗号教育の授業の場合には、冊数を数えて木箱に入れ講堂に持ちはこびしたものである。十九年から二十年にかけて一~二度、組立て法が変更された。

 通信教範は漸次改訂されたが、その原点はいつ頃から規定されていたのか不明である。目下の資料によれば、昭和九年教育総監部から出された「歩兵通信教育規定」がその最初ではないかとも考えられる。この規定は有線が主で、無線については同規定第十三に「無線電信通信二関シテハ『歩兵無線電信通信教育規定』及『通信隊無線電信通信教育規定』ニ拠ル」と記されているのみで、この無線に関する資料は未見であるから判断の仕様がない。昭和十三年「諸兵通信法教範草案」が、つづいて昭和十六年 通信教範抜粋 総則及第一部」が教育総監部で編集され、最後に「通信教範」総則及第一部として刊行された。この第一編通信修技にもとづいて送受信技術が教えられたことになる。「通信教範」第二部以下は終戦時、全部焼却した。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/2 7:55
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ィ、通信修技

 我々十二期になると戦争も急迫を告げていたので、必要最低限のことしか教わらなかったようである。種々の少年通信兵に関する写真集をみると、ごく少人数でタイプライターを使用して受信修技を行なっている風景などがみられるが、我々の場合は、一コ区隊五十有余名を対象に教官(区隊長)又は助教(班長)が発振器によりスピーカーを通じてモールス通信符号を送信するものを習得した。モールス符号については合調音語、即ち、「伊藤」、「路上歩行」、「ハーモニカ」といった形で符号を憶えることはなかった。十一期の場合はイロハ仮名文字も教育されたと聞いているが、我々は軍用略数字だけを一先ず教えられた。軍用通信は四つの数字を一語とし、受信紙は一列十語(四十文字)で五欄あったから全部で二百の数字を送受信することになっていた。この数字に乱数表の数字を第二欄に記入し非加増(つまり次の位へ増加した数字を位上げしない方法)の数字を第三欄に記入する。暗号解読はこの方法で、組立ては逆の方法をとることになっていた。

 後に若干仮名符号を教育されたが、合調音語は想像受信を招くということで、似かよった符号を集めて逐次、符号を記憶させる方法がとられた。例えば「イ」、「ウ」、「ク」、「四」とか、「夕」、「ホ」、「ハ」、「六」といった類似符号集合組合法である。スピーカー受信修技から後に受話器着装による受信に変った。これは受話器の配布数が少なかったのか、通信講堂の施設が充分でなかったのか一応の受信技倆の向上をまってかは不明である。ただ誤字については減点が厳しく、一誤字につきマイナス十点、脱字はマイナス二点位であるから、誤字が十個出れば採点評価は○(零)点ということになる。クラスでプラス点をとる者は数人にも満たなかったようだ。マイナス二百点位でもましな方で、一つの符号にこだわって誤字脱字が続出すれば採点不能の烙印を押されることは初期の頃はざらにあった。

 送受信修技で、最初は受信から初められたと思うが、電鍵が各人に交付され、助教の発声で、一斉に行なった記憶は鮮明である。送信枝術について、当時、逓信省、逓信講習所では「按下式」という方法がとられていた。これは長符号の場合に、指先きで電鍵のツマミを押えるが、同時に手首も下部へ下ったままで押える方法をいう。これに対し、我々の習った方法は「反撥式」といって、指先きでツマミを押えながら、既に手首は元の正常の位置に復元している状態に戻すやり方である。理由は按下式であると、無線の場合、符号が明確に切れず、ネバつくためと聞いた。しかし、通信速度は按下式の方が速かったようだ。送信試験は印字機で行われるが、「初め」の号令がかかるまで胸が鼓動し、緊張の余り、手首が震えることがしばしばあった。その為に、入浴の際によく手首を振り、もむことを常に教官からいわれたものである。十一期の場合、通信修技の技倆の差からランク別に甲、乙、丙、丁と分かれ、それに応じて 特修が行なわれたようである。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/4 6:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 ウ、・電磁気学 (通信学理第一部)

