心のふるさと・村松 第三集 9
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編集者
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次に、最も悲惨だったのは、辛うじて遭難を免れてルソン島に辿り着いた彼らの、終戦までの戦闘の状況です。此処では、同地の戦闘集団・尚武の一員として、バギオ、パレテ峠方面に於いて正に「生き地獄」そのものの戦闘を体験し生還された杉原正雄氏の文章を掲載します。なお、因みに先頃私達は、冊子「ルソン島戦記 生還した六名が綴る「生き地獄」の実態」を刊行し、其処に杉原氏のほか、同じく十一期生だった尾崎健一、橋場 清、金子 博、神頭敬之助、本庄二郎の各氏の手記を収めました。
軍馬と兵隊
十一期 杉 原 正 雄
あの時、門司港で輸送船、麻耶山丸の奈落のような薄暗い船底で軍馬の世話をしていた応召轄重兵の迫ってくるような強い言葉が心に残って忘れることが出来ないのだ。
語り継ぐことが供養だと思っている。
戦況緊迫する昭和十九年十一月五日繰り上げ卒業。
村松陸軍少年通信兵学校十一期生は村松町から、南方々面軍派遣要員として勇躍征途に就いた。
門司港の船舶輸送司令部の参謀の訓示だった「貴様らは全員目的地に着けると思うな、半数も着ければ概ね(おおむね)作戦は成功せるものと思う。以上」‥横にいた、応召兵が「くそッ…兵隊は赤紙一枚で幾らでも集まると思っていやがる」と言って唾を吐いた。思わず見ると憤怒の顔だが哀しそうな眼(まなざし)であった。同期に「凄いこと言っているなぁ」と言いながら顔を見合わせた。
「おい、半分だって」「うん…どうせ死ぬんだなぁ…」俺達少年兵は無垢(うぶ)なものである。検疫所の広場でのことだった。
麻耶山丸に乗船して珍しそうに船内を見て回りながら船底で関東軍の輜重兵に「すごい底のほうだな」って慰めで言ったら「輜重、通信が兵隊ならば蝶々トンボも鳥の内って、所詮は員数合わせだ。ドカンと一発喰らつたら、海の藻屑だ、どうも、しようもねえ、あの世へ直行だあ」遣り場のない怒りの気持ちがそうさせるのか、そこらの馬糧や藁束を蹴っ飛ばしていた。辺りには、大勢の兵隊が軍馬の世話をしていた。そこを離れるとき、さっきの兵隊に「俺達も蝶々トンボの通信兵」と言ったら「そうかあ、下士候さんよ、死ぬなよ」って寂しそうに笑って挙手をしてくれた。
その摩耶山丸が十一月十七日夕暮れて七時半頃、済州島沖で魚雷攻撃をうけ轟沈。衝撃音を二度聞いた。阿鼻叫喚と怒号のなか無我夢中であったが海に浮いていた。摩耶山丸は燃えながら海流に乗って沈んでいった。海上には幾艘もの船が赤々と火柱を上げて燃えていた。海の中からズズーンと腹に応える爆雷攻撃の響き、燃えている軍艦が阿修羅の様に動き、断続的な爆発音と火柱を噴き上げながら沈んでいった……地獄を見た。
手足を動かすと海の夜光虫が青白く光って、手足が奇妙に短く見え得体の知れない生き物に思えた。あの馬を世話していた大勢の兵隊も軍馬と一緒に沈んだのだろうなぁと思った…海の水はしょっぱかった。
翌日、昼頃、海防艦に救助され、揚子江入り口で海防艦から輸送船に移乗、台湾高雄港にて吉備津丸に乗船、十二月初め、比島・北サンフエルナンドに上陸、マニラからバギオに移動する。
軍通 威 二五二七部隊に配属、翌年一月バギオから北バンバン尚武集団派遣班として転進する。
通信部隊は暮れなずむ薄暮のなかを出発、バギオの街を過ぎ郊外、第十二陸軍病院前には緩やかなカーブの坂道に沿って毛布に包まれた遺体が幾十となく並べてあった。軍靴と蹄鉄の音だけが聞こえるなか、誰かの呟くように唱える…称名の声が聞こえていた。
トリニダットは空爆で瓦礫(がれき)の街と化し、教会だけが残っていた。街を過ぎ山道を行く右に深そうな谷を挟んで薄く稜線が見える。我々と同じように動くゲリラの灯りを見つつ行軍、夜明け近く大休止、仮眠、出発、朝食なし…通信部隊は駄馬編成で、左ボントツクの道標を見ながら歩く…快晴の朝、一望に開けた二千メートル級の山塊の眺めは素晴らしく、行く先の山肌を柚道(そまみち)が羊腸の如く巡って、急峻な谷底は深く下の方に見えていた。落ちた軍馬の嘶きが哀しく聞こえ、崖沿いの柚道は路肩が崩れやすく、難所だと思っていると…罵声がとんできた。「早く手綱を離せ、あきらめろ」「バッカヤロウ」「放さんかア」見ると、兵隊が手綱を持って、必死で馬を引っ張り上げようとしていたが…馬は崩れる路肩を足掻きながら、通信機材と共に落ちていった。緑深い谷底で、腰の砕けた馬が起き上がろうと、時おり嘶き、足掻き、首をふる姿が見え、やり切れない思いであった。
為す、すべもなく兵達は、せつない思いをのこしながら、北バンバンへと離れていった。
輜重兵が言っていた「馬はものを言わんが、俺は、わかる…可愛いんだ」我々が通った細道は後にラウレル大統領も通った山下新道が開通された。
(「村松萬葉」 二〇一〇版)