特攻インタビュー(第6回)
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投稿日時 2012/5/12 7:59
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会特攻ライブラリー取材スタッフ
「編注・当会では、特攻に関連する史実とその精神を後世に伝承するため、特攻関係者の体験談等を取材し、記録することを企画し、有志会員による「特攻ライブラリー」を立ち上げ、先ず、関係者のインタビュー記事を記録することにいたしました。特攻出撃の如何を問わず、特攻体験をされて九死に一生を得た方、特攻出撃を待機された経験のある方等で、映像と写真を含めたインタビュー取材を引き受けて頂ける方がおられましたら、自薦他薦を問わず、当会事務局(担当大澤)までご連絡下さい。」
◇ ◇ ◇
堀山久生氏軍歴 (略歴)
陸軍士官学校第五十七期 陸軍中尉
第三十戦闘飛行集団 館林集成教育隊 第一九四振武隊長
◇ ◇ ◇
○ 特攻ライブラリー取材スタッフ (五十音順)
及川 昌彦 世話人
神崎 夢現 進行
倉形 桃代 記録
堤橋 律子 世話人
須貝 智行 写真撮影
高橋 暢 映像撮影
長尾 栄治 インタビュアー・構成
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆軍人の家庭に育って
--------幼少の頃の思い出は何かありますか?
堀山‥昭和3年頃、父の勤務で北朝鮮の羅南に住みました。国境守備を担当する第十九師団の主力の駐屯地で、父は陸軍経理学校出の歩兵第七十六聯隊の主計大尉。軍旗祭などに幼稚園時代の思い出があります。その後、昭和6年、父は善通寺の第十一師団経理部の主計少佐で予備役編入。上京して昭和8年から杉並第五小学校、東京府立四中を経て、陸軍士官学校に進みました。最後の「市ヶ谷台」組で昭和16年4月、陸士の予科に入校。昭和19年4月、本科卒業です。
小学校の一番の思い出は、丸亀の城西小学校3年の時に祖父に連れられ、兄と明野陸軍飛行学校を見学し、教官の奥山清蔵中尉(少候5期/終戦時中佐/第十練成飛行隊長/淡路)に、八八式偵察機に乗せて頂いて「飛行将校」になろうと決心しました。飛行帽をかぶせて頂き、奥山中尉との機上の写真もあります。
--------陸軍軍人を志したのは、お父様の影響が強かったのですか?
堀山‥堀山家の系図は、南朝の忠臣・北畠親房から始まる伊勢の国司・北畠家九代の家臣で、昔は武士の家で、父も陸軍将校でした。当時、軍人の家庭は家督継承のため、長男を残して次男以下を軍人にしたように思います。浅草の大正館で早川雪洲のトーキー映画「大桶公」を見て、楠木正成・正行父子の別れの場面で泣いた記憶があります。小学校6年で1年、膿胸で休学しましたが、中学4年から陸士に入りました。
--------陸軍軍人を目指したのも自然な流れで。
堀山‥当時、私の入った府立四中(現・東京都立戸山高校)は陸士・海兵への合格者が特に多かったと思います。また、陸軍のお覚えが良く、「配属将校の第一号」は府立一中(現・東京都立日比谷高校) ではなく四中で、近衛歩兵第一連隊から派遣されました。陸士は東京地区では私立の場合、成城中学校が一番多いですが、府立は四中でした。最近、後輩の大東信祐君(戸山高/防大1期/普通科/陸将補) が、明治以降の陸士への入校者を調べたところ570人もいます。大将は東條英機さん。陸軍特攻の富嶽隊長西尾常三郎少佐(航士50期/重爆)や海軍の神宮特攻の野中五郎少佐などがあり、戦争文学では、陸軍は「ビルマの竪琴」の竹山道雄さん、海軍は「戦艦大和の最期」の吉田満さんがあります。
--------その後、陸軍予科士官学校から本科である陸軍士官学校に進まれるわけですが、その時、兵科というのはご自分で決められるものなのでしょうか。それとも、命令で決まるのですか?
