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表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・5

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通常 表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・5

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/5/18 16:58
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 私の空襲体験
        T.J
  







  双胴の戦闘機

 戦争は国民にとっては不可抗力で、時には私達の人生を一変させることもある。

 私は昭和四年に生まれた。日支事変に始まる私達の十代は戦争と共に生きてきた時代であった。そして時々の体験は今も鮮やかに脳裡に刻まれている。

 日本の真珠湾攻撃により第二次大戦が始まった昭和十六年は女学校に入学した年で、開戦の御詔勅を聞きながら、日本はこれから大変な時代になるのだと異常な緊張感で身の引き締まるのを覚えた。

 まず、思い出すのは空襲が次第に烈しさを増した昭和二十年二月、小雪の降り出した午後の出来事である。その日は日曜日だったのだろうか、警戒警報が発令された時、私はなぜか家の前に立っていた。すると、空襲警報の出るひまもなく突然、雲間から敵機が突然現れ、もの凄い爆音と共に急降下、同時に「伏せろッ」と男性の怒鳴る声。私はとっさに雪の上に身を投げ出した。バリバリッという音が耳をつんざいた。私達は機銃掃射されたのだ。その直後、うっすらと積もった雪の上には、弾痕が黒い点々となって残っていた。すぐ見上げると上昇中の敵機は双胴の艦載機だ。私はその時、操縦士の姿をはっきりと見た。あたりは他に人影はなく、私と声をかけた男性だけだった。もしかしたら、あの時二人とも死んでいたかもしれない。私は思った。「これが戦争なんだ、これくらいのことで、へたばるものか」と。そして勇気が湧いてきた。貴重な体験だったと今でも思っている。

 当時の女学生は、軍需工場で生産に励む日々で、皆立派な熟練工になっていた。私達は皆自筆で墨痕鮮やかに「必勝」と書いた鉢巻をしめ、いつも張り切っていた。ある日、二十人程のグループで職場の係長に申し出た。「戦地では兵隊さんが昼も夜も戦っています。私達も寝てなどいられません。今日は徹夜で働かせてください。お願いします。」と熱心に交渉した。その時、担任の女の先生が血相を変えてかけつけてこられた。「今聞きましたよ。そんなことは絶対に許しません。私は皆さんの命を預かっているんです。もし今夜空襲があったら、どうなると思いますか。駄目です。許可しません」と断固反対されたので、私達は残念だけれど諦めざるを得なかった。

 そして、昭和二十年五月二十五日、それは終生忘れ得ぬ強烈な思い出の日である。宵の口を過ぎた頃からB29が次から次と襲来した。空には、ごうごうと爆音が轟き、大編隊のその音は体の髄を貫き通し、ほんとに恐ろしかった。

 当時の私の家族、父と年子の弟と私は、いつでも飛び出せるよう身仕度を調えていた(その頃、母はまだ幼かった弟妹と共に父の故郷の愛媛県、瀬戸内海の伯方島に疎開していた)。

 やがて焼夷弾が方々に落ち始め、それが上空で炸裂し、多数の小さな弾に分かれて空に散らばり、キャンドルのようにキラキラと赤く光りながらゆっくりと落ちてくる。それは恐ろしくも美しかった。方々に火の手が上がった。もう危ない、避難しなくては…。

 父は常々言っていた。「いざという時は明治神宮の森へ行こう。あそこなら絶対大丈夫だ」と。私達は青山通りに出た。もうすでに大勢の人々が右往左往していた。そして何ということか!この期に及んで、リヤカーや大八車に布団など積んで引いている人を何人も見た。焼夷弾は巨大な円形状に何ヶ所にも落とされ、それが中心に向かって燃えてきつつあった。全く八方塞がりで、人々はまさにパニック状態に陥っていた。どこに向かっても火の手が上がっていた。

 私達は予定通り表参道を神宮に向かっていたが、突然、突風が起こり、私は足が地につかなくなり、空中に巻き上げられそうだった。

 「体が浮いて歩けない!」と叫んだ。「それじゃ神宮はやめよう」と父。私達は、はぐれないように、しっかりと手をつなぎ引き返すことにした。その時、表参道の伊藤病院はすでに火に包まれていた。それから青山通りを外苑方向に少し行き、青山墓地への近道の横道に入った。しかしその道もすでに燃えはじめていて、火の粉がパラパラと体にふりかかる。私達は、当時各家の前に常備されていたコンクリート製の防火用水の水を、体や防空頭巾の上からかけながら必死でそこを通り抜け、やっとの思いで青山墓地に辿り着いた。

 墓地にはすでに大勢の人が避難していた。少し高い所から燃えさかる街をくいいるように見つめた。その時屋根の上に男性の黒い影が一つ、真赤な火の粉の中にくっきりと浮かんだ。屋根の上に腹ばいになった。消火活動をしていて逃げ遅れたに違いない。私は胸がつまった。やがてその家は真赤な炎に包まれ、男性もろ共ドゥーツと倒れていった。そこは私達のいる所とかなり離れていたにもかかわらず、その熱風がワーツと伝わってきた。男性はきっと警防団の人に違いない。私は心の中で手を合わせた。

 悪夢のような一夜が明けて、どこをどう歩いたのか焼け落ちた路を踏み辿って、やっと青山通りに出た。そこに凄惨な光景を見た。衣服も髪も焼け、男女の別もわからぬ黒焦げの死体が累々と横たわっていた。そこに一人の女性が死体に取りすがって、「あなた、どうしてこんなことになったのよ!」と大声で泣き叫んでいる。まさに地獄だった。

 私は足の力も抜けてしまい、やっとのことで歩いていった。そして表参道の銀行前の光景に私は息を呑んだ。折り重なって死んでいる人々。その中で、ひと際目を引いたのは、リヤカーを引いたまま亡くなっている女性だった。リヤカーの上には二人の子供が虚空を掴むようにのけぞり、黒焦げとなっていた。これが地獄でなくてなんであろうか。母親と二人の子供は、そのままあの世へ行ったのだ。そしてそこに倒れている人達の体から脂が滲み出し、その跡は何年も残っていて、私は見るたびに当時の光景が甦り、胸がふさがれる思いだった。このような事を思い出すにつけ、戦争の残酷さをつくづくと思わずにはいられない。

 今では有名ブランドの並ぶおしゃれなファッションの通り表参道も、このような戦時中の歴史を秘めていることを若い人達もどうか忘れないでほしい。私達は現在の日本の平和を感謝すると共に、老いも若きも絶対に平和ぼけになってはいけないと思うこの頃である。

 追記 戦後の焼跡ぐらし「寸話」

 終戦後、私は母が疎開先から帰るまでの二年間、父と二人で暮らした。焼跡も日が経つにつれて、家の敷地内にも雑草が色々と生え茂った。当時の新聞には、時局柄、どんな雑草が食べられるか、また、その調理法などが出ていた。そして、”あかざ〟が食べられることを知った。

 ある時、家の敷地内で初老の女性が〝あかざ〟をせっせと摘んでいる。父は「これはいかん」とつぶやき、その人に近づいてゆく。私は興味をもって見守った。父は穏やかに言った。

 「奥さん、ここは私の地所です。ここに生えているものは雑草といえども私に所有権があります。あなたには採る権利はないんですよ」

 私は感心した。なるほど、弁護士はこういう言い方をするのか。その女性は「左様でございますか。では、こちらに置いてまいります」。父が、「いや、それはお持ち帰りください」と言うと、その人は感謝して立ち去った。

 今でもなつかしい一場面である。

 (赤坂区南山南町六丁目)

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