心のふるさと・村松 第三集
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投稿日時 2015/10/29 17:41
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
スタッフより
この投稿は、
大 口 光 威 様
のご了承を得て転載させていただくものです。
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心のふるさと・村松 第三集
元少通生らが寄せる村松への思い
第十期生徒 佐藤 嘉道
第十期生徒 大口 光威
一、村松少通校の教育
村松少通校について本誌は、先にその第一集に於いて、村松少通校の教育が、どのような考えの下に、どのような仕組みで行われたかについて、当時の教官(区隊長)であった渡部善男氏に「村松と私、思い出す儘に」として、綴って頂くと共に、続く第二集に於いて、幻の教本とも言われた「村松陸軍少年通信兵學校生徒心得」の抜粋を復元することによって、学校側が将来の幹部を目指す生徒達をどのように育成しようとしていたかを、教官と生徒の関係などを中心に明らかにしました。
しかし一方、これらの記述では、具体的に、同校で行われた教育の内容はどういうもので、どのような行事の下に行われたかは明らかにされておらず、この点、今回は、記録として残す意味で、以下に、私(大口)と六中隊四区隊で枕を並べあった戦友の小林龍馬氏(戦後、立命館大学教授として国際金融論等の分野で活躍)が綴った文章を再掲してみます。
教育科目の概要と同校に於ける行事略年表
十二期 小 林 龍 馬
(一)、教育科目の概略
軍学校では通常、座学と術科・演習及び服務に分かれている。座学には普通学と軍事に関わる科目により成る。通信学校生徒隊→少年通信兵の在籍期間は通常二カ年で第一年は基礎課程で国語、数学、歴史、電磁気学、通信修技、器材取扱いであり、第二年で応用に入って実戦に即した野外通信訓練、行軍、索敵、露営の陣中勤務と二年後半で必要な服務要項と戦術教育をさずけるとなっていたが、戦争状況の急迫がつげられると、在籍期間も短縮されるようになった。九期生の一カ月短縮にはじまり、以後、十期が約六カ月、十一期の一部は一年足らずで卒業して戦地におもむいた。
これら諸科目の中、重点的に教育された科目は何と云っても通信修技であり、電磁気学であった。それは通信兵の基本科目であったからである。
學科始めが午前八時から開始されたかどうか不明であるが、午前に三段(一時間目と呼ばず、一段、二段、三段)とし、午後も三段(四段、五段、六段)と一日、六時間(六段)と区切られていた。一段の正味時間は恐らく五十分刻みではなかったかと思われる。ただし、同一内容の科目、例えば通信所勤務などであれば通して行われたようである。段と段の間に休憩が入ったことも記憶にある。
又、休日も毎日休みではなく、月に終日休み一回、半日休二回の回数であったが、三種混合注射を受けた後とか、夜間演習、長時間演習を行なった場合は翌日、休業となることもあった。
さて、国語、歴史などの内容については余り記憶が定かではない。
ただ文官教授により、軍人勅諭の解釈が講述された。
したがって、歴史といっても勅諭の前文に関わって国史の一部を習わった様に思われる。数学については主に電磁波や通信器材の内部の周波数の関係からか三角函数が主に教授された。全体的に生徒の理解度が充分でなかった為か、教授の方法は繰り返し教育がなされたし、講堂以外に内務班にまで教授が足を運ばれ質問に答えられていた。時間表の一部を見ると、後期にも特別一段(一時間)を割いて、数学の授業があった程である。語学は敵性語ということで一切講義されてない。陸士の受験科目も昭和十五年以後に受験科目対象から外されている。