表参道が燃えた日(抜粋)-山の手大空襲の体験記-
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投稿日時 2009/5/17 8:49
編集者
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表参道が燃えた日
-山の手大空襲の体験記-
はじめに
スタッフより
この記録は「表参道が燃えた日-山の手大空襲の体験記-」からの抜粋です。
ここでは、編集委員会及び執筆者の皆様のご了承をいただいたもののみを転載させていただいております。
また、写真・挿絵につきましても作者の方のご了承を得て転載させていただいております。
表紙カバー表
「ケヤキの道」木村万起
(油絵162×97cm)
表紙カバー裏
2007年12月の表参道
(写真 みずほ銀行前の灯籠。下段は 灯籠の台座)
はじめに
昨年の一月、明治神宮表参道から青山通りに出る銀行前に小さな追悼碑が建ちました。かつての空襲で、多くのかたがたがこの場所で非業の最期を遂げられたのです。銀行の外壁に残された人の手の跡や脂の黒いしみも建て替えや道路工事でなくなってしまいましたが、唯一参道入口に立つ灯籠の台石に焼夷弾で削られた痕が残っています。追悼碑は犠牲になったかたがたの霊を悼み、再び争うことのない平和な世界を祈るものです。
思い出のつまった街や家を失い、大切な人を一夜にして奪われた人たちは、戦後六十年を経て、華やかに変貌していく表参道を目の前にし、複雑な思いでした。あの惨禍を忘れてはいけない、次の世代に語り継がねばと、署名を集め、追悼碑を建てました。その時寄せられた何通かの体験記がきっかけになって、このたび文集を発行することになりました。
呼びかけに応えて文章を寄せられたかたがたは、当時中学生か女学生だったかたがほとんどで、今や七十歳以上になられています。戦争を実体験で語ることができる最後の世代ではないでしょうか。この地に住み、学び、今も住んでおられるかた、離れられたかたが六十年間胸の中に閉じ込めておいた恐怖の、痛恨の思いを綴ってくださいました。
東京の空襲といえば三月十日の大空襲が報じられ、山の手空襲についてはあまり語られることがありませんでした。青山・表参道周辺の限られた地域の体験記ですが、空襲を体験されたすべてのかたの気持ちに通じるものと思います。
執筆いただいた皆さま、および四人のかたの文章を一部転載、加筆させていただいた青南小学校三十六回同期会文集「あの頃 青山・青南時代」の編集発行人にお礼を申し上げます。
イラストレーターの穂積和夫氏には、ご多忙のところを挿絵を描いていただき、大変感謝しております。
二〇〇八年一月
編集委員(五十音順) 榎本 新一
児玉昭太郎
谷 美和子
長崎美代子
比留間柏子
増間 加代
編集にあたって
一、体験記の配列は、表参道と青山通りの交差点付近を第一のグループとし、順次その周りへとグループを分けた。それぞれのグループ内も中から外へ広がる形で配列した。
二、執筆者の戦災時の住所を、文末に当時の住居表示で記した。執筆者の希望により現在の年齢などを記したものもある。
三、体験記の内容で明らかな事実の誤りについては訂正したが、その他については原文どおりとした。
四、漢字、かなづかいについては、なるべく当用漢字、現代かなづかいを採用した。現在あまり使われていない熟語についてはルビをふった。
五、各グループごとの地図は、昭和十六年日本統制地図(株)発行の地図をもとに作成した。
二版発行にあたって
初版を読まれたかたたちから、もっと多くの人に戦災の惨禍を知ってもらいたいという要望が寄せられ、初版発行後二か月で版を重ねることになった。二版発行にあたっては、焼夷弾分解図など、付録の一部を新しい資料にもとづいて訂正した。二版は定価をつけ、ひろく販売することにした。
二〇〇八年三月
編集者
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目 次
はじめに
青山通り沿い 青山北町四、六丁目・青山南町三、四、六丁目
私の五月二十五日 泉 宏
私の戦災 I.E
あの日 Y.R
水晶の印鑑 石川道子
私の空襲体験 T.J
忘れ得ぬあの日、あの時 三田信治郎
戦時体験を語る (座談会) 竹山幸之助 中島和雄 横田善之
太平洋戦争末期の 「ひとこま」 中里昭子
原宿・穏田附近 表参道周辺
兵役中に失った父と二人の妹 榎本新一
東京山の手大空襲と特攻生き残りの戦後 大貫 功
ケヤキの道 木村万起
神戸富起
五月二十五日のこと 清水俊子
紙一重の 宮城昭子
忘れ得ぬ戦時体験 下薗琢二
今も心に残る穏田町の惨状 粕壁直一
学徒動員と山の手空襲 鷹野幸雄
青山南町五、六丁目南側・青山高樹町
まだらな追憶を辿りながら 伊原太郎
戦災犠牲者追悼碑に寄せて 平良安江
昭和二十年五月二十五日の記憶 山形美智子
戦後、青山青南小学校の屋上にて 相良久子
青山炎上 斎藤恭子
東京大空襲五月二十五日 佐藤二郎
赤坂・麻布
赤坂台町が焦土となった日 佐藤靖子
平和を祈りつヽ 深山愛子
渋谷区金王町・美竹町・青葉町
空襲の思い出・東京最後の大空襲 森木和久
戦後六十年を振り返って 田之上濱子
赤坂・麻布・渋谷区以外
恐怖の日々、そして平和への願い 小松英子
帝都大空襲の思い出 岩原さかえ
忘れられない歴史の事実を伝えるために 白井 貞
あとがきにかえて 広島原爆被災の記 K.S
付 録
戦争への道
東京空襲のあらまし
東京空襲記録
略年表
港区・渋谷区内の戦時中の軍事施設
東京都戦災焼失地図
ことばの説明
参考資料
本文挿絵 穂積 和夫
はじめに
青山通り沿い 青山北町四、六丁目・青山南町三、四、六丁目
私の五月二十五日 泉 宏
私の戦災 I.E
あの日 Y.R
水晶の印鑑 石川道子
私の空襲体験 T.J
忘れ得ぬあの日、あの時 三田信治郎
戦時体験を語る (座談会) 竹山幸之助 中島和雄 横田善之
太平洋戦争末期の 「ひとこま」 中里昭子
原宿・穏田附近 表参道周辺
兵役中に失った父と二人の妹 榎本新一
東京山の手大空襲と特攻生き残りの戦後 大貫 功
ケヤキの道 木村万起
神戸富起
五月二十五日のこと 清水俊子
紙一重の 宮城昭子
忘れ得ぬ戦時体験 下薗琢二