 『通信学理』は四分冊から成り、昭和十六年教育総監部から公刊された。昭和十九年に百版を重ねている。第一分冊(第一編電磁気学)、第二分冊(第二編有線通信)、第三分冊(第三編無線通信)、第四分冊(第四編電源及発動機)となっている。我々は第二編を除いて学んだことになる。

 第一編電磁気学は基礎科目であり、教授部の教官について学んだ。電磁気学の教官は四名おられた。十一期は甲斐憲夫中尉と須藤卓郎中尉(十九年三月交替)に教えられているし、十二期は山瀬暁平技術軍曹(五、六中隊)と小林喜久夫中尉(小林氏は後に八中隊四区隊長に転任、七、八中隊)が担当された。一分冊は後に忘失したために、現在、大学理工学部学生向きの電磁気学の教科書(大学一、二年生向)を二、三冊入手して調べてみたが、当時の教育水準からいえば専門学校程度の学力を要し、理解することは仲々困難であったように思われる。記憶に残っている内容とすれば、磁気電磁界に姶まりアンペアの右ねじの法則、インダクタンス、リアクタンス、オームの法則、クーロンの法則、インピーダンス、フラディの法則など、蓄電器や抵抗、電池の接続や計算について割合に高度なことが教授されたように思われる。ホイートストンブリッジの原理とかインピーダンスの計算方程式が仲々覚えられずに悩んだものだとは今は昔話として懐かしく想い出される。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/5 9:36
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 エ、電信電話学 (通信学理第三部)

 『通信学理』第三編無線通信を教材に用いた科目は正式の科目名が何であったのか不明であるか、多分時間割の中で「電信電話学]の時間が可成り配置されている所からすれば、この科目ではなかったかと思われる。大學の配置科目に「無線通信工学」なるものがあり、配列は若干異なるが、周波数、通信方式、無線送信機、無線受信機について言及されているから、通信学理第三編に該当するものと云ってよいだろう。

 第三編の構成は、第一章受信装置、第二章送信装置、第三章周波計、第四章無線電話装置、第五章空中線及接地、第六章電波ノ輻射及伝播、第七章方向探知機となっている。とりわけ、受信装置について、九四式三号甲無線機の構造はスーパーヘテロダイン方式が特徴であったことを徹底して教えられた。
 同時に、器材を用いて「故障探求」の演習が行われた。送信真空管の陽極(プレート)が管の頭部に突出し、発電機の高圧がここにかかっているのを知ったのもこの頃である。


 オ、電機学(通信学理第四編)

 この科目については、三号甲や五号無線機の送信電源が発電機の転把を二名又は一名で回転させて発電を起こすものであったから、この方の教育よりも、二号乙の発電機の構造理解に力点がおかれた。今日では自動車が普及しているから、これらの理解にはそれ程苦もなく理解できるであろうが、当時は発電機の構造を知るのに重要な科目であった。英語は一切用いられないから、シリンダーのことを「気筒」といい、以下プラグが「点火栓」、キャブレーターを「気化器」、マフラーを「消音器」と教えられた。単気管であったから、航空発動機に比べれば単純であったといえる。しかし、演習ごとに燃料として、ガソリンとモービル油を混合したものを搬送しなければならなかったこと、発働機の自重が約五十キログラムあり、二名で棒に差し込んで搬送し、駆け足しで散開をする場合には参ったことなどが記憶に残るが、発動機を分解し、整備をした後、再度これを組み直して、発動機が高らかに可動したことは永久に忘れられない程に印象が強い。第四部の中心は発動機の部であった。
 以上、学科について細々と回想を記したが、これら以外に、服務や各種演習の印象もあるけれども、紙数の関係で、他は省略する。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/6 8:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

