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表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・6

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・6

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/5/20 9:18
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 忘れ得ぬあの日、あの時
                 三田信治郎








 青南小学校 昭和18年
  卒業アルバムより

 
 非道、無慈悲なアメリカ空軍の執拗な焼夷弾攻撃のもとに、一九四五年(昭和二十年)五月二十五日の夜、住み慣れた青山という土地全体が焼け落ちるのを見た。多くの死傷者を出した。あの凄絶な〝炎の夜″を生涯忘れることはできない。

 当夜、親父の「ボチボチ出かけるぞ!」という声が耳に入る。日頃、駄酒落をとばすことが多い親父が、空襲下の不安と緊張が高まるなかで、避難場所と考えていた「青山墓地」のことを、恐怖心を少しでもやわらげようとする配慮からのボチボチだったと親心に感謝している。

 避難の途中、兄と二人だけになり、青南小学校の手前の四つ角にある「古森医院」にさしかかった時のことである。周囲はすでに火と煙に覆われ視界不良になりつつあった。その時、医院の前にうづくまる老夫婦を見た。

 兄が声をかける。「早く逃げましょう!僕たちといっしょに!」差し出した手を払うように老夫婦は、「あなたたちは若い。長生きしなければいけない。私たちの息子たちは、戦死してしまったし、もう生きる望みはありません。もう疲れました。私たちはここに残ります。早くお逃げなさい。」と涙ながらに話された声が耳に残ります。

 一夜明けて焼け跡にもどる人たちの眼はひどい煙と火炎のために、真っ赤にはれあがっていた。「青山警察署」の汚れた壁面に“我ら死線を越えたり″と消し炭で、黒々と書かれた文字と、神宮前のあの道路のあちこちに性別も不明な焼死体の山があったのです。また、人の脂の燃える臭い、跡形ないわが家と燃え続ける母校の姿は悲しみとともに脳裏から離れません。

 本当に恐怖と悲惨の夜でした。すべての人に戦争の罪の深さ、残酷さを知ってほしい。

 私は三十八年にわたる教職生活の中で、自らの戦争体験を通じて〝いつでも子どもたちに希望と輝きを″”子どもたちの笑顔をうばういかなる戦争も許さず”“教え子をふたたび戦場に送ってはならない”ことを理念として教育活動に専念してきた。

 核兵器がなくならない限り、平和はこないと思うと心が重く悲しい。

 終戦六十二年目の夏がやってきた。広島・長崎原爆の日。市長・子ども達の言葉に胸うたれました。それは原爆投下時の悲惨さを思い起こし、再び戦争の惨禍を繰り返すことのないよう、核兵器反対、核廃絶を全世界に発信したものでした。

 人間はつらいこと、悲しいことは年の経過とともに忘れてしまう。しかし、二度とあってはならない戦争の記録は消してはならない。

 明日の平和のために、語り継がなければならない真実の記録なのだから…。

  (赤坂区青山南町六丁目)














 青南小学校の宿直記録

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