今も心に残る穏田町の惨状 粕壁直一
学徒動員と山の手空襲 鷹野幸雄
青山南町五、六丁目南側・青山高樹町
まだらな追憶を辿りながら 伊原太郎
戦災犠牲者追悼碑に寄せて 平良安江
昭和二十年五月二十五日の記憶 山形美智子
戦後、青山青南小学校の屋上にて 相良久子
青山炎上 斎藤恭子
東京大空襲五月二十五日 佐藤二郎
赤坂・麻布
赤坂台町が焦土となった日 佐藤靖子
平和を祈りつヽ 深山愛子
渋谷区金王町・美竹町・青葉町
空襲の思い出・東京最後の大空襲 森木和久
戦後六十年を振り返って 田之上濱子
赤坂・麻布・渋谷区以外
恐怖の日々、そして平和への願い 小松英子
帝都大空襲の思い出 岩原さかえ
忘れられない歴史の事実を伝えるために 白井 貞
あとがきにかえて 広島原爆被災の記 K.S
付 録
戦争への道
東京空襲のあらまし
東京空襲記録
略年表
港区・渋谷区内の戦時中の軍事施設
東京都戦災焼失地図
ことばの説明
参考資料
本文挿絵 穂積 和夫
編集者
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青山通り沿い
青山北町四、六丁目
青山南町三、四、六丁目
(地図 青山通り沿い)
私の五月二十五日
泉 宏
我が国の敗戦、無差別な空爆による青山の廃墟の事を六十年有余を経て、思い出し書き記すのは辛い事である。しかし、今我が国の為政者達の戦争に対する無定見さを見る時、「ミミズのタワゴト」として訴える義務があるのかと自問している所です。
昭和二十年五月二十五日の晩、私は青山北町六丁目四十六番地(現北青山三丁目十二番)にいたが、焼夷弾爆撃により渋谷、霞町、穏田方面から我が家に火の手が迫り逃げ場を失っていた。母と姉は一足先に代々木の練兵場に避難するようにし、私と父が消火の為に残ったが、青山六丁目の町会役員であり、また在郷軍人会の副団長の父は、町会の様子を見てくると出かけた。その後、身近に焼夷弾が炸裂し我が家が燃え始め、少しは消火に当たってみたが、私は堪えられず逃げ出した。
それが父との最後の別れでした。父は、はぐれた私を探す為に命を失ったのではと、今でも心苦しい気持ちが続いています。
青山通りを背にして代々木の練兵場方向に逃げ出したが、表参道の坂道で立ち往生、本能的に火の手の落ちるのに従い青山通りまで逃げたが、目指す青山墓地まで逃げ切れず諦めかけたが、最後に青山警察署脇の強制疎開跡地に身を隠し二十六日の朝を迎えた。その時十五歳であった私は全体像を掴めた訳ではないが、その空き地でお産をした母親がいたこと、目の前に残った煉瓦塀の反対側で数人の人が、身を寄せ合った形の焼死体でいたのを鮮明に覚えている。
明け方、火の鎮まりかけたのを期に我が家に戻ったが、焼け跡には五右衛門風呂の釜だけが残され他は何もなかった。草臥(くたぴ)れて強制疎開の空き地に寝ていたら、遅れて戻った姉は私が死んでいるのかと思ったそうだ。更に遅れて姉とはぐれた母が、手と胸に火傷を負いながら、最後は山陽堂の本屋さんに助けられたと戻って来た。しかし、父は遂に戻らなかった。
父を探して、道端の防空壕、表参道、マンホール、避難所、病院と訪ね歩いたが遺体も足跡も見つける事は出来なかった。旧安田銀行脇で真っ黒焦げの遺体の山、道のマンホールの中の蝋人形のような裸の遺体まで捜したが、参道の所で見かけたとの噂のみが届いた。
家の隣の有川さん母娘、福沢さんの祖父と孫娘、家の前の大原さんは母と二人の子供、裏の家のお婆さん、我が家の周囲の家だけで、これほど多くの方達が亡くなられる事など、三月十日の深川方面の空襲を眺めていながら想像も出来なかった事でした。
平成十九年の今、両親に公報のないままビルマで戦死した長兄、戦地からどうにか戻った二人の兄、遺骨のない夫と息子への感情から靖国神社へ参拝する事を拒んだ母、姉、皆この世から去り私は独りになった。あの火の中を生き抜けた私は、何か私に生きる価値があるのだろうと苦しさも乗り越えてきた。しかし父を亡くしたのは私の故ではないかと今でも自ら責めている。お骨のない父や兄の墓参をする気にもなれないでいる。その故か神仏への信仰心が生まれないでいる。
あの時立派な軍国少年であった私だが、孫も得て恵まれた幸せを感ずる今日、戦争を起こす人達は許せない。アフガニスタン、イラクと空爆の状況をテレビ等で見るたびに、あの日、燃え盛る炎の反射で赤く染まった腹をしたB29爆撃機を思い出し、反撃も出来ないで口惜しさと空しさで上を見上げ、逃げ惑う両国の住民達に思いを馳せる。
今の為政者達は実体験もなく戦争の実態を抽象的に捉えているだけではないだろうか。彼等を炎の中を駆けさせてみたい。
父は小袖のみ、兄は杉の板に書かれた名前のみが遺骨でした。この戦争と空爆体験が、その後の私の哲学になったと信じている。
(赤坂区青山北町六丁目)
編集者
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私の戦災
I.E
昭和二十年、空襲が激しくなってきました。私は小学校六年の時、縁故疎開を二軒もしており、通知表を貰うために卒業三ケ月前に青山小学校へ戻って来ました。そして四月、第一商業学校に並び順番で(空襲のため) 入学しました。
ようし、これからがんばって勉強をしようと思ったところ、五月二十五日、戦災にあいました。
当時私達が住んでいたのは、今の紀ノ国屋仮営業所の向かい側あたりで、「赤坂区青山北町六丁目」といったと思います。前が青山警察署でした。そこに父の営む店があり、住まいも兼ねていました。二十五日夜十時頃(?)、B29が我が家の上空を何十機も飛んでいました。私は二階家の物干場でこれを見ていて、「僕が大人になったら軍人になって、この飛行機を何機も撃ち落としてやるんだ」と思っている矢先に、近隣の民家に焼夷弾が落ち、一瞬にして真赤に燃え上がり、あわてて物干場から下りて布団をかぶりました。布団の中で考えました。近所が燃えているのだから逃げなければと思い、一階へ下りて行くと、すでに父が自転車の後ろの荷台に荷物を積んでいるところでした。
お米と重要書類だからな、と言って、明治神宮へ逃げろと言われ、外に出ました。ものすごい火の粉が吹いていて、とても自転車に乗って走ることは不可能で、引っ張って歩くのがやっとです。表参道交差点まで来て、神宮へ向かったところで、「ヒユー」という音とともに焼夷弾が目の前十メートル位先に落ちました。