堀山‥一応は志願で、決定は学校がしました。私は膿胸が崇って航空を撥ねられ、広島の野砲兵でした。希望が通らず、大泣きする悲劇もありましたが、皆、やがて治まりました。
予科士官学校では歩兵の訓練が中心で1年3カ月、隊付(たいづき) 3カ月、本科は1年7カ月、予科・本科合わせて3年1カ月です。生死を誓う同期生の3年間の裸の付き合いですから、裏表はありません。予科時代は提出日誌の裏表紙に「従順」と書いた位、素直ないい生徒でした。高谷武区隊長(50期/東京幼年/歩兵科2番/恩賜/歩兵39/陸大/陸将補)に可愛がって頂き、夏休みに新婚のお二人と私服で府立一申出の原田健一君と奥多摩に4人でハイキングに行きました。こんな話は誰もちょっと信用しないでしょう。
広島の隊付では三瓶山で10センチ楷弾砲の実弾射撃の指揮を取り、規則通りの射撃が立派に出来ました。当時(昭和17年夏頃) は、大東亜戦争の勝ち戦で、我が第五師団はシンガポール攻略の大砲兵戦で、ジョホールバルの北岸から「機動90式野砲」、陸軍唯一の砲口制退器付の長距離野砲で1万2800mで射撃号令をかけたら近くの野戦重砲が驚いたそうです。塔の3階にあった目標の敵の観測所に見事に命中したなど52期の先輩に吹かれ、一生懸命に射撃は勉強しました。
本科時代は少しぐれまして、馬来祥介区隊長(53期/東京幼年/野砲7/陸大/陸将) に逆らい大変失礼しました。本科時代は射撃は巧かったのですが、学業、操行はよくありません。自由にやっていましたから。まあ、ご想像下さい(笑)。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆転科命令に大ムクレ
--------士官学校を卒業される頃、野砲兵から航空兵に転科とあるのですが、ご希望してそうなったのですか。
堀山‥これは57期だけですが、本科在学中に120名を陸士始まって初めて航空士官学校に「転校」させた第一次航空転科があり、航空兵力の不足に対応しました。第二次の「航空転科」は前の期からありましたが、卒業1550名中、大量の400名を実施。「転校」は志願。「転科」は命令でした。この第二次「航空転科」組……座間から転科した者を「座間転」と呼びました。何となくちょっと劣等感がある呼び方でしたね。
--------命令で航空に移ったわけですが、その時のお気持ちは?
堀山‥私は航空に未練があり、志願して一次に肺活量で撥ねられ、二次で戦闘機になりましたので、心の中では満足していました。他の人は大ムクレで、「何のために今まで本科で苦労したんだ!」「俺たちが今から行っても操縦に1年かかる。その間に日本はどうなる。特操(特別操縦見習士官)を増員すべきだ」「俺たちの地上戦力がもったいない」と大騒ぎでした。
もう一つは、「所属の兵科に捨てられた」という僻みでした。これに対して牛島満校長は「間違った考えかもしれんが、400の諸子を航空にやるのは惜しいような気がする。しかし皇国のためだ。行ってくれ」と言われ治まりました。温かいお言葉に皆、泣きました。不満も吹き切れました。所属の中隊長や区隊長、教練班長などの「やあ、おめでとう」などのしらじらしい言葉なんてクソ喰らえでした。しかし、上司もそれしか言えなかったのでしょうね。300名の操縦の中から18名が沖縄特攻で散りました。当時、沖縄の軍司令官だった牛島中将の許に、同期生は少しでも助けにと散ったと思いたいです。
--------転科で、もやもやした気持ちのまま士官学校の卒業式を迎えたのでしょうか?
