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紅葉の影に--ある牧師の戦時下の軌跡--

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2009/1/2 8:08
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 スタッフより

 この記録は、ぱらむさんよりお送りいただきました。
 日本基督教団出版局(03-3204-0422)発行の「紅葉の影に」(石浜みかる著)からの部分転載です。
 (ご希望の方は出版局へ直接お申し込みください)
 なお、部分転載に関しましては、協力者、土岐祐子様(この記録の主人公池田政一様ご息女)より著者のご了解を得ていただきました。 
 なお、この仮名付け及び注記(オレンジ色の文字)は、原文あったものではなく、メロウ伝承館のスタッフにより付記させていただいたものです。



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第1章・2

検挙………………………………・一九四三年

 翌四三年四月七日未明、教会堂とつづく牧師館の外で、複数の人の靴音がした。政一はすぐ目覚めた。二階の八畳で親子五人が寝ていた。
 覚めると同時に、階下のガラス戸を強く叩く音がした。
 「池田さんッ、池田さんッ」
 と威圧的な声がつづいた。政一は布団のなかで、「やっぱり、来たか」と思った。

 というのはその前日、裏庭でいつものように薪割りをしていたら、宮下という刑事が所在を確認に来たのだ。彼は特高課刑事で、しばらく前から政一の監視役をしていた。特別なにを喋(しゃべ)るというのではなく、ただ「こんにちは」という程度だった。彼の妻は産婆《さんば=助産婦》で、信徒の桂川美代の子どもを取り上げたという縁を使って近付いてきていた。しかもその前々日に、桂川が教会員の名簿から自分の名前を削除してくれと、言いにきていた。

 桂川は家人から、「教会へ出入りするのはやめろ」と言われつづけていたが踏み留まっていた。むつみのつわりのひどいときに、毎朝のように弁当の差し入れをしてくれた人だった。ときには鮭の切身も入っていて、政一が「わあ、鮭だぁ。うまそうだなぁ」と言うと、「先生のじゃありませんよ」と姉のようにたしなめたりしていた。すでに信徒数は激減し、求道者はほぼ皆無だった。礼拝に参加するのも二、三人になっていたから、政一が、「どうしてですか。そんなことは言わないで」と頼むと、桂川はそれ以上は何も言わずに帰ったのだった。

 やはり来たのだ。
 政一は起き上がって寝巻きの上に羽織をひっかけて階下におり、ガラスの引き戸を開けた。五、六人の黒い影が立っていた。地面には春の雪が白く積もっていた。全員私服だった。ぐるりと広がって、囲んでいた。
 責任者が一枚の紙片を政一につきつけて、早口で言った。
 「拘引状です。お支度を願います」
 それを合図に、待機していた刑事たちが一斉に、政一を押しのけるようにドヤドヤッと室内に入った。

 父親について眠い目をこすりながら階下におりた祐子が、見知らぬ大人たちが二階にあがっていくのをびっくりして見ていた。すぐに家族全員が起きた。
 家宅捜索は徹底していた。台所、居間、二階、押し入れ。むつみのタンスの中も全部ひっくり返した。牧師館から教会堂に通じる戸をあけ会堂内も隅々まで、片っ端から捜査していった。
 蔵書は、宗教関係文献は言うに及ばず文学全集にいたるまでほとんど押収された。何冊あっただろうか。本棚を買いたす経済上のゆとりはなかったので、リンゴ箱に紙をはって本箱にして、二階の壁面に積み上げてあったが押収した本を運ぶために、そのリンゴ箱が使われた。

 政一は和服に着替え、袴をつけ、彼らの仕事が済むのを待った。
 手紙や書類、教会日誌、会計簿、日曜学校の献金もリヤカーに積まれた。リヤカーは用意してあった。一人が引いて、二人が後ろから押した。
残りの者たちは、唐傘(からかさ)をさす政一をはさむようにして、下諏訪分署に向かった。

 むつみはまだ一歳の礼子を抱き、会堂の濡《ぬ》れ縁から不安げなまなざしで夫を見送っていた。妊娠四か月の不安定な時期だった。長男の大作は小学校三年生になったばかりだった。健気(けなげ)に顔をひきしめて瞬きもせず父を見つめていた。三歳の祐子は母親の着物に顔をくつつけて、大きな目を見開いていた。
 小雪のちらつくなか、濡れ縁にうずくまった家族の姿は、振り向いた政一の心に焼きついた。
 近所の人が戸口や窓越しにそっと覗(のぞ)いているのがわかった。