大勢の人が防空ズキンをかぶり、地面に伏せました。私は自転車を持ったまま立っていました。今の伊藤病院のあたり、道路をななめに落ちて通行止めです。表参道の交差点まで戻って来た時、突風にあおられ、自転車を倒してしまいました。ドイツ人かと思われる人が起こしてくれ、荷物を捨てたら、と言ってくれましたが、重要書類だからと言ってそのまま別れました。すでに渋谷方面から大勢の方が避難されて来ていました。
私は青南小学校の方へ行きましたが、「煙がすごく、この先は行かれませんよ」 と行き違う人に言われ、また戻って来ました。そこで父とばったり出会いました。父は「自転車を捨てて行く」と、いとも簡単に表参道の交番の横の壁に置いて行きました。掻巻(袖の付いた綿入れの夜具)を二枚持ってきてくれ、これを着て青山通りを駆け抜けるとのこと、先に裸馬が一頭走り抜けて行きました。両側が燃えている中、電車道を肩をぶつけ合いながら赤坂方向へ走りました。十メートルも行かないうちに父の布団の裾に火が付きました。走りながら脱ぎ捨てて、我が家の前を通り過ぎる時、真赤に燃えている店を横目で見ました。百メートル位走ったところでは火はありませんでした。今のピーコックのあたりです。防火用水があり、グリーン色ににごり、ボウフラがわいているような水を、非常に飲みたかったことを覚えています。
裏道を通り、ようやく青山墓地に到着しました。青山墓地は人、人で満員でした。父は「青山六丁目の人はいませんか」と、大きな声で何回も歩きながら言いました。何十分か経った時、暗闇の中から、「この先の路地を入った所にいますよ」と年寄りの女性の声が聞こえました。墓の敷石に座り込んでいる母を見つけ、三人で抱き合って無事を喜びあいました。
そして二十六日の朝が来ました。「町内の人達がもしかして青南小学校にいるかも知れない」と言うので、また青山通りをもどって行きました。両側焼け野原、まだ炎や煙が立ちのぼっていました。家の前位の所に来た時、女性が一人、狐色に焼け焦げてうつ伏せに倒れていました。お尻の窪みのところに少し布地が残っていました。「あゝ、僕達よりも後から走ってきた人だな」と思いました。
青南小学校に行くと、町内の人たちが居ました。そこで飯盒でご飯を炊いてもらいました。芯がありましたが、おいしかったです。おかずは、たしか梅干一個だったと思います。お昼頃、町会長の坂本さん(発明家で、当時は竹で自転車を作っていました)がどこからか情報を聞いて来て、小田急線が経堂-小田原間を走っているとのこと、坂本さんの知人宅が経堂にあるので一晩泊めてもらいましょうということで、経堂まで歩くことになりました。十人位だったと思います(子供は私一人だけ)。
表参道の交差点へ来ました。交番の横の壁に置いた自転車を見に行きましたら、骨組みだけが残り、そのままの状態で置かれていました。安田銀行(今のみずほ銀行)の前に最早や死人が山のように積まれていました。私は先頭を歩いていました。渋谷の下り坂にかかる所(今の仁丹ビル)あたりで、後方で何人かが「危ない」という声で、私は半歩後ろへ下がりました。根元から燃えていた電柱が、私の学生帽をかすめて落ちました。上も気をつけないといけないな、と思いました。
夕方暗くなってやっと坂本さんの知人宅に到着しました。久しぶりに畳の上に座れた思いでした。皆でお米を出し合って、おにぎりを作ってもらい、二個ずつ配給されました。おいしかったこと!翌日二十七日朝、超満員電車で富水駅まで行き、叔父さんの家に着きました。
それから四年経った時、まさか戦災で逃げまどった所に住めるとは、夢々思ってもいませんでした。
追悼碑建立のよびかけに応えてー
戦争、空襲で犠牲になられた皆々様のご冥福を心からお祈り申し上げます。地球上から戦争がなくなることを願い、店の焼け跡から出た花入れを今も大切にしております。
(妻英子、平成十七年十二月二十五日没)
(赤坂区青山北町六丁目)
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あの日
Y.R
あの日、十四歳、女学校の二年生だった。昭和二十年五月二十五日、私たちの青山の燃えた日
である。
あの夜、警戒警報発令後すぐにブーッ、ブーッという断続吹鳴の空襲警報サイレンが鳴り響き、東部軍管区情報は 「敵、数目標」 の侵入を伝えた。
私と母は庭の防空壕に入った。パラパラという音、ドスンドスンという音がしていた。どのくらい経っただろうか。塀の外が騒がしくなり、「待避!待避!」と叫ぶ声が聞こえた。物干し台に様子を見に上がった父が、「青山学院が燃えている!火の手が近づくから避難しなくちゃ駄目だ!」と叫んだ。
私の一家四人は父、私、母、兄の順に横一列に並び、離れ離れにならないようしっかり腕を組み合い、家を後にした。
私の家は当時の青山北町六丁目にあって(現在の青山パラシオタワーの裏の辺り)、表参道の大灯籠のところまでほんの二、三分ほどだった。青山通り(246)と表参道の交差するあの辺り、特に安田銀行(現在みずほ銀行)の入り口付近には多くの人々が座りこんでいた。かなり広い空間なので安全な避難場所に思えたのかも知れない。
私たちは青山墓地を目指していた。電車通りを真っ直ぐに、善光寺の前を通って行くつもりだったが、その時はもう、行く手の五丁目方面は燃え上がっていて松本文房具店の前の辺りを左から右へ車道を横切って炎が走るのが見えた。どの方角も真っ赤だった。ただ青南小学校の方面だけは煙が立ち込めてはいるものの、暗い。「暗い方へ行けばよい。」という父の声でそちらに向かった。私たちの周りを人々の波が黙々と同じ方向へ、墓地へと流れて行った。
その夜は墓地で明かした。墓地周辺の石材店や人家が焼けるのを見た。見る見る炎に捕えられていく建物を見つめながら、今頃は我が家も燃えているのかと無人の家を思い浮かべていた。
翌朝、明るくなるとすぐに青山通りを通って家に向かった。四丁目あたりまで来た時道端に茶色の人間のようなものが転がっていた。私は等身大の石像だと思った。全身茶褐色で衣類はつけていなかったし、手足をつっぱってポーズをとっているようだったから。でもそれは焼死体だったのだ。父にそう教えられ私は何度も「本当にあれは人間なの?」と訊(き)いた。生まれて初めて見た死体だった。
