表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・6
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表参道が燃えた日(抜粋)-山の手大空襲の体験記- (編集者, 2009/5/17 8:49)
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・3 (編集者, 2009/6/29 8:02)
- Re: 表参道が燃えた日(抜粋)-あとがきにかえて (編集者, 2009/6/30 10:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・1- (編集者, 2009/7/2 19:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・2- (編集者, 2009/7/3 14:57)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・3- (編集者, 2009/7/4 19:38)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・4- (編集者, 2009/7/5 8:14)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・5- (編集者, 2009/7/6 16:54)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・6- (編集者, 2009/7/6 16:58)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
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戦時体験を語る (座談会)
竹山幸之助 中島和雄 横田善之
近衛歩兵第四連隊の碑
新宿区霞ヶ丘公園
司会
青山小学校卒業同期の三人のかたに集まっていただきましたので、戦時中のお話を伺いたいと思います。
横田
この三人は一年に一回か二回は会っているね、同期でここに残っているのはわれわれだけじゃないかな。ここから離れた人や亡くなった人もいるし。
竹山
われわれより上の人は戦争に行ったし、下の人は疎開していたので、あの頃のことを知っているのはわれわれなんだ。もう五年早く生まれていればわれわれも死んでいたよ。
司会
青山小学校を卒業されたのは何年ですか?
竹山
昭和十七年三月、戦争が始まった翌年の春でしたね。
司会
青山小学校は古いのですか?青南小学校は昨年創立百年でした。
横田
青南は青小(青山小学校)の付属としてできたんです。青小は今年創立百三十二年を迎えます(明治八年十一月創立)。青小には高等科というのがあったけれど、青南にはなかったのです。
司会
今どの辺にお住まいですか?空襲のあった時は?
中島
青山小学校の南側に住んでいましたが、学校の回りが強制疎開になって梅窓院の横道の方へ移り、そこで戦災に遭いました。大工になって、今も同じ場所に住んでいます。
竹山
五月二十五日の時は青山郵便局前に住んでいましたが、そこで焼け、今のピーコック向かい側に移り、靴屋の店を開いています。
横田
地下鉄外苑前の入口のすぐ横に住んで食品卸業をしていました。今は別のところで商売をしていますが、住まいはずっと外苑前の同じところです。
司会
戦災の時、終戦の年は中学四年生、十五歳か十六歳ですね、その頃どうされていましたか?
横田
それぞれ違う中学に行ったのですが、みんな学徒動員ですよ。
竹山
私は十条の陸軍第一造兵廠で鉄砲の弾を作っていました。そこは食事がよくて、まあ食べるのが目的で行っていたようなものですね。学校に通っている頃も動くとお腹が空くのでじっとしていました。スポーツもしない、お昼前に弁当を食べ、お昼には水を飲んでいました。
中島
勉強はしないで、勤労動員で大森の鉄骨を作っている工場に一か月半ぐらい行きました。
その後、本所の強制疎開の建物の番号札を貼り付けたり、家を倒したりしていました。大したことはしませんでしたね。時間があれば、シジミを捕ったりしていました。また、特別消防団に入っていて、からになっていた近くの旅館を集合場所にしていましたが、何かあると消防車が焼けてしまうと困るので消防車は逃げていましたよ。
横田
私は青山学院から大森の日本特殊鋼に動員で行っていました。空襲になると、歩いて三十分かかる池上の本門寺まで避難しました。工場の近くに米兵の捕虜収容所があって、焼け跡の畠仕事などをやらされていたので、米兵は戦中からよく見ていました。
