表参道が燃えた日(抜粋)-青山通り沿い・3
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表参道が燃えた日(抜粋)-山の手大空襲の体験記- (編集者, 2009/5/17 8:49)
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- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・2 (編集者, 2009/6/12 8:59)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・3 (編集者, 2009/6/13 8:48)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・1 (編集者, 2009/6/14 8:32)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-渋谷区金王町・美竹町・青葉町・2 (編集者, 2009/6/15 8:17)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・1 (編集者, 2009/6/27 20:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・2 (編集者, 2009/6/28 21:15)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-赤坂・麻布・渋谷区以外・3 (編集者, 2009/6/29 8:02)
- Re: 表参道が燃えた日(抜粋)-あとがきにかえて (編集者, 2009/6/30 10:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・1- (編集者, 2009/7/2 19:53)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・2- (編集者, 2009/7/3 14:57)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・3- (編集者, 2009/7/4 19:38)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・4- (編集者, 2009/7/5 8:14)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・5- (編集者, 2009/7/6 16:54)
- 表参道が燃えた日(抜粋)-付録・6- (編集者, 2009/7/6 16:58)
編集者
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あの日
Y.R
あの日、十四歳、女学校の二年生だった。昭和二十年五月二十五日、私たちの青山の燃えた日
である。
あの夜、警戒警報発令後すぐにブーッ、ブーッという断続吹鳴の空襲警報サイレンが鳴り響き、東部軍管区情報は 「敵、数目標」 の侵入を伝えた。
私と母は庭の防空壕に入った。パラパラという音、ドスンドスンという音がしていた。どのくらい経っただろうか。塀の外が騒がしくなり、「待避!待避!」と叫ぶ声が聞こえた。物干し台に様子を見に上がった父が、「青山学院が燃えている!火の手が近づくから避難しなくちゃ駄目だ!」と叫んだ。
私の一家四人は父、私、母、兄の順に横一列に並び、離れ離れにならないようしっかり腕を組み合い、家を後にした。
私の家は当時の青山北町六丁目にあって(現在の青山パラシオタワーの裏の辺り)、表参道の大灯籠のところまでほんの二、三分ほどだった。青山通り(246)と表参道の交差するあの辺り、特に安田銀行(現在みずほ銀行)の入り口付近には多くの人々が座りこんでいた。かなり広い空間なので安全な避難場所に思えたのかも知れない。
私たちは青山墓地を目指していた。電車通りを真っ直ぐに、善光寺の前を通って行くつもりだったが、その時はもう、行く手の五丁目方面は燃え上がっていて松本文房具店の前の辺りを左から右へ車道を横切って炎が走るのが見えた。どの方角も真っ赤だった。ただ青南小学校の方面だけは煙が立ち込めてはいるものの、暗い。「暗い方へ行けばよい。」という父の声でそちらに向かった。私たちの周りを人々の波が黙々と同じ方向へ、墓地へと流れて行った。
その夜は墓地で明かした。墓地周辺の石材店や人家が焼けるのを見た。見る見る炎に捕えられていく建物を見つめながら、今頃は我が家も燃えているのかと無人の家を思い浮かべていた。
翌朝、明るくなるとすぐに青山通りを通って家に向かった。四丁目あたりまで来た時道端に茶色の人間のようなものが転がっていた。私は等身大の石像だと思った。全身茶褐色で衣類はつけていなかったし、手足をつっぱってポーズをとっているようだったから。でもそれは焼死体だったのだ。父にそう教えられ私は何度も「本当にあれは人間なの?」と訊(き)いた。生まれて初めて見た死体だった。
焼死体は参道に近づくにつれて増えていった。あの安田銀行のあたりは焼死体の山であった。
茶色に焼け焦げた人、衣類の一部が焼け残って体に張り付いている人、皆、様々な形で硬直し焼けていた。そして人間の焼けたいやな匂いがあたりに立ちこめていた。あとで聞いた話によれば、明け方、軍のトラックが来て見分けのつかぬほどのひどい焼死体は運び去った後だということだった。
我が家は跡形もなく、庭の木々も焼け失(う)せて、敷地内は文字通り瓦礫(がれき)の山だった。防空壕は入り口のふさぎ方が不十分だったのか火が入って崩れ落ちていた。
昼過ぎ、焼け跡に突き出て水を流し続けているこわれた蛇口から水を汲んでいると、後ろから声をかけられた。振り向くと小学校時代の同級生のYちゃんだった。Yちゃんは沈痛な顔で、「C子ちゃん、亡くなったのよ。」と言った。C子ちゃんは祖父母と共に逃げ遅れて亡くなったのだそうだ。ご両親は幼い弟妹を疎開先に送り届けるため留守だったとか。小学校の卒業記念にC子ちゃんと、Yちゃんと、私と、Kさんと四人で写真を撮ったのが悲しい思い出になってしまった。
その日の夕方青山を去り、以後二度と青山に住むことはなかった。
今、行きずりの一人としてその街角に立ち、戦後華やかに変貌して、最もファッショナブルな街ともてはやされ、戦争を知らない若者たちが闊歩するかつての「わが街」を見る時、あの日の惨状を思わずにはいられない。
表参道の大灯籠の傍らで彼女を待っている若者は、かつて灯籠の台石に焼死した人々の脂が黒く染み付いていたことを知らない。
246と表参道の交差点をのんびりと渡って行くカップルは、あの日その真ん中で座った姿のままで焼死した女性がいたのを知らない。
地下鉄を降りて表参道ヒルズに急ぐ女性は、通り過ぎて行く伊藤病院の脇にあった防空壕の中であの日多くの人々が折り重なって死んで行ったことを知らない。
そして私は思う。
今の青山が私の見知らぬ街であっても、それが再び戦火に焼ける日が来てはならないと。
(赤坂区青山北町六丁目)