焼死体は参道に近づくにつれて増えていった。あの安田銀行のあたりは焼死体の山であった。
茶色に焼け焦げた人、衣類の一部が焼け残って体に張り付いている人、皆、様々な形で硬直し焼けていた。そして人間の焼けたいやな匂いがあたりに立ちこめていた。あとで聞いた話によれば、明け方、軍のトラックが来て見分けのつかぬほどのひどい焼死体は運び去った後だということだった。
我が家は跡形もなく、庭の木々も焼け失(う)せて、敷地内は文字通り瓦礫(がれき)の山だった。防空壕は入り口のふさぎ方が不十分だったのか火が入って崩れ落ちていた。
昼過ぎ、焼け跡に突き出て水を流し続けているこわれた蛇口から水を汲んでいると、後ろから声をかけられた。振り向くと小学校時代の同級生のYちゃんだった。Yちゃんは沈痛な顔で、「C子ちゃん、亡くなったのよ。」と言った。C子ちゃんは祖父母と共に逃げ遅れて亡くなったのだそうだ。ご両親は幼い弟妹を疎開先に送り届けるため留守だったとか。小学校の卒業記念にC子ちゃんと、Yちゃんと、私と、Kさんと四人で写真を撮ったのが悲しい思い出になってしまった。
その日の夕方青山を去り、以後二度と青山に住むことはなかった。
今、行きずりの一人としてその街角に立ち、戦後華やかに変貌して、最もファッショナブルな街ともてはやされ、戦争を知らない若者たちが闊歩するかつての「わが街」を見る時、あの日の惨状を思わずにはいられない。
表参道の大灯籠の傍らで彼女を待っている若者は、かつて灯籠の台石に焼死した人々の脂が黒く染み付いていたことを知らない。
246と表参道の交差点をのんびりと渡って行くカップルは、あの日その真ん中で座った姿のままで焼死した女性がいたのを知らない。
地下鉄を降りて表参道ヒルズに急ぐ女性は、通り過ぎて行く伊藤病院の脇にあった防空壕の中であの日多くの人々が折り重なって死んで行ったことを知らない。
そして私は思う。
今の青山が私の見知らぬ街であっても、それが再び戦火に焼ける日が来てはならないと。
(赤坂区青山北町六丁目)
編集者
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水晶の印鑑
石川道子
東京空襲犠牲者追悼碑と名簿
収納施設(墨田区横網町公園)
昭和二十年五月二十五日の夜十時半頃、空襲警報が鳴ったと思ったらすぐ、外が騒がしくなりました。二十四日早朝にも青山北町の方に焼夷弾が落ちてバケツリレーで消したりしました。外に出て見ると、渋谷の方から火が向かってくるのです。今日は危ないと思い、リヤカーに荷物を乗せて逃げることにしました。
私の家は表参道から青山通りに出て交差点のすぐ近くにあった魚熊という魚屋です。
父、母、叔母、兄嫁、三兄、弟、妹と私の八人は家を出るとすぐ、みんなばらばらになってしまいました。私は足の悪かった叔母といっしょに墓地の方に向かって逃げました。根津さん(現在の根津美術館)の横のどぶの所まで来て動けなくなってしゃがみこんでしまい、もうここで死ぬのかと二人で震えていました。しばらくすると、火の勢いが弱まってきてどうやら助かったわけです。
夜が明けて朝の五時ごろ、まだ燻った煙の立つ焼け野原をわが家の方へ行く途中、あちらこちらに黒焦げになった人たちを見ました。その中に赤ちゃんをおんぶしたまま亡くなっている方がいて、なんてむごいことと胸が締め付けられる思いでした。何の罪もない人たちがこんな目に遭うなんて-。
家はもちろん焼けてなくなっていました。家族も無事戻ってきたのですが、父だけが帰ってきません。焼け跡にぽつりと冷蔵庫が立っていて、中を開けると生しゃけが蒸し焼きになっていてみんなで食べました。
二十六日には出征して都内にいた長兄が駆けつけてきました。安田銀行(現みずほ銀行)の前に山のように積み重ねられた焼死体を、軍のトラックがきて、スコップでトラックに投げ込んでいるのを目の前で見て震える思いでした。父はどこかに生きているはずと、みんなで手分けして日赤や町中を探しましたが、みつかりませんでした。父を見た人の話では、自分の家が焼け落ちるのを見届けていたようです。責任感の強い人でしたから逃げ遅れたのかもしれません。
二十九日になって青山警察署のお巡りさんが、松本文具と増田屋さんの横道を入ったところの樋口さんの家の玄関先に倒れているのを見つけて知らせてくれました。消し炭のように真っ黒だったそうですが、水晶の印鑑を持っていたのでわかったということでした。父は赤坂の組合長などしていましたので、青山警察署の人には名前を知られていました。
三兄がみんなは行かない方がいいと言って、どこからか甕(かめ)を拾ってきてその中に拾えるだけのお骨を入れてきました。火葬をすることも、お葬式をすることもできず、あとは区が整理して下さったそうです。戦後五十五年も経った平成十二年、東京都から通知がきて、都立横網町公園に東京空襲犠牲者追悼のモニュメントを作る予定で、その中に犠牲者の名簿を納めるために名前の確認と募金のお願いをしたいということでした。母はすでに亡くなっていましたが、翌年完成した時にはみんなで行ってきました。
父がみつかってから二、三日間、父が仲人をした人の家にお世話になり、六月二日に父の遺骨を持って長野県の沓掛に疎開しました。疎開しても火を見るのがとても怖かったです。戦争が終わって十一月に青山に戻り、沓掛から運んだ木材でバラックを建てました。その頃、青山会館の近くに住んでおられた山本五十六さんの奥様がお参りにきて下さいました。その後本普請をしたのですが、まもなくオリンピックのために青山通りが拡がって家が削られ、店だけを残して住めなくなりました。日赤のそばに移って、そこから長兄と次兄が通って店で働きました。魚熊の魚は値段が高いけれど魚は新鮮でおいしいという評判だったのですよ。
五月二十五日の空襲は悪夢のようです。父の遺骨は善光寺さんに納めました。善光寺さんはわが家の菩提寺です。いま、私は主人と二人で小田原に住んでいますが、元気な限りは五月二十五日の法要には来たいと思っています。今年は次兄が四月に亡くなり、その兄嫁と私の長女とでまいりました。兄嫁も善光寺さんの前にあった鳥屋で育ちましたが、三軒茶屋に越しましたので二十五日の空襲には遭いませんでした。