堀山‥昭和19年4月20日、天皇陛下の行幸を仰ぎ、座間の「相武台」で卒業式が行われました。もう、その頃は皆、胸の中で落ち着いていました。その卒業式の閲兵の際、陛下は我々、野砲兵に二度もご答礼されました。私は驚き、「陛下は57期に頼んでおられる!」と直感し、「一死君恩に報ぜん」と決意したのです。軍人勅諭の精神が脳裏に閃きました。座間で多少ぐれていた私は正気に戻りました。士官学校の教育は正に、私に有効だったわけです。
--------卒業して第96期召集尉官操縦学生になりますが、これはどういう制度なのでしょう。
堀山‥当時は陸軍士官学校を卒業すると将校勤務見習士官になり、各兵科の実施学校でさらに訓練を受け、3カ月後に陸軍の現役の少尉に任官し、将校の生活が始まります。航空に転科した者は熊谷陸軍飛行学校に派遣され、6カ月基本操縦を習い、また戦闘、偵察、爆撃、襲撃の分科の飛行学校で乙種学生として実用機の教育を6カ月受けて、部隊に配属され、さらに飛行技術を練磨、仕上げをするわけです。
400名の内、100名は偵察、航法、武装、気象に行き、約300名が操縦に行きました。操縦になった我々は、熊谷陸軍飛行学校が当時、特操2期の教育で手一杯となり、教育を委託した陸軍航空士官学校に入校することになりました。思いがけず、転科の操縦の我々は、東京の市ヶ谷台の陸軍予科士官学校の最後の入校生、埼玉県朝霞に最初の移駐をした第1期生、次いで神奈川県座間の陸軍士官学校に学び、最後に埼玉県豊岡の陸軍航空士官学校と、4つの士官学校で学ぶことになったのです。ただし、転科の操縦学生としては、熊谷の一連番号の「96期操縦学生」で整理されますが、私は狭山飛行場で飛竜隊(21中隊) 2区隊でした。約300名は狭山が200名、高萩が22中隊で100名でした。教育内容はどちらも同じです。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆一人の殉職者も出さなかった「座間転」
--------航空の勉強は大変でしたか?
堀山‥大変ですが、航空は自己責任で失敗したら即、死です。で、皆、懸命に努力しました。航空兵力の急速拡充の時なので、航空本部は、一割死んでもいいから基本操縦は九五式中間練習機を略して、いきなり九九式高等練習機で我々をテストしました。ですから他の人のように、二枚羽の赤トンボを知りません。しかし、九九高練は九八式直協偵察機を練習機に立川飛行機が改造したので中身は実用機です。一遍に皆、気に入り、文句もなくなり、嬉々として操縦に励みました。昭和19年4月21日から9月16日に修業を終えるまで、我々57期の「座間転」は1名の殉職者も出さず、東條さんも喜んだようです。
航空士官学校には55期の作った「航空百日祭」という名歌があり、陸軍らしくない、むしろ旧制高校の逍遥歌風のメロディーですが、ゆっくり歌うところがいかにも「航空兵らしい大空」を思わせて、ちょっとしんみりしました。座間にも56期が作った「ああ相武台の名に負いて」という長いけど、いい歌があり、始めは地上への郷愁もあって、それを愛唱していましたが、段々 「航空百日祭」 の方を歌うようになり、心も航空転科を受容したのでしょう。
航空士官学校を修業すると、操縦は各飛行分科に従い各飛行学校に入校します。戦闘は近戦が明野、遠戦が常陸、偵察は下志津、重爆は浜松、軽爆と襲撃は鉾田で、実用機の修業の6カ月、将校学生の乙種学生で教育されます。私の場合、昭和19年9月26日、明野陸軍飛行学校(昭和19年6月から作戦任務を付与され、明野陸軍教導飛行師団)に入校し、新設の富士飛行場で3カ月が九七式戦闘機。次の3カ月を天竜飛行場で一式戦闘機二型で戦闘機の戦技訓練を受け、昭和20年3月30日に修業し、作戦補充要員となりました。戦闘機の飛行学校である明野は、防空戦国と夜間戦闘を水戸に56期から分校で分け、57期から常陸陸軍教導飛行師団に昇格させましたが、専用の戦闘機は二式複座戦闘機くらいで、他は明野と同じ単座戦闘機を使用しました。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆特攻隊に志願
--------昭和20年初頭に航空総監菅原道大中将から「特攻志願の件に関する散文」が配布されたということですが、その書類をご覧になりましたか?