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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/3 8:27
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 警察の分署につくと、宮下刑事が来ていた。目が合うと、どうだ、池田、まいったか、という
ようにちょっとあごをあげて、薄笑いをして消えた。
 そのとき、政一は満三五歳だった。

 「そっちはどうだッ。うまくいったかッ。そうかッ」
 検挙の指揮をとったのは、長野県警察本部の特高刑事松沢幸一郎だった。
 政一が連行された下諏訪分署にやってきて、電話でてきぱきと連絡をとった。
 部屋の隅に座らされていた政一は、電話のやりとりから、神宮字寛造と佐野明治も検挙されたことを知った。長野県には聖教会系の牧師は三人しかいなかった。これで根こそぎだった。しかし正直のところ、状況がわかったとき、政一は内心(おれひとりじゃなかった!)と安堵した。松沢は宗教主任刑事で、その後長い付き合いになった。

 しばらくして上諏訪の本署へ移された。古くて頑丈(がんじょう)な建物だった。
 着くとすぐ署長室に連れていかれた。
 「治安雄持法第七条に依りて、身柄を拘束する」有賀署長はそっけなく告げた。
 視線があった。特に印象の強い人ではなかった。
 「わたしは、国体に背くようなことはしてはおりません」
 と、政一はすぐ言い返した。
 すると署長は表情を変えず腰をおろして、手慣れた様子で筆をとると、事務的に文書を作り、政一のほうに向けた。
 「そのことについてお取り調べ願います」と、したためてあった。
 何だ、この文書は?
 政一は治安維持法を詳しく知っていたわけではないが、国体を否定する者を取り締まる法律だとは、十分わかっていた。馬鹿いうんじゃない。わたしは「忠良なる臣民」だ。
     
 しかし署名捺印(しょめいなついん)させられた。朱肉をたっぶりつけ、巡査に指を押さえられた。
 署長は巡査に、連れていくように促して、それで終わりだった。
 巡査は政一を事務室に近い留置場に入れ、バタンと戸を閉じて、背後で鍵を掛けた。見回すと、トタン張りのそれまで見たこともない奇妙な部屋だった。先客はいなかった。六畳ほどの畳敷きだった。あとで、その部屋は保護室と呼ばれているのを知った。
 政一が検挙されたのは痔の手術をして四日目だったので、その晩、自宅の寝具を使用する許可が得られた。政一の牧していた上諏訪の湯の脇教会の西尾という信者が、下諏訪の家から自転車で運んでくれた。

 翌日になっても、誰ひとり声をかける者はいなかった。 
座りこんで壁にもたれていると、政一の置かれた状況とはまるで無縁の、日常的で平和なコトコトという足音がときどき聞こえるだけだった。たった一つの小さな窓から外を覗くと、スノコ敷きの通路がちょっと離れたところにあって、そこを通る人の足音だった。
 二日ほどが過ぎ、ガタゴトガタゴトと多人数の足音がした。小窓から覗くと、顔見知りの人たちが見えた。みんな教会関係者だった。恐らく呼び出されたのだ。厳しく諭されるのだろう。いったい何が語られるのか。自分もすぐにも呼び出されるだろう。あれこれ訊かれるにちがいない。緊張したが、何日経っても、放っておかれた。
 保護室にただ座っていると、事務室に近く、電話の声がよく聞こえた。
 「……署長さんがちょっとお出かけですので、寒天がほしいんですがね」
 そんな電話のあと、茅野《ちの》名物の寒天がさっと届くのが手にとるようにわかった。商人が持ってくるのだ。
 「……お宅に、こういう者が今晩泊まっているだろう」
 と刑事の声がする。政一も名前を知っている諏訪の旅館に電話をかけているのだ。警察がどのように目を光らせているのか、その内部事情がよくわかった。


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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/4 8:06
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 読み書きを断たれて暗き鉄窓に黙して待つはいく月年(つきとせ)か(四月九日)