空襲のとき私は十九歳、勤めていた製薬会社も空襲に遭い、会社を辞めたばかりでした。父、江原福次郎は当時五十六歳、赤坂区会議員の二期目でした。東京市魚商業組合の参与や、青山支部長などいろいろな要職に就いていました。その後母も、長兄も、その時出征して中支に行っていた次兄も、三兄も、弟もみんな亡くなり、妹と私だけになってしまいました。八十歳までは、あの思いをして助かったのだから、やたらのことで死んではならないと頑張って生きてきました。
あの空襲のことは六十二年経ってもはっきりと目に焼き付いています。わが家では父一人だけが犠牲になりましたが、二人も三人も家族を亡くされた方たちはほんとうにお気の毒です。戦争は二度とやってはなりません。東京に行くたびによくここまで復興したものと驚くばかりですが、当時のことを話せる人も少なくなり淋しい思いです。
最後になりましたが、毎年五月二十五日に法要をして下さる善光寺さんに厚くお礼を申し上げます。(平成十九年五月二十五日談)
(赤坂区青山南町六丁目)
編集者
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私の空襲体験
T.J
双胴の戦闘機
戦争は国民にとっては不可抗力で、時には私達の人生を一変させることもある。
私は昭和四年に生まれた。日支事変に始まる私達の十代は戦争と共に生きてきた時代であった。そして時々の体験は今も鮮やかに脳裡に刻まれている。
日本の真珠湾攻撃により第二次大戦が始まった昭和十六年は女学校に入学した年で、開戦の御詔勅を聞きながら、日本はこれから大変な時代になるのだと異常な緊張感で身の引き締まるのを覚えた。
まず、思い出すのは空襲が次第に烈しさを増した昭和二十年二月、小雪の降り出した午後の出来事である。その日は日曜日だったのだろうか、警戒警報が発令された時、私はなぜか家の前に立っていた。すると、空襲警報の出るひまもなく突然、雲間から敵機が突然現れ、もの凄い爆音と共に急降下、同時に「伏せろッ」と男性の怒鳴る声。私はとっさに雪の上に身を投げ出した。バリバリッという音が耳をつんざいた。私達は機銃掃射されたのだ。その直後、うっすらと積もった雪の上には、弾痕が黒い点々となって残っていた。すぐ見上げると上昇中の敵機は双胴の艦載機だ。私はその時、操縦士の姿をはっきりと見た。あたりは他に人影はなく、私と声をかけた男性だけだった。もしかしたら、あの時二人とも死んでいたかもしれない。私は思った。「これが戦争なんだ、これくらいのことで、へたばるものか」と。そして勇気が湧いてきた。貴重な体験だったと今でも思っている。
当時の女学生は、軍需工場で生産に励む日々で、皆立派な熟練工になっていた。私達は皆自筆で墨痕鮮やかに「必勝」と書いた鉢巻をしめ、いつも張り切っていた。ある日、二十人程のグループで職場の係長に申し出た。「戦地では兵隊さんが昼も夜も戦っています。私達も寝てなどいられません。今日は徹夜で働かせてください。お願いします。」と熱心に交渉した。その時、担任の女の先生が血相を変えてかけつけてこられた。「今聞きましたよ。そんなことは絶対に許しません。私は皆さんの命を預かっているんです。もし今夜空襲があったら、どうなると思いますか。駄目です。許可しません」と断固反対されたので、私達は残念だけれど諦めざるを得なかった。
そして、昭和二十年五月二十五日、それは終生忘れ得ぬ強烈な思い出の日である。宵の口を過ぎた頃からB29が次から次と襲来した。空には、ごうごうと爆音が轟き、大編隊のその音は体の髄を貫き通し、ほんとに恐ろしかった。
当時の私の家族、父と年子の弟と私は、いつでも飛び出せるよう身仕度を調えていた(その頃、母はまだ幼かった弟妹と共に父の故郷の愛媛県、瀬戸内海の伯方島に疎開していた)。
やがて焼夷弾が方々に落ち始め、それが上空で炸裂し、多数の小さな弾に分かれて空に散らばり、キャンドルのようにキラキラと赤く光りながらゆっくりと落ちてくる。それは恐ろしくも美しかった。方々に火の手が上がった。もう危ない、避難しなくては…。
父は常々言っていた。「いざという時は明治神宮の森へ行こう。あそこなら絶対大丈夫だ」と。私達は青山通りに出た。もうすでに大勢の人々が右往左往していた。そして何ということか!この期に及んで、リヤカーや大八車に布団など積んで引いている人を何人も見た。焼夷弾は巨大な円形状に何ヶ所にも落とされ、それが中心に向かって燃えてきつつあった。全く八方塞がりで、人々はまさにパニック状態に陥っていた。どこに向かっても火の手が上がっていた。
私達は予定通り表参道を神宮に向かっていたが、突然、突風が起こり、私は足が地につかなくなり、空中に巻き上げられそうだった。
「体が浮いて歩けない!」と叫んだ。「それじゃ神宮はやめよう」と父。私達は、はぐれないように、しっかりと手をつなぎ引き返すことにした。その時、表参道の伊藤病院はすでに火に包まれていた。それから青山通りを外苑方向に少し行き、青山墓地への近道の横道に入った。しかしその道もすでに燃えはじめていて、火の粉がパラパラと体にふりかかる。私達は、当時各家の前に常備されていたコンクリート製の防火用水の水を、体や防空頭巾の上からかけながら必死でそこを通り抜け、やっとの思いで青山墓地に辿り着いた。
墓地にはすでに大勢の人が避難していた。少し高い所から燃えさかる街をくいいるように見つめた。その時屋根の上に男性の黒い影が一つ、真赤な火の粉の中にくっきりと浮かんだ。屋根の上に腹ばいになった。消火活動をしていて逃げ遅れたに違いない。私は胸がつまった。やがてその家は真赤な炎に包まれ、男性もろ共ドゥーツと倒れていった。そこは私達のいる所とかなり離れていたにもかかわらず、その熱風がワーツと伝わってきた。男性はきっと警防団の人に違いない。私は心の中で手を合わせた。
悪夢のような一夜が明けて、どこをどう歩いたのか焼け落ちた路を踏み辿って、やっと青山通りに出た。そこに凄惨な光景を見た。衣服も髪も焼け、男女の別もわからぬ黒焦げの死体が累々と横たわっていた。そこに一人の女性が死体に取りすがって、「あなた、どうしてこんなことになったのよ!」と大声で泣き叫んでいる。まさに地獄だった。
