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心のふるさと・村松 第三集 8

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通常 心のふるさと・村松 第三集 8

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/9 7:56
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 即ち、此処に記載された門司港を出航直後に敵潜水艦の魚雷攻撃によって海上に投げ出された少年達が、最後の瞬間に、「お母アーさん」と叫びつつ波間に消えて行ったという話は、輸送指揮官からその報告を受けられた高本校長が後年亡くなられるまで「如何に軍の命令だったとはいえ、年端の行かない子供達を繰上げ卒業までさせて出陣させたくはなかった」と悔やんで居られたということと相俟って、これが「少年兵悲話」として今なお広く伝えられていますが、本当にそれが正しく少年兵の声であったか如何か、この点について北川武男氏は次の文章を遺して居られます。


  波間の悲叫 (一%の疑念)
              十一期  北 川 武 男

 村松陸軍少年通信兵学校第十一期生が、特演隊として繰り上げ卒業してから、早や五十一年の年月が過ぎた。
 「光陰矢の如し」とは……正にその通りである。この繰り上げ卒業で、東京校も村松校も、学窓を後に出征していった同期生が、壮途半ばにして無念にも、水づく屍と散華された事は周知の通りであり、その御霊の慰霊に少通関係者は寝食を忘れて慰霊碑の建立と慰霊行事に一丸となって心を砕き、その誠を尽くして汗を流して来た。

 此の慰霊行事が実施される度に、あの秋津丸や摩耶山丸で海没された少年兵の 「お母さん、お母さん」と呼ぶ声が暗い波則から聞こえて来たと、当時の少年兵輸送指揮官であった故鈴木宇三郎氏の寄稿文を思い出す。
 その一部に次の様に書いてあった。「摩耶山丸に乗船し、撃沈後救助された将校の話しによると十七日、暗い波の間に間に「お母さん「お母さん」と呼ぶ声が聞こえたが、あの声は確かに少年兵の声であったと聞かされた時は涙が出て泣けて仕方がありませんでした。村松少通校の生徒も約五十名余り海没したものと思われます。」

 又昭和六十年に行われた第四回慰霊祭の時、稲田健吾氏の戦友の言葉の中にもこの様に言われている。
「特に戦局愈々苛烈の度を加え、ついに昭和十九年十一月、私共十一期生に出陣の命下り、我等昭和の白虎隊となり、愛する肉親と御国の楯とならんと、決意も堅く紅顔を輝かせ校門を後に壮途につきました。そして僅か旬日にして敵潜水艦の攻撃を受け、五島列島沖及び済州島沖で多くの方々が船と運命を共にされました。波にただよい力つき、最後の気力をふりしぼって「お母さん」と叫ぶ少年の声が、波間に消えていったとの話を、雄途の夢も半ばにして破れたあなた方のご無念ひとしおの事と拝察しつつ、歯を喰いしぼって聞きました。」

 私達はこの言葉を聞くに及び、さぞや無念の涙の中で叫んだのであろうと、その心中を察して涙を流したものでした。若しも自分であったならどうであったであろうかと身を置き替えて見た時、やはり同じであったろうと思い、痛む気持に一層誠意を込めて慰霊に献身していった、

 私もこの遭難戦没をされた実情には九十九%残念無念の断腸のおもい一杯で受け止めてはおりましたが、何故か一%だけは本当に少年兵だけが暗い波間で、「お母さーん、お母さーん」と声を張り上げていたのだろうかと疑念を抱いておりました。然しその様に思っていても私は実際に見た訳でもなく、又共に遭難をして生き残った訳でもありませんから、ただ人から聞くのみなのでその様に信じる外はありません。でも一%だけは何としてもひっかかる気持がどうしても拭いきれないのです。それと言うのもあの少通校で幾ら年少とは言え、そんなに甘くは育てられていなかった筈です。教育面でも又精神面でもそれぞれに、部隊配属後に於ける中心幹部としでの実力を備える様に鍛えられていた筈です。特に精神面に於いては鋼鉄よりも固く鍛えられた様に、現在でも信じております。
 先日或る手記を読んでおりましたら、当時のヒ八十一船団で護衛空母.「神鷹」の乗組員が記した神鷹の撃沈とその遭難状況が出ていて、その中に摩耶山丸と同じ様に、波間に「お母さーん」と呼ぶ声を聞いたと語っておりますので、その一部をここに転記させて頂きます。

