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特攻インタビュー(第6回)・その7

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通常 特攻インタビュー(第6回)・その7

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/5/19 6:54
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 堀山久生氏

 ◆特攻隊長になったことを知った家族

 --------市ヶ谷で特攻隊長を命ぜられた5月22日の晩、自宅に帰られたそうですね。

 堀山‥22日、荻窪の自宅での夕食時に、陸軍中野学校の教官の柳沢五子(いったね/53期/歩兵)さんが遊びに来られ、「今度は成増の飛行隊」と言ったら「小隊長くらいかね」、「いや、もっと偉くて振武隊長です」と私が言ったので驚かれ、姿勢を正して「久生君、おめでとう」と言い、皆ビックリ!

 父はただ「しっかりやれ」と言いましたが、母は「一度も要撃に上げず、いきなり特攻とは酷い。お母さんはそんなのは嫌だ」と言いました。母は宇治山田の女学校出で、同じ三重県の明野が戦闘機の飛行学校で、殉職者の多いことを若い時に知っていました。皆、夕食が喉を通らなかったかも知れません。成増から館林に移動後、毎週金曜日に自宅に帰れて、突然いなくなって心配させないよう「来週も帰るから、この靴下を洗っておいて」と預けて帰っていました。母は井戸端で私の靴下を洗いながら泣いたそうです。亡くなる前に聞いて母親の愛情に感謝しました。陸軍の主計中佐夫人でもこれなのに、一般の家庭の母親は息子が特攻隊員になって、爆弾とともに敵艦に体当たりして、木っ端微塵に砕け散る運命を悲しまぬ母親はいなかったでしょう。私は母が23才の子で、当時、私は22才。母はまだ45才でした。昔の女性は大変でした。

 しかし、特攻の発令後は、自分はもう親子兄弟を思わず、ただ任務達成に邁進し、死も隣りの部屋に襖を開けて入るくらいに恐くなく、世の中の事もまるで余所ごとで眺めているような感じでした。肉親の愛情よりも、お国のため、今、与えられた敵艦撃滅の任務を達成するための努力の方がすべての前にありました。

 --------成増に着任されて、正式に第一九四振武隊が編成されたということですが、何か辞令のようなものはあったのですか?

 堀山‥航空隊では一度も紙に書いたものをもらいませんでした。明野の唯一の記録は昭和20年2月の俸給の明細書です。あとは皆、口頭でした。

 --------その後、館林に移動されたのですね。

 堀山‥申告後、館林の受け入れ準備完了次第、移動するように言われました。成増は本来、飛行第四十七戦隊の飛行場で本隊は知覧や都城で沖縄戦を戦い、当時は山口県小月で奮戦中でした。成増には留守隊がいて、松田、堀山の特攻編成の申告はその留守隊長にしました。

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