堀山‥現物は見ていません。特攻志願は昭和20年1月と、3月の2回あり、白い紙片に「熱望、希望、希望しない」の3種が書かれ、巷間言われる「一歩前へ」はありませんでした。久保幸夫教官(53期/戦闘/二十四戦隊) からも、あまり細かい説明はなかったように思います。天竜の座間転の乙学44名は全員特攻の志願を出しましたら、久保教官は「俺はもう、貴様たちにはガツカリした。俺が教えているのは将来の戦隊長要員として空中戦に勝てる者をと思って教育しているのに、皆が特攻を志願したら、日本の後の戦闘隊はどうなるのだ」と言って嘆かれました。
戦闘機操縦者として一人前になるには500時間と聞いており、我々は末だ150時間なので、今の戦況ではゆっくり500時間まで教育を待てない。空中戦闘は航士57期にまかせ、俺たちはイチかバチか「体当たりで敵艦を撃沈しよう」と思い、全員が志願したのです。それに、士官学校では戦場で危急の場合、士官学校出の将校はイの一番に最も危険な任務に率先して就くべきだと教えられており、それが軍隊の中核になる現役将校の取るべき道でした。特操や幹部候補生などの予備役の将校は、文部省の教育で「人生をいかに生きるべきか」を教えられるが、我々、陸軍の正規将校はそれらと違い、「いかに生き、いかに死ぬべきか」まで3年間の教育で求められて来ました。久保教官は我々を可哀想だと思ってくれたかも知れませんが、我々は自分の身の程(実力の程度)を知っていたので、「久保さんは分かっていないな」と思いました。
--------特攻というのは、上の偉い人が下に押し付けるというイメージがありましたが、今のお話を聞くと全然違いますね。
堀山‥53期の久保さんの頃は良かったんです。だけど、「今、この国がこんなに負けかかっている時に、俺たちがやらんで誰がやるか。特操の連中だって皆やってるじゃないか」と、非常に心が綺麗でした。
--------明野時代、堀山さんが自宅に帰られた時、お父様に口答えして、「だったら僕は特攻に行って精算してやる」とおっしゃったそうですが、その辺りをお聞かせください。
堀山‥父は僕に期待してくれていました。それが、僕は怠けて本当に士官学校の成績は悪かったのです。当時、父は陸軍糧秣本廠の主計中佐で、どこで見たのか成績がバレて、夕食の際に大叱られ。それに、転科後の基本操縦時代に運が悪くて、狭山の基本操縦で九九高練を1週間に2機、着陸で大破させ、富士では九七戦で空中接触し(相手は無事)、落下傘降下(機は空中で炎上)で3機大破していました。叱られた時に素直に謝らず、「座間ではサボり、申し訳ありません。航空に転科後も3台壊したので、この上は特別攻撃隊に参加して、見事にこの償いをしますから許して下さい」と言いました。
いくら軍人でも、息子に「そうせよ」とは親子の情で言えず、ただ「しっかりやれ」とだけ言いました。
「いかに忠義の臣でも、親孝行とは言えない息子」でした。それを母は根に持っていて、戦後に「あのまま、お前が死んでいたら、お母さんは一生、お父さんを恨んだ」と言われました。もし、本土上陸作戦で体当たりをしたとしても、結局、負けてしまったでしょうから、母に責められる父を仏壇の中から見ずに済んで本当に良かったと思います。こればかりは陛下の終戦のご決断に感謝申し上げる次第で足を向けて寝られません。21才の若気の至りで、お恥ずかしい一席です。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆地上で死ぬより特攻で
--------乙種学生を終了して作戦補充要員……実戦部隊からお呼びがかかり、転属するのを待つ身になったのですね。
堀山‥天竜飛行場では昭和20年3月30日の終了前に、第一、第四十教育飛行隊に2人、特攻に2人出て行き、残り40名は飛行場を分散、秘匿するための土木工事をしていました。
--------待っている間、特攻隊に行くという気持ちが強かったのですか。それとも、通常の戦闘機隊に行きたいという……
堀山‥射撃の成績が30発60点満点で13点と、よくありませんでしたが、戦闘機隊に行けたらとは先ず思いました。しかし、本心は、もし敵が上陸した時、こちらの飛行機がすべて焼かれてなくなっていたら、飛行場の兵隊たちに鉄砲を持たせても、とても戦闘などやれません。歩兵とは比較にならない弱兵で、そんな者を地上で指揮して死ぬなんて、航空転科の意味がまったくなくなります。どうか飛行機にありつきたいと考えていました。