 これが検挙後はじめて作った短歌だった。
 一週間ほど経って、畳敷きの部屋から板敷きの独房に移された。ケヤキ造りの頑丈で薄暗い部屋だった。部屋はそれでも四畳ぐらいはあった。隅にフタをしたカメがあって、それが便器だった。毎朝八時ごろ、職員がきて部屋の鍵を開け、洗面所に連れていく。カメはそのときに自分で持っていって洗った。春とはいえ寒かった。布団をかぶって多少なりとも暖をとりたかったが、日中は布団を隅に畳(たた)んでおかなければならなかった。
 以後、どこへ移されても独房だったが、読むことも書くことも厳禁で、昼間はただ座っている。もちろん寝転んではいけない。人に会うことも許されない。穴蔵か倉庫のような陰気な部屋で、もちろん錠を降ろされている。三〇センチ四方ぐらいの高窓が一つあるだけだ。どうにか字が見える明るさの五燭 (豆電球二つ分ぐらい) の電灯が天井にポッンと一つ付いている。

  醒(さ)めやらぬ目(ま)ぶたをしきりにこすりおる祐子よあわれ拘引の朝
  鉄窓に許されたるは深呼吸黙想黙祷《もくとう》まわれ右前
  春の日はここには入らで寒かりきふとんかずきて今日も温《ぬく》もる
  今日もまた取り調べなく過ぐるらし雨の降る日よトタンの壁よ
  これやこの人に知られぬ道ならむ黙して仰げ主の十字架を

 食事は、官弁(支給食) という差し入れ屋の弁当だ。麦飯とタクアン三片、切り干し大根がちょこっとのっている。あまりにも粗末な弁当なので、政一は長い間、カンベンというのは簡易弁当の略だと思っていた。朝食夕食の変化もない。お茶もない。喉《のど》が渇いたら、見回りの誰かが通りかかるのを待つだけだ。
 「お願いしまーす」
 「なんだー」
 「お湯、お願いしまーす」

 一椀の湯と漬け物の簡弁も心やすけくかみて味わう
 ひざ頭いだきて扉によりかかり目ぶたをとじて今日もくれゆく


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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/6 8:25
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 四月下旬になってやっと取り調べが始まった。

 県警察から松沢刑事がやってきて、取調室で机をはさんで向かいあって座った。
 ゆっくりと、一枚の大きな紙を広げた。幅四〇センチ長さー二〇センチほどの巻物だった。政一には一目で、それが押収されたものであることがわかった。第六部の部会長をしている車田秋次がずっと前に外国の書物から訳出した、『永遠から永遠への時間進行図』(筆者注・正確には『旧新約聖書預言的図解』)と呼んでいる絵図面だった。
 「池田さん、これは、どういうことか、説明してください」
 と、事務的に言った。

 それは、キリスト教における「時間観念」を図示したものだった。神が天地を創造された。その「神」とは天地万物の唯一の創造主である。その神が時間を司(つかさど)る、つまり歴史を支配する。そして天地万物には終わりがある、つまりこの世には終わりがある、ということを、絵巻物のかたちで展開しているものだった。
 その図面には、「千年王国」という文字はなかったが、「偽基督」や「千年時代」など、触れたら破裂する文字があった。松沢氏はそこを踏ませたがっていると思えた。
 「こういうものは、教えの細かい点の説明においてひとりひとり微妙に違いますし、教派によっても違いますが」
としぶったら、即座に、大柄なからだを揺すりながら、
 「僕にはよくわからないからね、君に説明してもらいたいんだ」
と言った。政一は覚悟を決め、説明を始めた。

 神による天地の創造、アダムとイブのエデン期、ノアの洪水期などの話から始め、キリストの十字架上の死と復活を語り、そのあと教会時代、キリストの再臨、千年時代と話をつづけた。松沢は腕を組んで静かに聞いていた。ところが、キリスト教徒が待ち望むのは「新天新地」であるが、その出現の前には神の審判がある、と政-が言うと、目が光った。「すべての人は、神の裁きの前に立たなければならないのです」と言った途端、ハタと政一をにらみつけ腕をほどき、バッと椅子から立ち上がった。
 「なにい。すべてのものは裁かれるだと。それでは、天皇陛下は罪人かぁ、えッ」
 といきなり、部屋が割れるような大声を出した。
 「いえ、そういうことではなく」
 言い終わらぬうちに、
 「黙って聞いてりや、何言ってるんだッ。ええ、神は唯一だと。それじゃあ、伊勢の天照大神は偶像かぁ。それで日本は罰せられるのかぁ」 のしかかるように身をのりだした。
 「こんな、不逞《ふてい=かってな》な教義を、宣布《=ひろく知れわたらせる》活動する、非国民ッ」 と叫んで、『時間進行図』 を広げた机をどんどんと叩いた。
 「そこに座れッ。土下座して謝れッ」
 政一は、その豹変(ひょうへん)ぶりにど肝を抜かれた。その断罪の姿は、閣魔大王(えんまだいおう)のようだった。
 (わたしが、非国民だなんて……)

