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表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・2

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/5/17 9:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 私の戦災
        I.E



 昭和二十年、空襲が激しくなってきました。私は小学校六年の時、縁故疎開を二軒もしており、通知表を貰うために卒業三ケ月前に青山小学校へ戻って来ました。そして四月、第一商業学校に並び順番で(空襲のため) 入学しました。

 ようし、これからがんばって勉強をしようと思ったところ、五月二十五日、戦災にあいました。

当時私達が住んでいたのは、今の紀ノ国屋仮営業所の向かい側あたりで、「赤坂区青山北町六丁目」といったと思います。前が青山警察署でした。そこに父の営む店があり、住まいも兼ねていました。二十五日夜十時頃(?)、B29が我が家の上空を何十機も飛んでいました。私は二階家の物干場でこれを見ていて、「僕が大人になったら軍人になって、この飛行機を何機も撃ち落としてやるんだ」と思っている矢先に、近隣の民家に焼夷弾が落ち、一瞬にして真赤に燃え上がり、あわてて物干場から下りて布団をかぶりました。布団の中で考えました。近所が燃えているのだから逃げなければと思い、一階へ下りて行くと、すでに父が自転車の後ろの荷台に荷物を積んでいるところでした。

 お米と重要書類だからな、と言って、明治神宮へ逃げろと言われ、外に出ました。ものすごい火の粉が吹いていて、とても自転車に乗って走ることは不可能で、引っ張って歩くのがやっとです。表参道交差点まで来て、神宮へ向かったところで、「ヒユー」という音とともに焼夷弾が目の前十メートル位先に落ちました。

 大勢の人が防空ズキンをかぶり、地面に伏せました。私は自転車を持ったまま立っていました。今の伊藤病院のあたり、道路をななめに落ちて通行止めです。表参道の交差点まで戻って来た時、突風にあおられ、自転車を倒してしまいました。ドイツ人かと思われる人が起こしてくれ、荷物を捨てたら、と言ってくれましたが、重要書類だからと言ってそのまま別れました。すでに渋谷方面から大勢の方が避難されて来ていました。

 私は青南小学校の方へ行きましたが、「煙がすごく、この先は行かれませんよ」 と行き違う人に言われ、また戻って来ました。そこで父とばったり出会いました。父は「自転車を捨てて行く」と、いとも簡単に表参道の交番の横の壁に置いて行きました。掻巻(袖の付いた綿入れの夜具)を二枚持ってきてくれ、これを着て青山通りを駆け抜けるとのこと、先に裸馬が一頭走り抜けて行きました。両側が燃えている中、電車道を肩をぶつけ合いながら赤坂方向へ走りました。十メートルも行かないうちに父の布団の裾に火が付きました。走りながら脱ぎ捨てて、我が家の前を通り過ぎる時、真赤に燃えている店を横目で見ました。百メートル位走ったところでは火はありませんでした。今のピーコックのあたりです。防火用水があり、グリーン色ににごり、ボウフラがわいているような水を、非常に飲みたかったことを覚えています。

 裏道を通り、ようやく青山墓地に到着しました。青山墓地は人、人で満員でした。父は「青山六丁目の人はいませんか」と、大きな声で何回も歩きながら言いました。何十分か経った時、暗闇の中から、「この先の路地を入った所にいますよ」と年寄りの女性の声が聞こえました。墓の敷石に座り込んでいる母を見つけ、三人で抱き合って無事を喜びあいました。

 そして二十六日の朝が来ました。「町内の人達がもしかして青南小学校にいるかも知れない」と言うので、また青山通りをもどって行きました。両側焼け野原、まだ炎や煙が立ちのぼっていました。家の前位の所に来た時、女性が一人、狐色に焼け焦げてうつ伏せに倒れていました。お尻の窪みのところに少し布地が残っていました。「あゝ、僕達よりも後から走ってきた人だな」と思いました。

 青南小学校に行くと、町内の人たちが居ました。そこで飯盒でご飯を炊いてもらいました。芯がありましたが、おいしかったです。おかずは、たしか梅干一個だったと思います。お昼頃、町会長の坂本さん(発明家で、当時は竹で自転車を作っていました)がどこからか情報を聞いて来て、小田急線が経堂-小田原間を走っているとのこと、坂本さんの知人宅が経堂にあるので一晩泊めてもらいましょうということで、経堂まで歩くことになりました。十人位だったと思います(子供は私一人だけ)。

 表参道の交差点へ来ました。交番の横の壁に置いた自転車を見に行きましたら、骨組みだけが残り、そのままの状態で置かれていました。安田銀行(今のみずほ銀行)の前に最早や死人が山のように積まれていました。私は先頭を歩いていました。渋谷の下り坂にかかる所(今の仁丹ビル)あたりで、後方で何人かが「危ない」という声で、私は半歩後ろへ下がりました。根元から燃えていた電柱が、私の学生帽をかすめて落ちました。上も気をつけないといけないな、と思いました。

 夕方暗くなってやっと坂本さんの知人宅に到着しました。久しぶりに畳の上に座れた思いでした。皆でお米を出し合って、おにぎりを作ってもらい、二個ずつ配給されました。おいしかったこと!翌日二十七日朝、超満員電車で富水駅まで行き、叔父さんの家に着きました。

 それから四年経った時、まさか戦災で逃げまどった所に住めるとは、夢々思ってもいませんでした。

 追悼碑建立のよびかけに応えてー

 戦争、空襲で犠牲になられた皆々様のご冥福を心からお祈り申し上げます。地球上から戦争がなくなることを願い、店の焼け跡から出た花入れを今も大切にしております。

 (妻英子、平成十七年十二月二十五日没)

 (赤坂区青山北町六丁目)

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