(二)、村松少通校に於ける主要行事

 東京少通校の状況は不詳であるが、村松の場合は専ら電信聯隊・軍通信要員三コ中隊(十一期は一中隊から三中隊、十二期は五中隊から七中隊)約六百余名と師団通信隊要員(四中隊と八中隊)約二百名(期毎に)が訓育養成された。したがって器材取扱いも初期は三号甲で教育を受けたが、後には軍通と師通に分かれたから、軍通要員は主として二号乙の取扱いが中心となった。ただ時には無線交信技術習熟の為に九四式五号無線機を用いた場合もある。これは三号甲のより小型のもので、切換えによって無線電話の交信もできた。有線としては九二式電話機や九五式電信機をごく僅か利用したこともあるし、七号無線機は遊泳演習行軍の際に垣間見たことがあっただけである。だから東京少通校で用いられていた大型の対空一号その他は若干器数は通信講堂に置かれていたが、取扱いそのものは末教習であった。

 以下、村松少通校の略年表を掲載するので、参考にして頂きたい。ただ、特定中隊、特定区隊の日誌を基に作成したから、若干の差異があり、一般的でないかも知れないが、学校全体の行事は共通していると考えられる。

(注) 因みに、小林氏は四頁で「生徒の外出制限区域などを記述した本のことに触れていますが、これは本誌・第二集の末尾に添付した「生徒心得」にあたるものかと思われます。

村松少通校・略年表

    昭和一八・一〇・一~二〇・八・二九年

 (表の上をクリックすると拡大します)
















































前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/7 8:21
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

二、繰上げ卒業生の出陣と遭難

 而して、昭和十九年十一月、このようにして訓練に励んでいた十一期生八百名の中の三百四十七名に対し、突如繰上げ卒業と、うち三百十五名の南方戦線行きが命令されます。
 即ち、その頃、既に米軍はサイパン島を攻略し日本本土空襲の地固めを終えると共に、次の攻撃目標を日本の兵站基地であるフィリピンに絞っていましたが、このため彼らは、これより二年七か月前、「アイ シャル リターン」(私は必ず戻ってくる)の言葉を残してコレヒドール島から脱出していったダグラス・マッカーサーに、二十万余の大軍を与え、「名誉を挽回せよ」とばかりにレイテ島に向かわせたのです。其処で、こうした情報を察知した我が大本営は「レイテの戦いこそ今次大戦の雌雄を決する天王山になるに違いない」と判断し、同島で苦戦中だった我が軍を助けるため、当時、満州に温存していた百万と云われた関東軍からの大量抽出と、そのレイテ投入を決め、その作戦の一環として少年兵に対しても、成績が優秀で当面の戦力になり得ると思われる十一期生の約半数の者に繰上げ卒業と南方戦線行きを命じた訳です。で、此処で注目すべきは、前章で小林龍馬氏が、その冒頭で「少年通信兵の在籍期間は通常二か年で、第一年は基礎課程で通信技術や機器の取扱いを学び、第二年に入って初めて実戦に即した諸々の野外訓練等を学ぶことになっている」と述べている点で、これからすると、本来の修学期間を半分の一年、正確に言うと十一か月に削減されて出陣して行った十一期生は、殆ど実戦の訓練を受ける間もなく戦場に向かったことになります。
 其処で本章では、先ず(大口)が先に「村松萬葉」誌に寄稿した「村松の庭訓を胸に散華した少年たち」を取り上げると共に、其処に出て来る輸送途上に於ける遭難と「生き地獄」と云われたルソン島の状況について、夫々十一期生の北川武男氏と杉原正雄氏の文章を載せ、更に、こうして出陣していった三百十五名が最終的にどうなったかを、十二期の佐藤嘉道氏の調査結果で見てみる事にしました。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/8 8:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