私は足の力も抜けてしまい、やっとのことで歩いていった。そして表参道の銀行前の光景に私は息を呑んだ。折り重なって死んでいる人々。その中で、ひと際目を引いたのは、リヤカーを引いたまま亡くなっている女性だった。リヤカーの上には二人の子供が虚空を掴むようにのけぞり、黒焦げとなっていた。これが地獄でなくてなんであろうか。母親と二人の子供は、そのままあの世へ行ったのだ。そしてそこに倒れている人達の体から脂が滲み出し、その跡は何年も残っていて、私は見るたびに当時の光景が甦り、胸がふさがれる思いだった。このような事を思い出すにつけ、戦争の残酷さをつくづくと思わずにはいられない。
今では有名ブランドの並ぶおしゃれなファッションの通り表参道も、このような戦時中の歴史を秘めていることを若い人達もどうか忘れないでほしい。私達は現在の日本の平和を感謝すると共に、老いも若きも絶対に平和ぼけになってはいけないと思うこの頃である。
追記 戦後の焼跡ぐらし「寸話」
終戦後、私は母が疎開先から帰るまでの二年間、父と二人で暮らした。焼跡も日が経つにつれて、家の敷地内にも雑草が色々と生え茂った。当時の新聞には、時局柄、どんな雑草が食べられるか、また、その調理法などが出ていた。そして、”あかざ〟が食べられることを知った。
ある時、家の敷地内で初老の女性が〝あかざ〟をせっせと摘んでいる。父は「これはいかん」とつぶやき、その人に近づいてゆく。私は興味をもって見守った。父は穏やかに言った。
「奥さん、ここは私の地所です。ここに生えているものは雑草といえども私に所有権があります。あなたには採る権利はないんですよ」
私は感心した。なるほど、弁護士はこういう言い方をするのか。その女性は「左様でございますか。では、こちらに置いてまいります」。父が、「いや、それはお持ち帰りください」と言うと、その人は感謝して立ち去った。
今でもなつかしい一場面である。
(赤坂区南山南町六丁目)
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忘れ得ぬあの日、あの時
三田信治郎
青南小学校 昭和18年
卒業アルバムより
非道、無慈悲なアメリカ空軍の執拗な焼夷弾攻撃のもとに、一九四五年(昭和二十年)五月二十五日の夜、住み慣れた青山という土地全体が焼け落ちるのを見た。多くの死傷者を出した。あの凄絶な〝炎の夜″を生涯忘れることはできない。
当夜、親父の「ボチボチ出かけるぞ!」という声が耳に入る。日頃、駄酒落をとばすことが多い親父が、空襲下の不安と緊張が高まるなかで、避難場所と考えていた「青山墓地」のことを、恐怖心を少しでもやわらげようとする配慮からのボチボチだったと親心に感謝している。
避難の途中、兄と二人だけになり、青南小学校の手前の四つ角にある「古森医院」にさしかかった時のことである。周囲はすでに火と煙に覆われ視界不良になりつつあった。その時、医院の前にうづくまる老夫婦を見た。
兄が声をかける。「早く逃げましょう!僕たちといっしょに!」差し出した手を払うように老夫婦は、「あなたたちは若い。長生きしなければいけない。私たちの息子たちは、戦死してしまったし、もう生きる望みはありません。もう疲れました。私たちはここに残ります。早くお逃げなさい。」と涙ながらに話された声が耳に残ります。
一夜明けて焼け跡にもどる人たちの眼はひどい煙と火炎のために、真っ赤にはれあがっていた。「青山警察署」の汚れた壁面に“我ら死線を越えたり″と消し炭で、黒々と書かれた文字と、神宮前のあの道路のあちこちに性別も不明な焼死体の山があったのです。また、人の脂の燃える臭い、跡形ないわが家と燃え続ける母校の姿は悲しみとともに脳裏から離れません。
本当に恐怖と悲惨の夜でした。すべての人に戦争の罪の深さ、残酷さを知ってほしい。
私は三十八年にわたる教職生活の中で、自らの戦争体験を通じて〝いつでも子どもたちに希望と輝きを″”子どもたちの笑顔をうばういかなる戦争も許さず”“教え子をふたたび戦場に送ってはならない”ことを理念として教育活動に専念してきた。
核兵器がなくならない限り、平和はこないと思うと心が重く悲しい。
終戦六十二年目の夏がやってきた。広島・長崎原爆の日。市長・子ども達の言葉に胸うたれました。それは原爆投下時の悲惨さを思い起こし、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、核兵器反対、核廃絶を全世界に発信したものでした。
人間はつらいこと、悲しいことは年の経過とともに忘れてしまう。しかし、二度とあってはならない戦争の記録は消してはならない。
明日の平和のために、語り継がなければならない真実の記録なのだから…。
(赤坂区青山南町六丁目)
青南小学校の宿直記録
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戦時体験を語る (座談会)
竹山幸之助 中島和雄 横田善之
近衛歩兵第四連隊の碑
新宿区霞ヶ丘公園
司会
青山小学校卒業同期の三人のかたに集まっていただきましたので、戦時中のお話を伺いたいと思います。
横田
この三人は一年に一回か二回は会っているね、同期でここに残っているのはわれわれだけじゃないかな。ここから離れた人や亡くなった人もいるし。
竹山
われわれより上の人は戦争に行ったし、下の人は疎開していたので、あの頃のことを知っているのはわれわれなんだ。もう五年早く生まれていればわれわれも死んでいたよ。
司会
青山小学校を卒業されたのは何年ですか?
竹山
昭和十七年三月、戦争が始まった翌年の春でしたね。
司会
青山小学校は古いのですか?青南小学校は昨年創立百年でした。
横田
青南は青小(青山小学校)の付属としてできたんです。青小は今年創立百三十二年を迎えます(明治八年十一月創立)。青小には高等科というのがあったけれど、青南にはなかったのです。
司会
今どの辺にお住まいですか?空襲のあった時は?
中島
青山小学校の南側に住んでいましたが、学校の回りが強制疎開になって梅窓院の横道の方へ移り、そこで戦災に遭いました。大工になって、今も同じ場所に住んでいます。
竹山
五月二十五日の時は青山郵便局前に住んでいましたが、そこで焼け、今のピーコック向かい側に移り、靴屋の店を開いています。
横田
地下鉄外苑前の入口のすぐ横に住んで食品卸業をしていました。今は別のところで商売をしていますが、住まいはずっと外苑前の同じところです。
司会
戦災の時、終戦の年は中学四年生、十五歳か十六歳ですね、その頃どうされていましたか?