--------そうしているうちに、第十六飛行団付という命令が下ったそうですね。
堀山‥他の飛行場の同期生の特攻は昭和20年5月3日発令と言いますが、5月5日、兄が天竜に会いに来た時は未だに命令は来ていなかったから、その後だと思います。3人の発令(室山五男、松田二男、堀山久生)を先ず久保さんが間違えました。十六飛行団は茨城県下館飛行場で第五十一戦隊と第五十二戦隊が戦力回復中で、「どの戦隊か後命を待て」と四式戦隊への内命を喜んで下さり、安心して飛行機分散の土木工事に励んで一週間が過ぎました。松田二男と言う男は気が利く男で、天竜の通信隊に頼んで明野本校に照会してもらったところ、本校からは「なぜ行かぬか」との返事。20日昼、疎開児童に見送られ天竜を出て、21日に下館に出頭。山田邦夫中佐(十六飛行団長)に、「遅い上に身辺整理もせずに来るとは何だ。貴官たちは特攻要員だ。ここは1名だけでいい。東京で2人あるかもしれぬ。すぐ行け」と大叱られ。野田毅少佐(48期/部員)が「市ヶ谷の第三十戦闘飛行集団で聞け」と言われ、下館の同期生にも会い、一泊して22日に市ヶ谷に出頭。そこでも編成は完了と言われ、明野に帰る他なし。
ところが、松田はしっかりしていて女子事務員に開くと、成増で隊長2名が未着と言う。「助かった」と改めて申し出て、新藤常右衛門大佐から松田は一九三、堀山は一九四ということで、私は「仮編決と号一九四飛行隊長」を命ぜられました。これはもう沖縄特攻ではなく、本土決戦の特攻隊長でした。
着任が遅れて明野に戻されては将校の面目が立たない2人は、自分で特攻に割り込んだわけです。その時の気持ちとしては「ああ、やっぱり特攻か。防空戦闘隊なんて話がうま過ぎたよ。でも四式戦闘機の特攻隊長なら有難い。もう言うことはない」と朗らかなものでした。でも、当時は陸軍の人事も大分、乱れていたことが判ります。特攻隊の編成は、隊員は飛行戦隊に一応配属し、その戦隊で振武隊を編成します。第一九四振武隊は飛行第四十七戦隊で、隊長が着任して部下を掌握した昭和20年5月23日が編成日になります。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆特攻隊長になったことを知った家族
--------市ヶ谷で特攻隊長を命ぜられた5月22日の晩、自宅に帰られたそうですね。
堀山‥22日、荻窪の自宅での夕食時に、陸軍中野学校の教官の柳沢五子(いったね/53期/歩兵)さんが遊びに来られ、「今度は成増の飛行隊」と言ったら「小隊長くらいかね」、「いや、もっと偉くて振武隊長です」と私が言ったので驚かれ、姿勢を正して「久生君、おめでとう」と言い、皆ビックリ!
父はただ「しっかりやれ」と言いましたが、母は「一度も要撃に上げず、いきなり特攻とは酷い。お母さんはそんなのは嫌だ」と言いました。母は宇治山田の女学校出で、同じ三重県の明野が戦闘機の飛行学校で、殉職者の多いことを若い時に知っていました。皆、夕食が喉を通らなかったかも知れません。成増から館林に移動後、毎週金曜日に自宅に帰れて、突然いなくなって心配させないよう「来週も帰るから、この靴下を洗っておいて」と預けて帰っていました。母は井戸端で私の靴下を洗いながら泣いたそうです。亡くなる前に聞いて母親の愛情に感謝しました。陸軍の主計中佐夫人でもこれなのに、一般の家庭の母親は息子が特攻隊員になって、爆弾とともに敵艦に体当たりして、木っ端微塵に砕け散る運命を悲しまぬ母親はいなかったでしょう。私は母が23才の子で、当時、私は22才。母はまだ45才でした。昔の女性は大変でした。
しかし、特攻の発令後は、自分はもう親子兄弟を思わず、ただ任務達成に邁進し、死も隣りの部屋に襖を開けて入るくらいに恐くなく、世の中の事もまるで余所ごとで眺めているような感じでした。肉親の愛情よりも、お国のため、今、与えられた敵艦撃滅の任務を達成するための努力の方がすべての前にありました。
--------成増に着任されて、正式に第一九四振武隊が編成されたということですが、何か辞令のようなものはあったのですか?