村松の庭訓を胸に散華した少年たち
             
       十二期  大 口 光 威

 これは、先の大戦も終盤に近づいた昭和十九年秋の出来事です。当時、私は十五歳、村松陸軍少年通信兵学校に十二期生として在籍していました。
 十月一日、折しも開校一周年を記念して仲秋の名月を愛でる「月見の宴」が催され、学校に隣接した練兵場の芝生の上に沢山の机が持ち込まれると共に、学校長以下全幹部出席のもと、課業を終え体換衣袴をまとった全校生徒千六百名が整然と居並びました。
 やがて宴が進み、軍歌も「山紫に水清き」から「月下の陣」に移るに至って、これを境に皆の頬が一様に濡れて行きました。
 「われ、父母や兄弟を思わざるにはあらねども、君に捧げし身にあれば………」
 自ら志願した途ではありましたが、故郷の家族を思い、来年のこの月を何処の戦場で仰ぐかを想像したとき、誰もが、こみ上げる感情の高ぶりを抑えることが出来なかったのです。

 事実、翌月の五日、十一期生中の三百余名に対して繰上げ卒業が命じられました、しかし、当時、卒業は即出陣を意味していました。十日後、他の兵員と共に三隻の輸送船に分乗して南方に向け門司港を出港した彼等は、待ち構えていた敵潜水艦によって、うち二隻が五島列島沖或いは済州島沖で相次いで撃沈され、その多くが海の藻屑と消え去りました。生き残った者の証言によれば、夜の海中に投げ出された彼等は始めのうちこそ漂流する木片に槌り力一杯軍歌を唄うなど、必死に気力を奮い立たせていましたが、初冬の海は冷たく、一人、また、ひとり、暗い波間に消えていき、或いは一瞬、母の幻影でも過ぎったものか、其処此処に「お母アーさん」の声も聞こえたと言われています。
 でも、これらの事実は軍事機密として固く秘匿され、私達がこれを知ったのは戦後のことでした。彼等の年齢は十七、八歳、練磨を重ねた技を何一つ試すことなく、その無念さは如何許りだったでしょうか。
 また一方、辛うじて難を免れフィリピンに辿り着いた者もまた、其処に待っていたのは間断ない爆撃と深刻な飢餓やマラリア等の悪疫であり、悪戦苦闘、その多くが彼の地で玉砕し、再び村松の土を踏むことはありませんでした。

 やがて終戦。これを機に、わが国は戦争の放棄を宣言し、平和国家への道を歩み出し、私達生き残った者による慰霊の行事も始まりました。
 学校跡が望める村松公園の小高い丘と遭難地点近くの平戸岬における慰霊碑の建立、春秋の参詣会と三年毎の慰霊祭の開催等々。しかし、これも、その後の関係者の高齢化には逆らえず、平成十三年の合同慰霊祭を最後に公式の行事は幕を閉じ、今では個人単位の慰霊に代わっています。
 ここにおいて、私は昨秋、同期の佐藤嘉道君と共にこれら戦没先輩に捧げる鎮魂の書として「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」を上梓しましたが、この中で私が真に訴えたかったのは、祖国存亡の危機に臨んでの彼等の一途さと純粋さです。彼等は此処・村松に於いて練武砕魂、教授一体の猛訓練を展開し、その庭訓を胸に敢然と巣立って行きました。また同書に海没した漂流物の中から拾い上げた手帖の一節を復元しましたが、そこには、戦友を乗せた僚船が炎に包まれるのを目の辺りにしながら綴った「礼儀正しく」「向上心を持て」の自省の言葉が残っていました。しかし、こうした心情は現代の人々にどれだけ理解され共感頂けるでしょうか。青春とは無縁に、ひたすら祖国の勝利と繁栄を希って散華した紅顔の少年達-------.。

 因みに、高木元校長は、戦後慰霊の発端になった村松の「戦後二十年の集い」に際し、彼等の死を悼み次の献詠を遺しておられます。

 異境に骨を晒す十有余牛 鬼哭啾々誰か憐れまざらんや 勇躍かつて上る遠征の旅 無言いま還る故郷の天 靖国の宮に御霊は鎮まるも 折々帰れ母の夢路に
 戦争の末路何ぞ悲壮なる 涙は迸り胸は迫る英霊の前