横田
それぞれ違う中学に行ったのですが、みんな学徒動員ですよ。
竹山
私は十条の陸軍第一造兵廠で鉄砲の弾を作っていました。そこは食事がよくて、まあ食べるのが目的で行っていたようなものですね。学校に通っている頃も動くとお腹が空くのでじっとしていました。スポーツもしない、お昼前に弁当を食べ、お昼には水を飲んでいました。
中島
勉強はしないで、勤労動員で大森の鉄骨を作っている工場に一か月半ぐらい行きました。
その後、本所の強制疎開の建物の番号札を貼り付けたり、家を倒したりしていました。大したことはしませんでしたね。時間があれば、シジミを捕ったりしていました。また、特別消防団に入っていて、からになっていた近くの旅館を集合場所にしていましたが、何かあると消防車が焼けてしまうと困るので消防車は逃げていましたよ。
横田
私は青山学院から大森の日本特殊鋼に動員で行っていました。空襲になると、歩いて三十分かかる池上の本門寺まで避難しました。工場の近くに米兵の捕虜収容所があって、焼け跡の畠仕事などをやらされていたので、米兵は戦中からよく見ていました。
工場では戦闘機の機関砲を作っていました。何もやったこともないわれわれ中学の三年生が旋盤仕上げでその部品を作っているわけですから、試射場で発砲しても百発中の半分は不合格でした。
食事は竹山さんのところほどよくなかったですね。魚が出るのですが、アンモニア臭くてとても食べられませんでした。
大森海岸でカレイを釣って家へ持って帰り、天ぷらにして食べました。ところが毎日天ぷらをしているわけにはいかない。密告されたりして「経済警察」が来るのです。私のうちは食品の卸をしていたのですが、当時は配給品以外のものを仕入れたりすると警察に引っ張られたのです。親父は何もしていないのにいやな思いをしましたね。商店には国債の割り当てが多くて大変でした。今の十万ではきかなかったのではないですか。
ところで、動員の時の給料はよかったですね、二十円から三十円もらいましたよ。
竹山
僕も三十円ぐらいでしたよ。
中島
あの頃、中学を出た人の初任給は三十二円から三十五円でしたね。
私はすごいものを見てしまったのです。今の赤坂高校のところ、青山墓地に続いたところですが、穴がいくつも掘ってあって、そこへ三月十日のあと、トラックが何台も死体を運んできて(*)穴に埋めたのです。名前のわかっている人は別にして札を立てていました。死体はその後火葬にすることもなく、戦後その上に赤坂高校が建ったわけです。私の家の便所からリンが青く燃えるのが見えました。(*編注 「東京都援護課報告」によれば太平洋戦争中に青山霊園に仮埋葬された遺体は一七八八人)
司会
空襲の時はどうでしたか?
中島
五月の空襲よりずっと前、三月十日より前だったと思いますが、すごい音がして、長者丸通りに二百キロ爆弾が落ちたので見にいきました。豆腐やさんの裏の民家が一軒なくなってしまって、四メートル位の穴が掘れ、飛び散った衣類が木の枝にひっかかっていました。
死傷者が出たかどうかは知りません。
横田
私もなぜその時銀座に行っていたのか記憶が確かではないのですが、二十年一月二十七日のことだったと思います。重爆撃機B29が銀座交差点近くに五百キロ爆弾を落として銀座線の線路まで貫通したことがありました。私は近くのビルの三階に上がって下を見たら大きな穴があいていました。地下鉄は数日間不通になりました。
竹山
三月十日の空襲の時、東の空が真っ赤になっていたので外苑まで逃げたのです。そしたら皆に笑われて…。だから五月二十五日の時はぎりぎりまで家にいましたよ。傘を持って近所の人と青山墓地に逃げました。家族はバラバラで妹は外苑に、両親と兄は墓地へ。墓地で一緒になりましたが、皆無事でした。
中島
外苑前町会は広かったのですけれど亡くなった人は一人だけでした。その人は焼夷弾の直撃を受けたのです。
竹山
青小も木造部分は焼けてしまいました。学校の体育館には強制疎開の畳が沢山集めてきて置いてありました。私はその日から青小の体育館に寝泊りし、家族は上馬に行きました。
畳が沢山あるのに横になるスペースはなく、大勢の罹災者は座ったまま眠ったのです。羅災者はだんだん減っていき、その後地下の柔道場に移ったのですが、私は七月初めまでそこにいて、造兵廠に通いました。
中島
母と姉たちは疎開していて、弟は小金井に学童疎開していました。そこへ一度、大工の父と床屋さんが勤労奉仕で行ったことがあります。父は棚を作ったりして。やがてそこも危なくなり、母親のいた立川の方に移りました。
五月二十五日の時は墓地に逃げました。墓地は避難してきた人達でいっぱいでしたが焼夷弾は落ちませんでしたし、燃えてきませんでした。家は焼けてしまいましたが。翌日、自転車で表参道まで見にいきましたら、ふくれあがった焼死体が積み重なっていました。
横田
B29は数機ずつ編隊で来襲し、通り過ぎると、束になった焼夷弾はある高度まで落下するとバラバラになり、花が散るように落ちてくるのです。
その日は父と二人で、母達は疎開し、兄は出征していました。荷物は青山通りの歩道が当時としては広かったので、道路沿いに壕を掘って埋めておきました。避難した青山墓地から戻ったら家は焼けていましたが、壕の中は無事でした。翌日すぐ四谷の知り合いの家に行き、そこから大森の工場に通いました。
竹山
第一造兵廠は陸軍の軍需工場ですから、兵器は何でも作っていました。航空機関砲、小銃・鉄砲の弾など。なかでも有名なのは風船爆弾で、これは女子が作っていました。
薬莢の材料ははじめは真鍮でしたが、後に鉄になりました。鉄はすぐ錆びてしまうのですが、真鍮がもうなかったのでしょう。
司会
その頃青山の町はどうでしたか?
中島
神宮外苑の銀杏並木の奥の、今噴水のあるところに高射砲陣地があったのです。あそこで高射砲を撃つのですが、全然届かない。青山小学校の地下に食糧が置いてあって、給食堂みたいになっていました。高射砲陣地の兵隊たちがそこへ食べに来ていたようです。青小の地下には強制疎開のものか、木材が沢山あったので、焼け出されたあと、それをもらってきて家を建て、近所の人にも入ってもらいました。
竹山
私も高射砲陣地を見に行きましたが、囲いがしてあって中は見えませんでした。
高射砲陣地の青山通りの南側、青山南町二丁目はかなり広い地域が強制疎開になっていました。十八年十月二十一日の神宮外苑の出陣学徒壮行会には、私も送る側として参加しました。
青山には近衛師団や陸軍大学校など軍の施設が多かったため、朝から馬に乗った軍人が通ったり、軍人が下宿している家も多かったですね。東条英機、土肥原賢二、高橋三吉は青小の卒業生と聞いています。
中島
もう一人誰だったか、「四大将」といわれてましたね。
司会
皆さんのご兄弟で戦地に行かれたかたは、無事に帰還されたのですか?
中島
長兄が太平洋戦争が始まる前に北支で戦死しました。騎兵隊でしたが馬がなく、前に出て機関銃で撃っていたら、撃たれたらしい。二十歳でした。二階級特進で、勲八等、功七級金鵄勲章と千二百円をもらいましたが、戻ってきたのは石ころだけでした。当時五百円あれば家が建ったという時代ですよ。立派なお墓を建てろということなのか、それでお墓の地所を買い、本人のお墓と先祖代々のお墓を作りましたがまだ余りました。金鵄勲章は焼けてしまいました。靖国神社に祀られているのですが、私の代になっても寄付依頼など来ますよ。
私は八人兄弟でしたが、弟は早く亡くなり、姉たちも終戦後栄養失調などで亡くなり、私一人になってしまいました。
竹山
私は五人兄弟の四男でしたが、兄二人は戦死しました。長兄はフイリッピンのマニラで、次兄は中国の九江で。遺骨は芝の増上寺へ取りにいきましたが、二人とも遺骨はなく、やはり小さな箱に石ころが入っていました。
横田
兄一人は五月に招集され、終戦まで千葉の九十九里で塹壕掘りをしていたようですが、無事還ってきました。
司会
最後に、戦時中を今振り返ってみていかがですか?どんな感想をお持ちでしょうか?