 世界が一変したというか、信じがたい次元に突然引きずり込まれたというか、政一は言葉も出ないのだった。

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/9 8:24
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 最晩年に、娘の祐子の質問に政一は答えている。
 娘「……それで、なんと答えたの」
 父「答えもしない。答えることもない。答えさせる余裕も与えなかった。だって説明させておいて、いきなり怒鳴(どな)りつけたんだから。『そこへ座れッ。土下座して謝れッ』 って」
 娘「……それで、謝ったの」
 父「……『はあ、申し訳ありません』て言うしかなかった」
 娘「……手記に、土下座してその罪を懺悔(ざんげ)したって書いてあったけど…」
 父「国体に背いたことに対する謝罪、天皇に背くことなんか考えたこともなかったから…」
 娘「……その上に立っていこうと決意していた教義が、国体に反すると言われたときは、どんな気持ちだったの」
父「そんなこと、とんでもない、と思ったよ。自分は、キリストの救いの恵みを受けているし、福音は世界唯一のものとして、自分の人生を導いているし。そういう信仰で、日本人を教化していくのは、国のためにも最善をつくしていることだと信じていた。……だから、ああ断絶した、という思いだった」
 娘「非国民て言われることは」
 父「国民としてとんでもないことである、って気持ち」
 娘「国のために一生懸命やっているのにって」
 父「そうだよ。善良な、忠良な国民であるのに、非国民なんてね。不逞な教義を宣布活動するなんて言われてね。その断絶感がね……。正しいと思っていたことが否定されたんだから。圧倒的に踏みにじられたっていう感じ。国家に」
 娘「そのとき、国家とか、そういう言葉で、考えたの」
 父「言葉にすれば、誠意が通じない圧倒的ななにかがわたしを踏みにじっているつて感覚だよね。はじめは、訳がわからないさ。言葉が浮かぶゆとりもない。でも、それは国家さ。当時は 『国体』といっていたがね」

 - その日、政一はそれで独房にもどされた。
                             
 政一は打ちのめされた。込み上げる鳴咽(おえつ)をおさえられず、慟哭(どうこく)した。
 翌朝は、まぶたがはれて、人に顔をあわせられないほどだった。幸か不幸か、看守以外誰とも顔をあわすことはなかったが。
 また、無為のままの日々が始まった。

 鉄窓の霊なる我は悟れども肉なる我はいたく悩めり
 まのあたりあいまみゆるはいつの日か妊《みご》もる妻よいとしの子らよ
 聖僧の如く悟りて坐りませ飢えも渇きも責めも恥をも


                      

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/10 8:04
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 第3章・1

 妻・銃後の守り……………………………一九四三年

 一九四二年のホーリネス系牧師一斉検挙のあと、政一の妻むつみは、夫にも「その時」が来るかもしれないと思った。もし万一来たら、おそらく教会はやっていけないだろう、と夫婦で語りあいもした。しかし「その時」、妻の自分になにが始まるのか、具体的なことは見当がつかなかった。

 むつみは、一九〇九年(明治四二) 佐久の農家の生まれで、八人兄弟姉妹のなかでそだった。
 幼いころ姉について佐久中込ホーリネス教会に通ったのが、キリスト教との出会いだった。野沢女学校を卒業したあと、内務省の役人だった長兄の世話で、東京高井戸の浴風園という身よりのない老人のホームで働いていたが、その兄が板橋で薬局を開いたときから兄を手伝い、日本基督教会角筈《つのはず》教会で洗礼をうけた。その後東京聖書学校で学んでいたときに、聖教会の年会に行き、佐久教会の女性牧師の紹介で政一と出会ったのだった。
 「来るものは、やはり来るのだ……」
 というのが、夫連行の朝の心境だった。
 夫がその信仰と伝道のためにこういうことになるのなら、あとはわたしが守っていかなければならないのだと、しつかりと 「銃後の守り」《注》 の覚悟はした。
 子どもたちは父親が手術をしたことを知っていたから、おとうさんはまた入院したと話した。
 しかし長男の大作には、そんな話は幼い妹たち向けだとわかっていた。