堀山‥航空隊では一度も紙に書いたものをもらいませんでした。明野の唯一の記録は昭和20年2月の俸給の明細書です。あとは皆、口頭でした。
--------その後、館林に移動されたのですね。
堀山‥申告後、館林の受け入れ準備完了次第、移動するように言われました。成増は本来、飛行第四十七戦隊の飛行場で本隊は知覧や都城で沖縄戦を戦い、当時は山口県小月で奮戦中でした。成増には留守隊がいて、松田、堀山の特攻編成の申告はその留守隊長にしました。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆隊長としての部下への接し方(1)
--------特攻隊長として、部下への接し方に気をつけたことはありましたか?
堀山‥生まれて初めての隊長ですので、部下から申告を受けた際は、ちょっと演出していかにも偉そうに「おう、待っていてくれてご苦労だったな」と、でかい態度をしました。指揮官は初めて部下を持つ時の態度が大事。オタオタしていては部下に嘗められ、後で困ります。で、地上部隊のやり方で済ませたのです。何、部下はコチコチですからわかりません(笑)。予備役の副隊長がまだ来ないので、「現役の将校と現役の下士官だけ5人でやろう」と言いました。陸士と少飛(少年飛行兵)は現役で、指揮には嘘のないことと、公平、愛情が必要です。私は父に子供の時から写真を習い、館林では少飛出身の4人の伍長に、私の陸軍中尉の服装に将校の軍刀を白い手袋で持たせ、写真を撮ってやりました。伍長が特攻戦死すると少尉になりますが、その時は写真に残す身体がありません。皆、自分の将校姿に大喜びでした。館林に到着して酒井隊長から、「9月下旬までに訓練を完成して、北九州に展開すべし」との内示を受けましたが、誰にも言いませんでした。夏になって辞世の歌を作りましたが、9月末が命日と思っていましたから、「秋空や 純忠の義に 雲を越え」としました。
もう一つ、少々長い話で恐縮ですが、副隊長着任の話をしましょう。上田克彦少尉と言い、大正7年生まれの飛騨高山の材木屋さんの息子さん。私は中尉で大正12年生まれ。5才上で北海道大学農学部林学科卒、帝室林野局員。第二十一振武隊で一式戦三型に乗り、昭和20年4月12日、知覧を出撃して之島に前進。ところが、そこで飛行機を焼かれて5月末、福岡に帰還。明野から再配属というおとなしい方でした。写真結婚と言って、花嫁衣装の新婦の隣には、飛行機服の新郎の写真のみの結婚式。聞いて気の毒に思い、「上田さんお気の毒で、奥さんをこちらに連れていらっしゃい。部隊で吉川旅館に一部屋準備してもらい、今度出るまで一緒にお住みなさい。それから4人の少年飛行兵をお預けしますのでよろしく」と言い、少年飛行兵には今まで現役だけでと言ってきたので、「上田少尉は特操の1期だが、北海道帝国大学のご出身で帝室林野局の役人。すでに二十一振武隊員で沖縄に出撃され、我々より技量は上だ。尊敬せねばいけない。今後、お前たち4人は上田少尉に預けるから、何かあったら上田少尉を通じて俺に言ってこい」と言い渡しました。可愛い奥さんも到着。20才以下の少年飛行兵は皆、上田少尉のところに行き、我が隊は明朗でした。
しかし、私は厳しいこともあり、ある時、4人の部下の銃剣を見たら挨だらけ。怒って、他隊の前で「一九四振武隊は銃剣を持って来い」と言いました。4人は途中で軍服でもこすれば、少しは攻も取れるのですが、そのまま持ってきた。「さすが、現役下士官は陸士並の精神教育を受けているな」とホロッとしましたが、はめるわけにもいかず、一発ずつ鉄拳を振るい、「少年飛行兵の伝統の名に恥じよ。30分後、再点検する」と言って点検を終わりました。でも、その後は、いつもと同様、私の落下傘の縛帯を飛行場まで持って来てくれました。悪いことをすれば殴られるのは当然の世界でした。飛行訓練の場合、操縦の操作が悪かったらぶん殴り、館林の戦闘隊も殴りました。司令部偵察機の特攻の連中は、「戦闘機隊は殴られている」と怖がったと聞いています。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆隊長としての部下への接し方(2)
--------館林で初めて四式戦に乗られたということですが、慣れるまで時間がかかりましたか?