工場では戦闘機の機関砲を作っていました。何もやったこともないわれわれ中学の三年生が旋盤仕上げでその部品を作っているわけですから、試射場で発砲しても百発中の半分は不合格でした。
食事は竹山さんのところほどよくなかったですね。魚が出るのですが、アンモニア臭くてとても食べられませんでした。
大森海岸でカレイを釣って家へ持って帰り、天ぷらにして食べました。ところが毎日天ぷらをしているわけにはいかない。密告されたりして「経済警察」が来るのです。私のうちは食品の卸をしていたのですが、当時は配給品以外のものを仕入れたりすると警察に引っ張られたのです。親父は何もしていないのにいやな思いをしましたね。商店には国債の割り当てが多くて大変でした。今の十万ではきかなかったのではないですか。
ところで、動員の時の給料はよかったですね、二十円から三十円もらいましたよ。
竹山
僕も三十円ぐらいでしたよ。
中島
あの頃、中学を出た人の初任給は三十二円から三十五円でしたね。
私はすごいものを見てしまったのです。今の赤坂高校のところ、青山墓地に続いたところですが、穴がいくつも掘ってあって、そこへ三月十日のあと、トラックが何台も死体を運んできて(*)穴に埋めたのです。名前のわかっている人は別にして札を立てていました。死体はその後火葬にすることもなく、戦後その上に赤坂高校が建ったわけです。私の家の便所からリンが青く燃えるのが見えました。(*編注 「東京都援護課報告」によれば太平洋戦争中に青山霊園に仮埋葬された遺体は一七八八人)
司会
空襲の時はどうでしたか?
中島
五月の空襲よりずっと前、三月十日より前だったと思いますが、すごい音がして、長者丸通りに二百キロ爆弾が落ちたので見にいきました。豆腐やさんの裏の民家が一軒なくなってしまって、四メートル位の穴が掘れ、飛び散った衣類が木の枝にひっかかっていました。
死傷者が出たかどうかは知りません。
横田
私もなぜその時銀座に行っていたのか記憶が確かではないのですが、二十年一月二十七日のことだったと思います。重爆撃機B29が銀座交差点近くに五百キロ爆弾を落として銀座線の線路まで貫通したことがありました。私は近くのビルの三階に上がって下を見たら大きな穴があいていました。地下鉄は数日間不通になりました。
竹山
三月十日の空襲の時、東の空が真っ赤になっていたので外苑まで逃げたのです。そしたら皆に笑われて…。だから五月二十五日の時はぎりぎりまで家にいましたよ。傘を持って近所の人と青山墓地に逃げました。家族はバラバラで妹は外苑に、両親と兄は墓地へ。墓地で一緒になりましたが、皆無事でした。
中島
外苑前町会は広かったのですけれど亡くなった人は一人だけでした。その人は焼夷弾の直撃を受けたのです。
竹山
青小も木造部分は焼けてしまいました。学校の体育館には強制疎開の畳が沢山集めてきて置いてありました。私はその日から青小の体育館に寝泊りし、家族は上馬に行きました。
畳が沢山あるのに横になるスペースはなく、大勢の罹災者は座ったまま眠ったのです。羅災者はだんだん減っていき、その後地下の柔道場に移ったのですが、私は七月初めまでそこにいて、造兵廠に通いました。
中島
母と姉たちは疎開していて、弟は小金井に学童疎開していました。そこへ一度、大工の父と床屋さんが勤労奉仕で行ったことがあります。父は棚を作ったりして。やがてそこも危なくなり、母親のいた立川の方に移りました。
五月二十五日の時は墓地に逃げました。墓地は避難してきた人達でいっぱいでしたが焼夷弾は落ちませんでしたし、燃えてきませんでした。家は焼けてしまいましたが。翌日、自転車で表参道まで見にいきましたら、ふくれあがった焼死体が積み重なっていました。
横田
B29は数機ずつ編隊で来襲し、通り過ぎると、束になった焼夷弾はある高度まで落下するとバラバラになり、花が散るように落ちてくるのです。
その日は父と二人で、母達は疎開し、兄は出征していました。荷物は青山通りの歩道が当時としては広かったので、道路沿いに壕を掘って埋めておきました。避難した青山墓地から戻ったら家は焼けていましたが、壕の中は無事でした。翌日すぐ四谷の知り合いの家に行き、そこから大森の工場に通いました。
竹山
第一造兵廠は陸軍の軍需工場ですから、兵器は何でも作っていました。航空機関砲、小銃・鉄砲の弾など。なかでも有名なのは風船爆弾で、これは女子が作っていました。
薬莢の材料ははじめは真鍮でしたが、後に鉄になりました。鉄はすぐ錆びてしまうのですが、真鍮がもうなかったのでしょう。
司会
その頃青山の町はどうでしたか?