 (「村松萬菓」 二〇〇九年度版)

注 別記のように、その後、冊子 「村松の庭訓を胸に」の刊行が機縁となって、平成二十二年、地元有志による「慰霊碑を守る会」が結成され、毎秋、厳粛な慰霊祭が営まれて現在に至っています。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/9 7:56
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 即ち、此処に記載された門司港を出航直後に敵潜水艦の魚雷攻撃によって海上に投げ出された少年達が、最後の瞬間に、「お母アーさん」と叫びつつ波間に消えて行ったという話は、輸送指揮官からその報告を受けられた高本校長が後年亡くなられるまで「如何に軍の命令だったとはいえ、年端の行かない子供達を繰上げ卒業までさせて出陣させたくはなかった」と悔やんで居られたということと相俟って、これが「少年兵悲話」として今なお広く伝えられていますが、本当にそれが正しく少年兵の声であったか如何か、この点について北川武男氏は次の文章を遺して居られます。


  波間の悲叫 (一%の疑念)
              十一期  北 川 武 男

 村松陸軍少年通信兵学校第十一期生が、特演隊として繰り上げ卒業してから、早や五十一年の年月が過ぎた。
 「光陰矢の如し」とは……正にその通りである。この繰り上げ卒業で、東京校も村松校も、学窓を後に出征していった同期生が、壮途半ばにして無念にも、水づく屍と散華された事は周知の通りであり、その御霊の慰霊に少通関係者は寝食を忘れて慰霊碑の建立と慰霊行事に一丸となって心を砕き、その誠を尽くして汗を流して来た。

 此の慰霊行事が実施される度に、あの秋津丸や摩耶山丸で海没された少年兵の 「お母さん、お母さん」と呼ぶ声が暗い波則から聞こえて来たと、当時の少年兵輸送指揮官であった故鈴木宇三郎氏の寄稿文を思い出す。
 その一部に次の様に書いてあった。「摩耶山丸に乗船し、撃沈後救助された将校の話しによると十七日、暗い波の間に間に「お母さん「お母さん」と呼ぶ声が聞こえたが、あの声は確かに少年兵の声であったと聞かされた時は涙が出て泣けて仕方がありませんでした。村松少通校の生徒も約五十名余り海没したものと思われます。」

 又昭和六十年に行われた第四回慰霊祭の時、稲田健吾氏の戦友の言葉の中にもこの様に言われている。
「特に戦局愈々苛烈の度を加え、ついに昭和十九年十一月、私共十一期生に出陣の命下り、我等昭和の白虎隊となり、愛する肉親と御国の楯とならんと、決意も堅く紅顔を輝かせ校門を後に壮途につきました。そして僅か旬日にして敵潜水艦の攻撃を受け、五島列島沖及び済州島沖で多くの方々が船と運命を共にされました。波にただよい力つき、最後の気力をふりしぼって「お母さん」と叫ぶ少年の声が、波間に消えていったとの話を、雄途の夢も半ばにして破れたあなた方のご無念ひとしおの事と拝察しつつ、歯を喰いしぼって聞きました。」

 私達はこの言葉を聞くに及び、さぞや無念の涙の中で叫んだのであろうと、その心中を察して涙を流したものでした。若しも自分であったならどうであったであろうかと身を置き替えて見た時、やはり同じであったろうと思い、痛む気持に一層誠意を込めて慰霊に献身していった、