堀山‥ただ乗るのなら、飛行時間があればそう難しいとは思えませんでした。しかし、一式戦のエンジンの馬力の1・5倍で、2000馬力近い四式戦は胴体が太すぎて、乗せられているといった状態で、操縦が手に入ったとは言えなかったと思います。
--------それまで、九七戦、一式戦「隼」、四式戦「疾風」などを乗り継いでいらっしゃいます。それぞれ長所短所があると思いますが、一番乗りやすい、好きな戦闘機はありますか?
堀山‥好きなのは「隼」、一式戦二型でしょうか? 4機編隊で離陸上昇中、脚を入れる時、車輪が左、次が右と胸を抱くような形で収められ、見とれていました。
--------特攻隊に配備される飛行機は旧式のものが多かったと聞きますが。
堀山‥とんでもない。館林の四式戦は中島飛行機の太田工場から、全くの新品を72機もらいました。全員が計器盤から飛行時計を外し、首にぶら下げていました。
--------操縦も大変でしょうけど、航法の習得も難しいのでしょうね?
堀山‥狭山では基本操縦時代に一辺20分の三角航法を実施。狭山-秩父-皆野-狭山だけで、それは、まあ無事に出来ました。知覧から沖縄の距離は約700kmで、2、3時間の目標もない洋上航法は大変だったでしょう。本土決戦の場合は敵の上陸を待つので、もっと近くで少しは楽だったと思いますが、結局、出撃しなかったので腕前は分かりません。小型円形の航法計算盤ももらい「推測航法」の教育を受けましたが、敵戦闘機の見張りをしつつ右手で操縦梓を、左手で計算盤を扱っても正確に扱うのは至難と思います。誘導に別に飛行機が必要だったでしょう。日本海軍の戦闘機はどうしたのでしょうか?
--------「沖縄へ出撃」と言葉では簡単でも、実際にたどり着くのは大変だったわけですね。
堀山‥正確に着くのは、それは大変です。たどり着く前に敵の遊撃を避けねばならず、目標が移動すれば又、位置が不明です。おおむね程度の航法なら頭のいい奴の例があります。航士57期の結城造君(第四十二振武隊)は、種子島まで2時間、南へ飛び、そこで西に30分飛んで徳之島に着いた由。100kg爆弾で巡航速度140kmと言うので、もっと速いのでは?と尋ねた記憶があります。
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆特攻訓練マニュアル(1)
--------この「館林の空」(※注1)という本を読んで初めて知ったのですが、特攻隊の訓練について詳細なマニユアルがあったのですね。当時、こういうものが配布されていたのですか?
堀山‥「館林の空 資料編」に掲載した「と号空中勤務必携」は、戦後、友人の押尾一彦(四式戦研究家)から頂いたもので、昭和20年5月作製とあります。これだけ立派な内容は多分、熊谷陸軍飛行学校が航空本部の指導で作ったのでは?と思います。超低空水平攻撃の場合のデータは百式司偵、九九軍偵、九八直協らしく、下志津飛行学校の作業に見えます。これで訓練した隊もあるでしょう。それを知りたいと思います。
我々、第三十戦闘飛行集団は、本土決戦に備え「館林集成教育隊」を設けて特別に集合教育を徹底し、四式戦12朋 隊72名、百式司偵10隊32名(機上通信8名含む)、キ115特攻3隊、合計122名の特攻隊員がおりました。おそらくは当時、一飛行場にかくも優秀機ばかりの特攻機を多数集めた特攻基地は他にないでしょう。
19人の特攻隊長は「と号部隊戦闘要領」をもらい、それで訓練をしましたが、各地に分散されていた特攻隊長は多分、持っていないのではと思います。
その中に、「特攻隊の本領は、生死を超越し、真に捨身必殺の精神と卓抜なる戦技を以て、独特の戦闘威力を遺憾なく発揮し、航行又は泊地における敵艦船艇に驀進衝突し、これを必沈して敵の企図を覆滅し、全軍戦捷の途を拓くにあり。而して本攻撃成功の根基は、実に空中勤務者の精神力に存す」とありました。加えてさらに、厚さ3cm位のB5版左横綴じの「敵艦船識別法」という、敵の軍艦、船舶、飛行機の三面図に、写真、性能、要目のある本も資料として配布されました。特攻については他にも、軍司令官クラスの上級指揮官用には「高級指揮官のと号部隊用法」があったようです。