中島
私より上の人が亡くなっていくたびにその方たちが経験された戦時中のことを思い出します。もう私たちだけしか知らないのだから、経験したことは話しておかなければと思いますね。戦争はやってはいけませんよ。
横田
よくあの環境のなかで、食糧もないのに生き延びられたと思います。父母のお陰と感謝の念でいっぱいです。
竹山
この戦争で亡くなった日本人は三百二十万人とも三百五十万人ともいわれています。多くの方の犠牲のもとに現在あるわけですから、これらの死を無駄にしたくないと思います。
どうしたら平和な生活を続けていかれるか、いろいろ難しい問題もありますね。
司会
本日はどうもありがとうございました。
(横田・竹山 赤坂区青山北町四丁目)
(中島 赤坂区青山南町四丁目)
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太平洋戦争末期の「ひとこま」
中里昭子
はじめに
一九四一年十二月八日、真珠湾攻撃に端を発した太平洋戦争は、軍事的にも心理的にも日本とその国民にとって、不安と恐怖をもたらす大きなできごとだった。私はこの事実を小学校六年生として受けとめ、情報等はその年齢なりに理解していたと思う。
それまでも、一九三一年には満州事変、一九三七年には日中戦争と、絶え間なく戦争が続いた結果、食料はもちろん燃料、衣料などにも事欠き、日常生活全般に不安が漲る時代になっていた。言論の自由もなく、国家の方針に従わない者は皆非国民と呼ばれ、厳しい扱いを受けたことも事実で、「戦中」を物語るひとこまと言えるかもしれない。
学生も「国家総動員」という国の方針に反対することはできず、私たちも「学徒挺身隊」の名のもとに、沖電気の芝浦工場に動員された。戦場で戦っている軍人、召集された学徒、医師、看護婦に至るまで、苦戦によって多くの犠牲者を出し、誰が見ても敗北の色は濃かった。
ミッドウェイの海戦、ガダルカナル島、サイパン島で敗北を喫した結果は、B29爆撃機による日本本土空襲が可能になった基地の確保につながっていた。
青山の傷跡
一九四五年二月、雪の降る寒い日に、大空襲の前ぶれのように、現在の青山霊園に近い青山南町(現南青山)二丁目の一角に爆弾が投下され、同級生の家に被害が及んだことを知った。ご家族は幸いにも無事に避難されたことを知り、何とかその晩は休むことができた。
それから一ケ月も経たない三月十日、後に「東京大空襲」と呼ばれるようになった隅田川周辺の悲劇があり、私たちの先生、友人、学校の関係者も犠牲者となられた。
青山から神宮前に続く道では
大空襲から二ケ月余り、緊張の日々は続いていった。五月二十五日、夜の不気味なサイレンが鳴り渡り、遂にB29爆撃のうなるような音が頭上に響き始めた。焼夷弾を効果的に落とすためには波状攻撃がよかったのだろうか。最初に照明弾で東京の空をまず明るくしてから、およそ三時間ぐらい狙いうちされた。次々と焼夷弾の炸裂音が頭の上をかすめ通った感じで、いつ真上に落ちるかわからないという恐怖の数時間を過ごした。
熱に煽られながら家を後にして少しでも息のつける青山墓地(霊園)に避難した。重いリュックサックを背負い、水を張ったバケツを片手に、湿らせたタオルを顔にあてながら、とにかく無言で歩き、墓石の立ち並ぶ所に辿りついたというのがその時の精一杯の行動だったと思う。
煙に包まれた夜明け
思考力も消えてしまったような時間の経過は今考えてみれば本当に怖い「時」だった。ただ、日頃学校で教えられていた「主の祈り」だけがはっきり頭に浮かんで、心をこめて祈ったという経験も忘れ難い。
やがてゆっくりと夜が明け、青山から渋谷方面にかけて続く焼野原が見えてきた。爆音も聞こえない空間が戻ってきたが、家も焼け落ちて燻っている様を目の当たりにして、言葉では表現できないやりきれない思いに自分自身が沈んでいくのを感じた。
煙、煙、灰色の空。外苑前から表参道のほうまで見渡せるほどにすべては焼失し、当時の電話局(後のNTT)、土蔵等が目にとまった建物だったといえよう。
表参道周辺では
お昼近く、学校の様子がわかればと思って自転車で六本木まで行った。幸い校舎そのものは焼失を免れ、私たちに安堵感を与えてくれた。しかし、N先生からの情報によれば、私たちの担任のT先生が、神宮前のご自宅付近で亡くなられたのではないかとのことだったので、私はN先生と一緒に現場まで自転車を走らせた。
一夜にして焦土と化した道には、焼死体が折り重なって、無残な姿で放置されていた。とくに目をひいたのは、安田銀行(現みずほ銀行)の壁に残された黒焦げの手の跡だった。どんなに苦しまれたことだろう。その痛みが胸にささる思いだった。しかし、そこには担任の先生のお姿はなかった。
N先生はさらに「遺体の集積所」の一つ「渋谷、原宿、青山付近」と掲示されている所で、諦めずに係員の方に願い出てT先生を探された。一夜の空襲で想像以上にひどく変わってしまった方々を識別することは無理だったので、残念ながらその場を後にせざるを得なかった。
以後T先生にお会いすることはなかった。
八月十五日
青山の焼跡にも梅雨が訪れ、夏の太陽にも出会うようになった。倉庫での寝泊り、庭に作った仮設の流し、お風呂、トイレ、薪とわずかに残っていた石炭等の燃料、これで何とかその日暮らしの生活は成り立っていた。
歴史に残る八月十五日を迎え、皆自分なりの思いをもって終戦の日の放送を耳にしたことだろう。私はまず「ほっとした」というのが正直な反応だった。夜も焼跡に点在する仮設の住居のトタン屋根のすき間から、裸電球の光が一直線に放たれて灯火管制から自由になったことを告げていた。
破壊されたものは時間をかけなければ修復できない。一度奪われた命は帰って来ない。外苑のァスフアルトにも焼夷弾の痕跡が残っていて、戦争をしてはいけない、平和を守るようにと語っているように思われた。
「新しい命」
小さな緑 見つけた
焦土から頭を覗かせた命
希望の命
小さな木の芽 見つけた
堅い幹を破って動き出した
命の証し
青山の片隅で見つけた
灰の中で耐えていた命
涙と喜びの出会い
(赤坂区青山南町三丁目)