 私もこの遭難戦没をされた実情には九十九%残念無念の断腸のおもい一杯で受け止めてはおりましたが、何故か一%だけは本当に少年兵だけが暗い波間で、「お母さーん、お母さーん」と声を張り上げていたのだろうかと疑念を抱いておりました。然しその様に思っていても私は実際に見た訳でもなく、又共に遭難をして生き残った訳でもありませんから、ただ人から聞くのみなのでその様に信じる外はありません。でも一%だけは何としてもひっかかる気持がどうしても拭いきれないのです。それと言うのもあの少通校で幾ら年少とは言え、そんなに甘くは育てられていなかった筈です。教育面でも又精神面でもそれぞれに、部隊配属後に於ける中心幹部としでの実力を備える様に鍛えられていた筈です。特に精神面に於いては鋼鉄よりも固く鍛えられた様に、現在でも信じております。
 先日或る手記を読んでおりましたら、当時のヒ八十一船団で護衛空母.「神鷹」の乗組員が記した神鷹の撃沈とその遭難状況が出ていて、その中に摩耶山丸と同じ様に、波間に「お母さーん」と呼ぶ声を聞いたと語っておりますので、その一部をここに転記させて頂きます。

 「空母「神鷹」は旧日本海軍が輸送船団の護衛能力強化のため、昭和十八年にドイツの豪華客船シャルンホルスト号を、航空母艦に改造したいわゆる護衛空母であった。敵潜水艦攻撃が主目的であるから、潜航中でもこれを發見できる磁気探知器を装備した磁探機と、爆撃機の二種類をあわせて三十機ちかく搭載していた。
 神鷹は二回南方に出撃した。特に二回目の時には敵潜を四隻撃沈確実の戦果を挙げている。第三回目の出撃のため日本本土をはなれたのは昭和十九年十一月十二日、今回の船団は九、〇〇〇総トン級が四隻、これは上陸艇母艦で陸軍のもの、その他一万トン級タンカー五隻とこれまでにない大掛りなものだった。一方護衛陣も強化され、空母神鷹とこれを直衛する駆逐艦の樫、海防艦七隻、神鷹は船団護衛の任務について南下していたが、十一月十七日の夜中の十一時五分、米軍潜水艦が発射した魚雷六発の内二発を受けた。空母の弱点は空母機用の揮発性の高い燃料を大量に搭載していることだ。神鷹には前後部二ヶ所に各々二十万リッターのタンクがあったが、出港後日が浅いのでほとんど満タンに近い状況であった。魚雷はあいにく後部タンク附近に命中したらしく、天地も裂けるかと思う大爆発音とともに「アツ」という間もなく、艦の周囲は火柱と炎に包まれ海が火の地獄と化した。体が何とか動かせる者は飛行甲板に集まった。火柱は飛行甲板より数メトトルも高く上がり「ゴーゴー」と大きな音をたてて風を起こし、燃える火で真昼の様に明るかったが煙のために視界がきかない。艦は次第に右に傾きを強めてきた。履いている飛行靴の底が熱のため粘つく感じである。ついに神鷹はまだ燃え盛る海面にその姿を没した。約三十分程持ちこたえたその間に、果してどれ程の乗組員が退艦出来たであろうか。

 燃えるものがなくなって火も消えると風もなくなり、月影もない海はウソの様な静けさになった。漂流者は分散している様だが、或る程度群れをなしているようだった。軍歌を歌っている群れもあった。時間とともに体温が海水に吸い取られていく。体力の消耗を防ぐために軍歌は歌わないこと、眠らぬように努力すること、集団から離れないこと、この三つを訴えた。寒いから小便が出るのか、小便が出るから寒く感じるのか、冷えてあちこちの筋肉が痛む中、小便が少しつ出る。これは体温とほぼ同じで海水よりも十度以上も温かいので、ひざを合わせてこの貴重な熱源を逃さないようにもした。

 軍歌が聞こえなくなってから三時間程も過ぎたであろうか、寒い冷たいという感覚が次第に鋭くなってきた。そして睡魔がおそってきた。五段階建てビルの屋上よりも高い飛行甲板から飛び込み、幸いにも火膜のわずかの切れ目に浮かび出たものの、その際重油をしこたま飲みこんだ為に、腹のものは全部吐いてしまっている。寒さと空腹の重なる最悪の条件下で睡魔と斗うのは、経験も訓練もなかっただけに極めて切ないものだった。