中島
神宮外苑の銀杏並木の奥の、今噴水のあるところに高射砲陣地があったのです。あそこで高射砲を撃つのですが、全然届かない。青山小学校の地下に食糧が置いてあって、給食堂みたいになっていました。高射砲陣地の兵隊たちがそこへ食べに来ていたようです。青小の地下には強制疎開のものか、木材が沢山あったので、焼け出されたあと、それをもらってきて家を建て、近所の人にも入ってもらいました。
竹山
私も高射砲陣地を見に行きましたが、囲いがしてあって中は見えませんでした。
高射砲陣地の青山通りの南側、青山南町二丁目はかなり広い地域が強制疎開になっていました。十八年十月二十一日の神宮外苑の出陣学徒壮行会には、私も送る側として参加しました。
青山には近衛師団や陸軍大学校など軍の施設が多かったため、朝から馬に乗った軍人が通ったり、軍人が下宿している家も多かったですね。東条英機、土肥原賢二、高橋三吉は青小の卒業生と聞いています。
中島
もう一人誰だったか、「四大将」といわれてましたね。
司会
皆さんのご兄弟で戦地に行かれたかたは、無事に帰還されたのですか?
中島
長兄が太平洋戦争が始まる前に北支で戦死しました。騎兵隊でしたが馬がなく、前に出て機関銃で撃っていたら、撃たれたらしい。二十歳でした。二階級特進で、勲八等、功七級金鵄勲章と千二百円をもらいましたが、戻ってきたのは石ころだけでした。当時五百円あれば家が建ったという時代ですよ。立派なお墓を建てろということなのか、それでお墓の地所を買い、本人のお墓と先祖代々のお墓を作りましたがまだ余りました。金鵄勲章は焼けてしまいました。靖国神社に祀られているのですが、私の代になっても寄付依頼など来ますよ。
私は八人兄弟でしたが、弟は早く亡くなり、姉たちも終戦後栄養失調などで亡くなり、私一人になってしまいました。
竹山
私は五人兄弟の四男でしたが、兄二人は戦死しました。長兄はフイリッピンのマニラで、次兄は中国の九江で。遺骨は芝の増上寺へ取りにいきましたが、二人とも遺骨はなく、やはり小さな箱に石ころが入っていました。
横田
兄一人は五月に招集され、終戦まで千葉の九十九里で塹壕掘りをしていたようですが、無事還ってきました。
司会
最後に、戦時中を今振り返ってみていかがですか?どんな感想をお持ちでしょうか?
中島
私より上の人が亡くなっていくたびにその方たちが経験された戦時中のことを思い出します。もう私たちだけしか知らないのだから、経験したことは話しておかなければと思いますね。戦争はやってはいけませんよ。
横田
よくあの環境のなかで、食糧もないのに生き延びられたと思います。父母のお陰と感謝の念でいっぱいです。
竹山
この戦争で亡くなった日本人は三百二十万人とも三百五十万人ともいわれています。多くの方の犠牲のもとに現在あるわけですから、これらの死を無駄にしたくないと思います。
どうしたら平和な生活を続けていかれるか、いろいろ難しい問題もありますね。
司会
本日はどうもありがとうございました。
(横田・竹山 赤坂区青山北町四丁目)
(中島 赤坂区青山南町四丁目)