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表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・4

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・4

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/5/17 10:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 水晶の印鑑
        石川道子









 東京空襲犠牲者追悼碑と名簿
 収納施設(墨田区横網町公園)

 昭和二十年五月二十五日の夜十時半頃、空襲警報が鳴ったと思ったらすぐ、外が騒がしくなりました。二十四日早朝にも青山北町の方に焼夷弾が落ちてバケツリレーで消したりしました。外に出て見ると、渋谷の方から火が向かってくるのです。今日は危ないと思い、リヤカーに荷物を乗せて逃げることにしました。
私の家は表参道から青山通りに出て交差点のすぐ近くにあった魚熊という魚屋です。

 父、母、叔母、兄嫁、三兄、弟、妹と私の八人は家を出るとすぐ、みんなばらばらになってしまいました。私は足の悪かった叔母といっしょに墓地の方に向かって逃げました。根津さん(現在の根津美術館)の横のどぶの所まで来て動けなくなってしゃがみこんでしまい、もうここで死ぬのかと二人で震えていました。しばらくすると、火の勢いが弱まってきてどうやら助かったわけです。

 夜が明けて朝の五時ごろ、まだ燻った煙の立つ焼け野原をわが家の方へ行く途中、あちらこちらに黒焦げになった人たちを見ました。その中に赤ちゃんをおんぶしたまま亡くなっている方がいて、なんてむごいことと胸が締め付けられる思いでした。何の罪もない人たちがこんな目に遭うなんて-。

 家はもちろん焼けてなくなっていました。家族も無事戻ってきたのですが、父だけが帰ってきません。焼け跡にぽつりと冷蔵庫が立っていて、中を開けると生しゃけが蒸し焼きになっていてみんなで食べました。

 二十六日には出征して都内にいた長兄が駆けつけてきました。安田銀行(現みずほ銀行)の前に山のように積み重ねられた焼死体を、軍のトラックがきて、スコップでトラックに投げ込んでいるのを目の前で見て震える思いでした。父はどこかに生きているはずと、みんなで手分けして日赤や町中を探しましたが、みつかりませんでした。父を見た人の話では、自分の家が焼け落ちるのを見届けていたようです。責任感の強い人でしたから逃げ遅れたのかもしれません。
 二十九日になって青山警察署のお巡りさんが、松本文具と増田屋さんの横道を入ったところの樋口さんの家の玄関先に倒れているのを見つけて知らせてくれました。消し炭のように真っ黒だったそうですが、水晶の印鑑を持っていたのでわかったということでした。父は赤坂の組合長などしていましたので、青山警察署の人には名前を知られていました。

 三兄がみんなは行かない方がいいと言って、どこからか甕(かめ)を拾ってきてその中に拾えるだけのお骨を入れてきました。火葬をすることも、お葬式をすることもできず、あとは区が整理して下さったそうです。戦後五十五年も経った平成十二年、東京都から通知がきて、都立横網町公園に東京空襲犠牲者追悼のモニュメントを作る予定で、その中に犠牲者の名簿を納めるために名前の確認と募金のお願いをしたいということでした。母はすでに亡くなっていましたが、翌年完成した時にはみんなで行ってきました。

 父がみつかってから二、三日間、父が仲人をした人の家にお世話になり、六月二日に父の遺骨を持って長野県の沓掛に疎開しました。疎開しても火を見るのがとても怖かったです。戦争が終わって十一月に青山に戻り、沓掛から運んだ木材でバラックを建てました。その頃、青山会館の近くに住んでおられた山本五十六さんの奥様がお参りにきて下さいました。その後本普請をしたのですが、まもなくオリンピックのために青山通りが拡がって家が削られ、店だけを残して住めなくなりました。日赤のそばに移って、そこから長兄と次兄が通って店で働きました。魚熊の魚は値段が高いけれど魚は新鮮でおいしいという評判だったのですよ。

 五月二十五日の空襲は悪夢のようです。父の遺骨は善光寺さんに納めました。善光寺さんはわが家の菩提寺です。いま、私は主人と二人で小田原に住んでいますが、元気な限りは五月二十五日の法要には来たいと思っています。今年は次兄が四月に亡くなり、その兄嫁と私の長女とでまいりました。兄嫁も善光寺さんの前にあった鳥屋で育ちましたが、三軒茶屋に越しましたので二十五日の空襲には遭いませんでした。

 空襲のとき私は十九歳、勤めていた製薬会社も空襲に遭い、会社を辞めたばかりでした。父、江原福次郎は当時五十六歳、赤坂区会議員の二期目でした。東京市魚商業組合の参与や、青山支部長などいろいろな要職に就いていました。その後母も、長兄も、その時出征して中支に行っていた次兄も、三兄も、弟もみんな亡くなり、妹と私だけになってしまいました。八十歳までは、あの思いをして助かったのだから、やたらのことで死んではならないと頑張って生きてきました。

 あの空襲のことは六十二年経ってもはっきりと目に焼き付いています。わが家では父一人だけが犠牲になりましたが、二人も三人も家族を亡くされた方たちはほんとうにお気の毒です。戦争は二度とやってはなりません。東京に行くたびによくここまで復興したものと驚くばかりですが、当時のことを話せる人も少なくなり淋しい思いです。

 最後になりましたが、毎年五月二十五日に法要をして下さる善光寺さんに厚くお礼を申し上げます。(平成十九年五月二十五日談)

 (赤坂区青山南町六丁目)

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