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表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・7

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・7

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/5/22 17:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 太平洋戦争末期の「ひとこま」
            中里昭子




 はじめに

 一九四一年十二月八日、真珠湾攻撃に端を発した太平洋戦争は、軍事的にも心理的にも日本とその国民にとって、不安と恐怖をもたらす大きなできごとだった。私はこの事実を小学校六年生として受けとめ、情報等はその年齢なりに理解していたと思う。

 それまでも、一九三一年には満州事変、一九三七年には日中戦争と、絶え間なく戦争が続いた結果、食料はもちろん燃料、衣料などにも事欠き、日常生活全般に不安が漲る時代になっていた。言論の自由もなく、国家の方針に従わない者は皆非国民と呼ばれ、厳しい扱いを受けたことも事実で、「戦中」を物語るひとこまと言えるかもしれない。

 学生も「国家総動員」という国の方針に反対することはできず、私たちも「学徒挺身隊」の名のもとに、沖電気の芝浦工場に動員された。戦場で戦っている軍人、召集された学徒、医師、看護婦に至るまで、苦戦によって多くの犠牲者を出し、誰が見ても敗北の色は濃かった。

 ミッドウェイの海戦、ガダルカナル島、サイパン島で敗北を喫した結果は、B29爆撃機による日本本土空襲が可能になった基地の確保につながっていた。


 青山の傷跡

 一九四五年二月、雪の降る寒い日に、大空襲の前ぶれのように、現在の青山霊園に近い青山南町(現南青山)二丁目の一角に爆弾が投下され、同級生の家に被害が及んだことを知った。ご家族は幸いにも無事に避難されたことを知り、何とかその晩は休むことができた。

 それから一ケ月も経たない三月十日、後に「東京大空襲」と呼ばれるようになった隅田川周辺の悲劇があり、私たちの先生、友人、学校の関係者も犠牲者となられた。


 青山から神宮前に続く道では

 大空襲から二ケ月余り、緊張の日々は続いていった。五月二十五日、夜の不気味なサイレンが鳴り渡り、遂にB29爆撃のうなるような音が頭上に響き始めた。焼夷弾を効果的に落とすためには波状攻撃がよかったのだろうか。最初に照明弾で東京の空をまず明るくしてから、およそ三時間ぐらい狙いうちされた。次々と焼夷弾の炸裂音が頭の上をかすめ通った感じで、いつ真上に落ちるかわからないという恐怖の数時間を過ごした。

 熱に煽られながら家を後にして少しでも息のつける青山墓地(霊園)に避難した。重いリュックサックを背負い、水を張ったバケツを片手に、湿らせたタオルを顔にあてながら、とにかく無言で歩き、墓石の立ち並ぶ所に辿りついたというのがその時の精一杯の行動だったと思う。


 煙に包まれた夜明け

 思考力も消えてしまったような時間の経過は今考えてみれば本当に怖い「時」だった。ただ、日頃学校で教えられていた「主の祈り」だけがはっきり頭に浮かんで、心をこめて祈ったという経験も忘れ難い。

 やがてゆっくりと夜が明け、青山から渋谷方面にかけて続く焼野原が見えてきた。爆音も聞こえない空間が戻ってきたが、家も焼け落ちて燻っている様を目の当たりにして、言葉では表現できないやりきれない思いに自分自身が沈んでいくのを感じた。

 煙、煙、灰色の空。外苑前から表参道のほうまで見渡せるほどにすべては焼失し、当時の電話局(後のNTT)、土蔵等が目にとまった建物だったといえよう。


 表参道周辺では

 お昼近く、学校の様子がわかればと思って自転車で六本木まで行った。幸い校舎そのものは焼失を免れ、私たちに安堵感を与えてくれた。しかし、N先生からの情報によれば、私たちの担任のT先生が、神宮前のご自宅付近で亡くなられたのではないかとのことだったので、私はN先生と一緒に現場まで自転車を走らせた。

 一夜にして焦土と化した道には、焼死体が折り重なって、無残な姿で放置されていた。とくに目をひいたのは、安田銀行(現みずほ銀行)の壁に残された黒焦げの手の跡だった。どんなに苦しまれたことだろう。その痛みが胸にささる思いだった。しかし、そこには担任の先生のお姿はなかった。

 N先生はさらに「遺体の集積所」の一つ「渋谷、原宿、青山付近」と掲示されている所で、諦めずに係員の方に願い出てT先生を探された。一夜の空襲で想像以上にひどく変わってしまった方々を識別することは無理だったので、残念ながらその場を後にせざるを得なかった。

 以後T先生にお会いすることはなかった。


 八月十五日

 青山の焼跡にも梅雨が訪れ、夏の太陽にも出会うようになった。倉庫での寝泊り、庭に作った仮設の流し、お風呂、トイレ、薪とわずかに残っていた石炭等の燃料、これで何とかその日暮らしの生活は成り立っていた。

 歴史に残る八月十五日を迎え、皆自分なりの思いをもって終戦の日の放送を耳にしたことだろう。私はまず「ほっとした」というのが正直な反応だった。夜も焼跡に点在する仮設の住居のトタン屋根のすき間から、裸電球の光が一直線に放たれて灯火管制から自由になったことを告げていた。

 破壊されたものは時間をかけなければ修復できない。一度奪われた命は帰って来ない。外苑のァスフアルトにも焼夷弾の痕跡が残っていて、戦争をしてはいけない、平和を守るようにと語っているように思われた。


 「新しい命」

 小さな緑 見つけた
 焦土から頭を覗かせた命
 希望の命
 小さな木の芽 見つけた
 堅い幹を破って動き出した

 命の証し
 青山の片隅で見つけた
 灰の中で耐えていた命
 涙と喜びの出会い

 (赤坂区青山南町三丁目)

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