 突然近くにいた一人が「味方の海防艦が援助の発見信号をしているから行こう」と叫んだ。私は目を凝らして見たがそれらしいものは見えない。水平線に近い星がたなびく雲の切れ目の移動でチラッチラツと見え隠れするのであった。説得の甲斐もなく彼は泳いでいった。続いて二人が彼と同じ星に向かって集団から離れていった。

 時間が漂流している我々を置き去りにして行くような焦りを抱きながら、ゆっくりとリズムで上下する波に体をまかせる。「大丈夫かー」「必ず助けにくるぞ!」自分か眠くなると目覚ましも兼ねて時々声をかける。今まで大なり小なりの反応があったが、疲れがひどくなったのか、変り映えのしない繰り返しの言葉に、煩しくなったのか、すでに睡魔に襲われているか、それともすでに息がたえてしまったのか、しばらく静寂が続いた。

 突然、「お母さーん」とアクセントのない声が聞こえて来た。はじめは自分の錯覚ではないかと思った。
 しかしその声に共鳴するように私の前後左右からも「お母さーん」「お母さーん!」という声が湧き上った。そしてそれは一つの合唱となり、次第に裏声となり、泣き声と変って海面を覆った。そしてその声は花火の様に闇の中に消えて行った。」
 以上であるが、あの暗い波間に漂い精も根も尽き果て、生死の境を彷徨う極限の時、母の幻影に無意識のうちに年令には関係なく「お母さーん」と呼んだのてあろう。
 これが少年兵なるが故に、ものの哀れを誘い一層の同情を禁じ得なかったが、波間の悲叫は少年兵だけではなかった事が立証されて、私の一%の疑問が晴れて安堵した。

 幼ない気持ちが残っていた少年兵なるが放に、肉体的にも精神的にも弱かったからとたとえ一%といえども疑念を抱いた事は今は心から反省している。少年兵といえども強かったのである。
 「お母さーん」と呼ぶ声は極限の生死の淵をさまよう時に、本能からにじみ出る母への思慕が声となって幻影に向かって出たものと私は思う。
 ちなみに少年兵は神州丸、秋津丸、摩耶山丸の三隻にしか分乗していなかったのである。

  (平八・四 かんとう少通・第七号)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/10 8:34
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 次に、最も悲惨だったのは、辛うじて遭難を免れてルソン島に辿り着いた彼らの、終戦までの戦闘の状況です。此処では、同地の戦闘集団・尚武の一員として、バギオ、パレテ峠方面に於いて正に「生き地獄」そのものの戦闘を体験し生還された杉原正雄氏の文章を掲載します。なお、因みに先頃私達は、冊子「ルソン島戦記 生還した六名が綴る「生き地獄」の実態」を刊行し、其処に杉原氏のほか、同じく十一期生だった尾崎健一、橋場 清、金子 博、神頭敬之助、本庄二郎の各氏の手記を収めました。


軍馬と兵隊

十一期  杉 原 正 雄

 あの時、門司港で輸送船、麻耶山丸の奈落のような薄暗い船底で軍馬の世話をしていた応召轄重兵の迫ってくるような強い言葉が心に残って忘れることが出来ないのだ。  
 語り継ぐことが供養だと思っている。