 その夜子どもたちが寝静まったあと、むつみは、本が持ち去られてすっかり空っぽになった本棚やリンゴ箱をしみじみと眺めた。日々の糧として政一が読んでいた書物は政一と不可分だった。普段元気で明るいむつみではあったが、痛みと悲しみで胸は張り裂けそうだった。階下に降りて電灯をつけ、会堂に入った。座布団を一枚とりだして座り、声に出して祈った。願わくはわが往くべき道を照らしたまえ。

 与えられた聖句は、『詩篇』 二三篇だった。

  たとい、われ死の陰の谷を歩むとも、災いを恐れじ
  なんじ、我と共にいませばなり

 そうであった。インマヌエル。神われらと共にいます。今日、この恐るべき一日を生きる力を与えられたではないか。明日という日を主にゆだね、ようやく眠りについた。

注 銃後の守り=戦線の後方。転じて、直接は戦争に参加していない一般国民の国内の守り

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編集者 (代理投稿)

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/1/14 8:40
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 教会員が、警察にあれこれ教会の事情を尋ねられ、以後一切教会に出入りしてはならないと厳命されたと聞いたのは、数日後だった。信者の出入りはパタリと途絶え、二、三人が、夜、人目をさけて訪ねてくれるばかりだった。温かく言葉を交わしていた近所の人も、挨拶をしてもバツ悪げに視線をさけた。すべてがあっという間の変化だった。

 大作は小学校の三年生になったばかりだったが、父の検挙の当日にもう、「大ちゃんのお母さん、まま母だよ」と今まで言われたことのないことを言われた。遊びに出ると「スパイだぁ!」といじめられ、ときには石を投げられて泣いて帰った。
 祐子のママゴト遊びの仲間は一人も来なくなった。毎日、拾ってきたレンガを無心に石でたたいて赤い粉にしてお茶椀やお皿に盛るという、一人遊びを始めた。突然、孤独な幼児期が始まった。むつみが差し入れのため上諏訪署まで出かけるときは、次女の礼子が眠っていれば、三歳の祐子が留守番さえしたのだった。

そんなときに、 「奥さん、留守にするとき、お子さんはわたしがあずかります。いつでもおいていってください。悪いことをしたのではないから、わたしはいくら調べられてもいいです」
 毅然(きぜん)とそう言ってくれる女性がいた。若い信徒の水沢えい子だった。蕎麦屋を営む家の娘だった。足が不自由でいつも松葉杖を使っていた。つらい経験を乗り越えてきた人だった。力ある者のふるう横暴への恐怖を乗り越えて示される勇気以外、いったいどんな勇気があるといえるのか。生涯忘れえぬ人として、むつみの心に深く残った。

 日本基督教団から、統理者富田満の名で通達が届いた。日付は、四月九日になっていた。

 元日本聖教会及び元きよめ教会派所属の教会及び宗教結社は、今般宗教団体法第十六条及び治安警察法第八条第二項の規定に依り、教会設立認可の取消及び結社禁止の処分を受けたるに付き、処分当時同教会又は宗教結社に在任したる教会主管者及び宗教結社代表の諸氏は、此の際自発的に教師職の辞任を申出られ度し。もし之に応ぜざる場合に於ては、遺憾ながら教団規則第二百四十六条第七号の規定に依り教師の分限を剥奪することと可相成(あいなるべく)に付き、此際可及的速やかに辞表提出有之度(これありたく)此段申入れ候。

 辞任を強要していた。むつみは仕方なく、辞任の書類を作って送った。
 生活費を得るため真綿《まわた=注》のチョッキ作りを覚えて、内職を始めた。諏訪はお蚕(カイコ)仕事の中心地であり、教会の隣の建物も製糸工場だった。チョッキは、真綿をのばして糸状にし、原始的な織機で織っていく。その前に、赤や紫に真綿を染めたりもした。温かい防寒着の無い時代であったから、真綿のチョッキが重宝されていたのだ。
 五月下旬、教団総務局長鈴木浩二の名で、また封書が届いた。辞任者と謹慎中の者への、就職のアンケートであった。

  ---この度文部省の命令により去る四月自発的に辞任したる者及び謹慎中の者につき調査を行うこととなった。別記注意事項参照の上、同封用紙各空欄に記入の上教団事務所宛書留便にて御回答願いたい。
  追伸 今日まで他に就職していない方は、謹慎中の者並に教師復得希望の者といえどもこの際一日も早く国家の要請する方面に御就職され奉公の誠を尽されんことを願いあげる。