 「空母「神鷹」は旧日本海軍が輸送船団の護衛能力強化のため、昭和十八年にドイツの豪華客船シャルンホルスト号を、航空母艦に改造したいわゆる護衛空母であった。敵潜水艦攻撃が主目的であるから、潜航中でもこれを發見できる磁気探知器を装備した磁探機と、爆撃機の二種類をあわせて三十機ちかく搭載していた。
 神鷹は二回南方に出撃した。特に二回目の時には敵潜を四隻撃沈確実の戦果を挙げている。第三回目の出撃のため日本本土をはなれたのは昭和十九年十一月十二日、今回の船団は九、〇〇〇総トン級が四隻、これは上陸艇母艦で陸軍のもの、その他一万トン級タンカー五隻とこれまでにない大掛りなものだった。一方護衛陣も強化され、空母神鷹とこれを直衛する駆逐艦の樫、海防艦七隻、神鷹は船団護衛の任務について南下していたが、十一月十七日の夜中の十一時五分、米軍潜水艦が発射した魚雷六発の内二発を受けた。空母の弱点は空母機用の揮発性の高い燃料を大量に搭載していることだ。神鷹には前後部二ヶ所に各々二十万リッターのタンクがあったが、出港後日が浅いのでほとんど満タンに近い状況であった。魚雷はあいにく後部タンク附近に命中したらしく、天地も裂けるかと思う大爆発音とともに「アツ」という間もなく、艦の周囲は火柱と炎に包まれ海が火の地獄と化した。体が何とか動かせる者は飛行甲板に集まった。火柱は飛行甲板より数メトトルも高く上がり「ゴーゴー」と大きな音をたてて風を起こし、燃える火で真昼の様に明るかったが煙のために視界がきかない。艦は次第に右に傾きを強めてきた。履いている飛行靴の底が熱のため粘つく感じである。ついに神鷹はまだ燃え盛る海面にその姿を没した。約三十分程持ちこたえたその間に、果してどれ程の乗組員が退艦出来たであろうか。

 燃えるものがなくなって火も消えると風もなくなり、月影もない海はウソの様な静けさになった。漂流者は分散している様だが、或る程度群れをなしているようだった。軍歌を歌っている群れもあった。時間とともに体温が海水に吸い取られていく。体力の消耗を防ぐために軍歌は歌わないこと、眠らぬように努力すること、集団から離れないこと、この三つを訴えた。寒いから小便が出るのか、小便が出るから寒く感じるのか、冷えてあちこちの筋肉が痛む中、小便が少しつ出る。これは体温とほぼ同じで海水よりも十度以上も温かいので、ひざを合わせてこの貴重な熱源を逃さないようにもした。

 軍歌が聞こえなくなってから三時間程も過ぎたであろうか、寒い冷たいという感覚が次第に鋭くなってきた。そして睡魔がおそってきた。五段階建てビルの屋上よりも高い飛行甲板から飛び込み、幸いにも火膜のわずかの切れ目に浮かび出たものの、その際重油をしこたま飲みこんだ為に、腹のものは全部吐いてしまっている。寒さと空腹の重なる最悪の条件下で睡魔と斗うのは、経験も訓練もなかっただけに極めて切ないものだった。

 突然近くにいた一人が「味方の海防艦が援助の発見信号をしているから行こう」と叫んだ。私は目を凝らして見たがそれらしいものは見えない。水平線に近い星がたなびく雲の切れ目の移動でチラッチラツと見え隠れするのであった。説得の甲斐もなく彼は泳いでいった。続いて二人が彼と同じ星に向かって集団から離れていった。

 時間が漂流している我々を置き去りにして行くような焦りを抱きながら、ゆっくりとリズムで上下する波に体をまかせる。「大丈夫かー」「必ず助けにくるぞ!」自分か眠くなると目覚ましも兼ねて時々声をかける。今まで大なり小なりの反応があったが、疲れがひどくなったのか、変り映えのしない繰り返しの言葉に、煩しくなったのか、すでに睡魔に襲われているか、それともすでに息がたえてしまったのか、しばらく静寂が続いた。

 突然、「お母さーん」とアクセントのない声が聞こえて来た。はじめは自分の錯覚ではないかと思った。
 しかしその声に共鳴するように私の前後左右からも「お母さーん」「お母さーん!」という声が湧き上った。そしてそれは一つの合唱となり、次第に裏声となり、泣き声と変って海面を覆った。そしてその声は花火の様に闇の中に消えて行った。」
 以上であるが、あの暗い波間に漂い精も根も尽き果て、生死の境を彷徨う極限の時、母の幻影に無意識のうちに年令には関係なく「お母さーん」と呼んだのてあろう。
 これが少年兵なるが故に、ものの哀れを誘い一層の同情を禁じ得なかったが、波間の悲叫は少年兵だけではなかった事が立証されて、私の一%の疑問が晴れて安堵した。

 幼ない気持ちが残っていた少年兵なるが放に、肉体的にも精神的にも弱かったからとたとえ一%といえども疑念を抱いた事は今は心から反省している。少年兵といえども強かったのである。
 「お母さーん」と呼ぶ声は極限の生死の淵をさまよう時に、本能からにじみ出る母への思慕が声となって幻影に向かって出たものと私は思う。
 ちなみに少年兵は神州丸、秋津丸、摩耶山丸の三隻にしか分乗していなかったのである。

  (平八・四 かんとう少通・第七号)

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