 戦況緊迫する昭和十九年十一月五日繰り上げ卒業。
 村松陸軍少年通信兵学校十一期生は村松町から、南方々面軍派遣要員として勇躍征途に就いた。
 門司港の船舶輸送司令部の参謀の訓示だった「貴様らは全員目的地に着けると思うな、半数も着ければ概ね(おおむね)作戦は成功せるものと思う。以上」‥横にいた、応召兵が「くそッ…兵隊は赤紙一枚で幾らでも集まると思っていやがる」と言って唾を吐いた。思わず見ると憤怒の顔だが哀しそうな眼(まなざし)であった。同期に「凄いこと言っているなぁ」と言いながら顔を見合わせた。
 「おい、半分だって」「うん…どうせ死ぬんだなぁ…」俺達少年兵は無垢(うぶ)なものである。検疫所の広場でのことだった。
 麻耶山丸に乗船して珍しそうに船内を見て回りながら船底で関東軍の輜重兵に「すごい底のほうだな」って慰めで言ったら「輜重、通信が兵隊ならば蝶々トンボも鳥の内って、所詮は員数合わせだ。ドカンと一発喰らつたら、海の藻屑だ、どうも、しようもねえ、あの世へ直行だあ」遣り場のない怒りの気持ちがそうさせるのか、そこらの馬糧や藁束を蹴っ飛ばしていた。辺りには、大勢の兵隊が軍馬の世話をしていた。そこを離れるとき、さっきの兵隊に「俺達も蝶々トンボの通信兵」と言ったら「そうかあ、下士候さんよ、死ぬなよ」って寂しそうに笑って挙手をしてくれた。

 その摩耶山丸が十一月十七日夕暮れて七時半頃、済州島沖で魚雷攻撃をうけ轟沈。衝撃音を二度聞いた。阿鼻叫喚と怒号のなか無我夢中であったが海に浮いていた。摩耶山丸は燃えながら海流に乗って沈んでいった。海上には幾艘もの船が赤々と火柱を上げて燃えていた。海の中からズズーンと腹に応える爆雷攻撃の響き、燃えている軍艦が阿修羅の様に動き、断続的な爆発音と火柱を噴き上げながら沈んでいった……地獄を見た。

 手足を動かすと海の夜光虫が青白く光って、手足が奇妙に短く見え得体の知れない生き物に思えた。あの馬を世話していた大勢の兵隊も軍馬と一緒に沈んだのだろうなぁと思った…海の水はしょっぱかった。
 翌日、昼頃、海防艦に救助され、揚子江入り口で海防艦から輸送船に移乗、台湾高雄港にて吉備津丸に乗船、十二月初め、比島・北サンフエルナンドに上陸、マニラからバギオに移動する。

 軍通 威 二五二七部隊に配属、翌年一月バギオから北バンバン尚武集団派遣班として転進する。
 通信部隊は暮れなずむ薄暮のなかを出発、バギオの街を過ぎ郊外、第十二陸軍病院前には緩やかなカーブの坂道に沿って毛布に包まれた遺体が幾十となく並べてあった。軍靴と蹄鉄の音だけが聞こえるなか、誰かの呟くように唱える…称名の声が聞こえていた。

 トリニダットは空爆で瓦礫(がれき)の街と化し、教会だけが残っていた。街を過ぎ山道を行く右に深そうな谷を挟んで薄く稜線が見える。我々と同じように動くゲリラの灯りを見つつ行軍、夜明け近く大休止、仮眠、出発、朝食なし…通信部隊は駄馬編成で、左ボントツクの道標を見ながら歩く…快晴の朝、一望に開けた二千メートル級の山塊の眺めは素晴らしく、行く先の山肌を柚道(そまみち)が羊腸の如く巡って、急峻な谷底は深く下の方に見えていた。落ちた軍馬の嘶きが哀しく聞こえ、崖沿いの柚道は路肩が崩れやすく、難所だと思っていると…罵声がとんできた。「早く手綱を離せ、あきらめろ」「バッカヤロウ」「放さんかア」見ると、兵隊が手綱を持って、必死で馬を引っ張り上げようとしていたが…馬は崩れる路肩を足掻きながら、通信機材と共に落ちていった。緑深い谷底で、腰の砕けた馬が起き上がろうと、時おり嘶き、足掻き、首をふる姿が見え、やり切れない思いであった。

 為す、すべもなく兵達は、せつない思いをのこしながら、北バンバンへと離れていった。
 輜重兵が言っていた「馬はものを言わんが、俺は、わかる…可愛いんだ」我々が通った細道は後にラウレル大統領も通った山下新道が開通された。
                (「村松萬葉」 二〇一〇版)
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