特攻インタビュー(第6回)・その4
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編集者
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆一人の殉職者も出さなかった「座間転」
--------航空の勉強は大変でしたか?
堀山‥大変ですが、航空は自己責任で失敗したら即、死です。で、皆、懸命に努力しました。航空兵力の急速拡充の時なので、航空本部は、一割死んでもいいから基本操縦は九五式中間練習機を略して、いきなり九九式高等練習機で我々をテストしました。ですから他の人のように、二枚羽の赤トンボを知りません。しかし、九九高練は九八式直協偵察機を練習機に立川飛行機が改造したので中身は実用機です。一遍に皆、気に入り、文句もなくなり、嬉々として操縦に励みました。昭和19年4月21日から9月16日に修業を終えるまで、我々57期の「座間転」は1名の殉職者も出さず、東條さんも喜んだようです。
航空士官学校には55期の作った「航空百日祭」という名歌があり、陸軍らしくない、むしろ旧制高校の逍遥歌風のメロディーですが、ゆっくり歌うところがいかにも「航空兵らしい大空」を思わせて、ちょっとしんみりしました。座間にも56期が作った「ああ相武台の名に負いて」という長いけど、いい歌があり、始めは地上への郷愁もあって、それを愛唱していましたが、段々 「航空百日祭」 の方を歌うようになり、心も航空転科を受容したのでしょう。
航空士官学校を修業すると、操縦は各飛行分科に従い各飛行学校に入校します。戦闘は近戦が明野、遠戦が常陸、偵察は下志津、重爆は浜松、軽爆と襲撃は鉾田で、実用機の修業の6カ月、将校学生の乙種学生で教育されます。私の場合、昭和19年9月26日、明野陸軍飛行学校(昭和19年6月から作戦任務を付与され、明野陸軍教導飛行師団)に入校し、新設の富士飛行場で3カ月が九七式戦闘機。次の3カ月を天竜飛行場で一式戦闘機二型で戦闘機の戦技訓練を受け、昭和20年3月30日に修業し、作戦補充要員となりました。戦闘機の飛行学校である明野は、防空戦国と夜間戦闘を水戸に56期から分校で分け、57期から常陸陸軍教導飛行師団に昇格させましたが、専用の戦闘機は二式複座戦闘機くらいで、他は明野と同じ単座戦闘機を使用しました。