 むつみは、はらわたが煮えくりかえるようだった。
 獄中にいる者に就職状況を問い合わせるなど、何事か。「この際一日も早く国家の要請する方面に御就職され奉公の誠を尽されるように」との文面に、「夫は、国家の要請により留置場のなかで御奉公しております」と同封用紙に書きつけたかった。

注 真綿=糸にできない屑繭(くずまゆ)を引き伸ばし乾燥した綿

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編集者 (代理投稿)

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 しばらくして警察は、教会の講壇、六三鍵の足踏みオルガンをはじめ、備品、什器《=日常使う器具》などを全部競売に付すように言ってきた。びっくりしたむつみは、「やめてほしい」 と泣いて懇願した。主人は了解しているのかと聞いても、返事はなかった。信徒たちには、残された家族の生活費のために、と説得された。生活費は要ったが、こんな形で捻出《ねんしゆつ》される金銭は受け取れなかった。教会は、牧師個人の所有物ではない。教会の建物と付属品は、それまでの信者たちからの賜物としてそこにあるのだ。しかしやめてほしいとあまりしつこく言うと、今度は私物化しているようにも取られそうで、むつみは悩んだ。教会の備品を使い回して、生活費をきりつめ日常生活を保ってきたことは、誰もが知っていた。教会のちゃぶ台も、牧師館と教会堂を日常的に行ったりきたりしていたのだった。
 古物商人が呼ばれ値が付けられ、競売会は開かれた。買いに集まったのは主に、もうそのころは教会に来なくなっていた信徒たちだった。
 むつみが、そこで行われていることを見る覚悟を決めて、やっと牧師館から会堂に出てきたときは、すでにどんぶりも茶椀も五〇枚の座布団も家族が使っていたちゃぶ台も、引取り手が決まっていた。

 その夜、三歳の祐子が夜中に目をさまし、布団の上に座ったまま泣いた。
 「どうしたの。こわい夢見たの」
 「おかあちゃん、あのオルガン、どこいったの」
 昼間、物が運び去られていくのを見ていた。オルガンは100円だった。
 「預けてあるの。戦争が終わったら、信者の家から持って来てくれるのよ」
 となだめた。事実、信徒たちはそのように話していた。その後祐子は、オルガンを買い取った信徒の家のそばを通るとき、とりわけオルガンの音が響くとき、強い悲しみとうらめしさを感じるようになった。
 それはむつみとて同じであった。ちゃぶ台を買ったのは桂川だった。重たいから息子にリヤカーで取りにこさせるといって、教会堂の縁側に置いて帰った。初産で祐子が生まれるときは心細いむつみを励まし、つわりのときは、食べられそうな惣菜(そうざい)を持ってきてくれるほど親しかったのに。

 桂川にもまた言い分があった。しかし、それが語られたのは戦後になってからだった。
 備品の処分で牧師家族の生活費を捻出する考えも、むつみは警察の指示だと信じ込んでいたが、戦後落ち着いてから政一が調べた結果、そうではないことがわかった。拘留者の救済費用捻出に日本基督教団財務部は消極的だった。幹部を第一次検挙で根こそぎやられた第六部は、やむなく在京の幹部夫人や検挙を免れた者たちが、教会堂の備品売却などの財産処分で拘留者家族を救済しようと動いたのだった。警察はその動きを組織つぶしに利用したといえた。

 むつみは、備品の売却代金は受け取ったが、生活費にはできなかった。教会の借地代に当てた。借地代が払えなければ、教会堂の維持は不可能だった。

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編集者 (代理投稿)

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 全国的に食糧が乏しくなり、商店の廃業がつづいた。角の魚屋も店を閉じた。売る配給の魚が回ってこないのだった。あとで聞けば店主は闇屋をやって捕まり、政一の隣の房に留置されていた。家族を食べさせるためだった。そんな状況のなか、辰野の信徒がスルメや数の子などの食料品を手土産に、むつみを見舞ってくれた。目立たないように、代わるがわるやってきた。検挙前の政一は下諏訪、上諏訪、岡谷、辰野の四個所で牧会をしていたが、辰野だけは行政の管轄がちがい、諏訪警察に呼び出されなかったのだ。留置場への差し入れに栄養のある品を加えられたのは、その手土産のお陰だった。

