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心のふるさと・村松 第三集 7

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通常 心のふるさと・村松 第三集 7

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2015/11/8 8:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

村松の庭訓を胸に散華した少年たち
             
       十二期  大 口 光 威

 これは、先の大戦も終盤に近づいた昭和十九年秋の出来事です。当時、私は十五歳、村松陸軍少年通信兵学校に十二期生として在籍していました。
 十月一日、折しも開校一周年を記念して仲秋の名月を愛でる「月見の宴」が催され、学校に隣接した練兵場の芝生の上に沢山の机が持ち込まれると共に、学校長以下全幹部出席のもと、課業を終え体換衣袴をまとった全校生徒千六百名が整然と居並びました。
 やがて宴が進み、軍歌も「山紫に水清き」から「月下の陣」に移るに至って、これを境に皆の頬が一様に濡れて行きました。
 「われ、父母や兄弟を思わざるにはあらねども、君に捧げし身にあれば………」
 自ら志願した途ではありましたが、故郷の家族を思い、来年のこの月を何処の戦場で仰ぐかを想像したとき、誰もが、こみ上げる感情の高ぶりを抑えることが出来なかったのです。

 事実、翌月の五日、十一期生中の三百余名に対して繰上げ卒業が命じられました、しかし、当時、卒業は即出陣を意味していました。十日後、他の兵員と共に三隻の輸送船に分乗して南方に向け門司港を出港した彼等は、待ち構えていた敵潜水艦によって、うち二隻が五島列島沖或いは済州島沖で相次いで撃沈され、その多くが海の藻屑と消え去りました。生き残った者の証言によれば、夜の海中に投げ出された彼等は始めのうちこそ漂流する木片に槌り力一杯軍歌を唄うなど、必死に気力を奮い立たせていましたが、初冬の海は冷たく、一人、また、ひとり、暗い波間に消えていき、或いは一瞬、母の幻影でも過ぎったものか、其処此処に「お母アーさん」の声も聞こえたと言われています。
 でも、これらの事実は軍事機密として固く秘匿され、私達がこれを知ったのは戦後のことでした。彼等の年齢は十七、八歳、練磨を重ねた技を何一つ試すことなく、その無念さは如何許りだったでしょうか。
 また一方、辛うじて難を免れフィリピンに辿り着いた者もまた、其処に待っていたのは間断ない爆撃と深刻な飢餓やマラリア等の悪疫であり、悪戦苦闘、その多くが彼の地で玉砕し、再び村松の土を踏むことはありませんでした。

 やがて終戦。これを機に、わが国は戦争の放棄を宣言し、平和国家への道を歩み出し、私達生き残った者による慰霊の行事も始まりました。
 学校跡が望める村松公園の小高い丘と遭難地点近くの平戸岬における慰霊碑の建立、春秋の参詣会と三年毎の慰霊祭の開催等々。しかし、これも、その後の関係者の高齢化には逆らえず、平成十三年の合同慰霊祭を最後に公式の行事は幕を閉じ、今では個人単位の慰霊に代わっています。
 ここにおいて、私は昨秋、同期の佐藤嘉道君と共にこれら戦没先輩に捧げる鎮魂の書として「村松の庭訓を胸に 平和の礎となった少年通信兵」を上梓しましたが、この中で私が真に訴えたかったのは、祖国存亡の危機に臨んでの彼等の一途さと純粋さです。彼等は此処・村松に於いて練武砕魂、教授一体の猛訓練を展開し、その庭訓を胸に敢然と巣立って行きました。また同書に海没した漂流物の中から拾い上げた手帖の一節を復元しましたが、そこには、戦友を乗せた僚船が炎に包まれるのを目の辺りにしながら綴った「礼儀正しく」「向上心を持て」の自省の言葉が残っていました。しかし、こうした心情は現代の人々にどれだけ理解され共感頂けるでしょうか。青春とは無縁に、ひたすら祖国の勝利と繁栄を希って散華した紅顔の少年達-------.。

 因みに、高木元校長は、戦後慰霊の発端になった村松の「戦後二十年の集い」に際し、彼等の死を悼み次の献詠を遺しておられます。

 異境に骨を晒す十有余牛 鬼哭啾々誰か憐れまざらんや 勇躍かつて上る遠征の旅 無言いま還る故郷の天 靖国の宮に御霊は鎮まるも 折々帰れ母の夢路に
 戦争の末路何ぞ悲壮なる 涙は迸り胸は迫る英霊の前

 (「村松萬菓」 二〇〇九年度版)

注 別記のように、その後、冊子 「村松の庭訓を胸に」の刊行が機縁となって、平成二十二年、地元有志による「慰霊碑を守る会」が結成され、毎秋、厳粛な慰霊祭が営まれて現在に至っています。

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