 辰野の信徒たちはがらんとした教会を見て、驚き、悲しみ、売却品をなんとか買い戻そうと言ってくれたが、むつみは「どうぞ、このままに」とたのんだ。天からの使いのように彼らが訪ねてくれるこの生活に、どんな変化も起きないことを強く望んだのだった。

 むつみが牧師に嫁ぐことになったとき、牧師生活の貧しさを知る長兄の土屋誠一は、「貧乏クジだな」とむつみの覚悟のほどを問いただすように言ったが、備品売却の一部始終を知らせたときは、クリスチャンではないその兄が、
 「牧師の妻として、そのようなことは覚悟して然るべきだ。キリストを十字架につけた兵卒等は、その着物をくじ引きにして分けたじゃないか。キリストは、つばを吐きかけられたじゃないか。しかしむつみたちにそれほどの事は起こらないと思う。政一さんは悪いことをして連行されていったのではないのだから、泰然自若(たいぜんじじゃく)として居れ。生活費はわたしが送る」
 と手紙をくれた。むつみは大いに励まされた。いくら要るかと訊《き》かれ、むつみは二〇円と書いた。
 東京で薬局を営む兄からは毎月二〇円が送られてきた。東京では、普通の勤め人の初任給が約一〇〇円だったが、むつみの生活は極度につましく、それで安定した生活を営んだ。牧師の生活がどれだけつましいか、長兄はつくづく知ったのだった。

 七月に入ってすぐ、上諏訪署に差し入れを届けに行ったとき、むつみは特高主任の高見沢から、思いがけない話を聞かされた。ある信徒が、「奥さんはわたしたちを頼って困る。注意してください」と言いにきたというのだ。高見沢は「『奥さんは自分で働いている』と、むしろ弁護してあげたのですよ」と付け加えた。むつみは高見沢の前で言葉を失った。

 政一の検挙後、教会は解散させられていたが、解散前の教団の新聞の代金その他の請求書が来ていたので、教会の会計に、できるだけ早く集めて本部に送ってくれるよう依頼したのだ。それがこんな所で、こんな話になって語られているとは……。神をともに礼拝した人たちが、内輪の問題をこともあろうに夫を留置している警察に言うとは……。


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編集者 (代理投稿)

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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 バス停でかんかん照りの太陽にさらされながら帰りのバスを待っていると、目からハラハラと涙が流れ、とまらなかった。七か月の身重になっていた。血の気が引いていき、このまま倒れるのではないかと思った。

 家にもどり聖書を開いた。十字架にかけられる前、最後の晩餐《ばんさん》の席でイエスが弟子たちに語っている場面であった。「人々は理由もなく、わたしを憎んだ」 (ヨハネ一五・二五)。イエスを信じる者もまた憎まれるという、迫害の予告の個所だった。
 祈って床に就いたが、夜中に目が覚めた。身体の変調はここから始まった。

 昼間聞いたことが思いだされ、鼓動が急に激しくなった。脈は数えられないほど速く打った。
 真っ暗な闇へ沈んでいくようで、とても横になってはいられず、起き上がった。自分の右手で左手を握りながら、寝室のなかを歩き回った。ふと鏡に映った自分の顔を見ると土気色をしていた。覚悟を決めて隣家へ行き、戸を叩いて起こし牧師館まで来てもらった。ちょうどその時、野菜泥棒などを見張る夜警が鈴(りん)を振って通りかかるのが聞こえたので、近くの医者まで走って呼んでもらった。「心悸高進」(しんきこうしん)と診断された。

 その後、何をしても動悸が速く食事も作れなかった。むつみは、望月で小学校の教員をしている弟保芳に電報を打った。妻の三枝が、二歳と三歳の娘を連れて早速手伝いにきてくれた。そのお陰で、二、三日床に着いて休めた。

 娘の礼子は、同じ年ごろの従姉妹と遊べることで興奮し、食事もほぼ同量を食べた。しかしちょぅど離乳ができた時期の胃腸には、あまりにも負担が大きかった。皆の帰った夜、はげしく下痢をし、熱は四十度を越えた。大腸カタルだった。けいれんを起こした。舌を噛まないように、口に箸をかませようとしてガーゼを巻くのが間に合わず、指を突っ込んだほどだった。往診の医者はブドウ糖の注射をしてくれたが、次の注射は一週間後だと、申し訳なさそうに言った。薬は配給で、入手の方法は他になかった。

 徹夜の看護がつづき、どうにか峠を越えた。

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編集者 (代理投稿)

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