特攻インタビュー(第6回)・その5
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編集者
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陸軍航空特攻 堀山久生氏
◆特攻隊に志願
--------昭和20年初頭に航空総監菅原道大中将から「特攻志願の件に関する散文」が配布されたということですが、その書類をご覧になりましたか?
堀山‥現物は見ていません。特攻志願は昭和20年1月と、3月の2回あり、白い紙片に「熱望、希望、希望しない」の3種が書かれ、巷間言われる「一歩前へ」はありませんでした。久保幸夫教官(53期/戦闘/二十四戦隊) からも、あまり細かい説明はなかったように思います。天竜の座間転の乙学44名は全員特攻の志願を出しましたら、久保教官は「俺はもう、貴様たちにはガツカリした。俺が教えているのは将来の戦隊長要員として空中戦に勝てる者をと思って教育しているのに、皆が特攻を志願したら、日本の後の戦闘隊はどうなるのだ」と言って嘆かれました。
戦闘機操縦者として一人前になるには500時間と聞いており、我々は末だ150時間なので、今の戦況ではゆっくり500時間まで教育を待てない。空中戦闘は航士57期にまかせ、俺たちはイチかバチか「体当たりで敵艦を撃沈しよう」と思い、全員が志願したのです。それに、士官学校では戦場で危急の場合、士官学校出の将校はイの一番に最も危険な任務に率先して就くべきだと教えられており、それが軍隊の中核になる現役将校の取るべき道でした。特操や幹部候補生などの予備役の将校は、文部省の教育で「人生をいかに生きるべきか」を教えられるが、我々、陸軍の正規将校はそれらと違い、「いかに生き、いかに死ぬべきか」まで3年間の教育で求められて来ました。久保教官は我々を可哀想だと思ってくれたかも知れませんが、我々は自分の身の程(実力の程度)を知っていたので、「久保さんは分かっていないな」と思いました。
--------特攻というのは、上の偉い人が下に押し付けるというイメージがありましたが、今のお話を聞くと全然違いますね。
堀山‥53期の久保さんの頃は良かったんです。だけど、「今、この国がこんなに負けかかっている時に、俺たちがやらんで誰がやるか。特操の連中だって皆やってるじゃないか」と、非常に心が綺麗でした。
--------明野時代、堀山さんが自宅に帰られた時、お父様に口答えして、「だったら僕は特攻に行って精算してやる」とおっしゃったそうですが、その辺りをお聞かせください。
堀山‥父は僕に期待してくれていました。それが、僕は怠けて本当に士官学校の成績は悪かったのです。当時、父は陸軍糧秣本廠の主計中佐で、どこで見たのか成績がバレて、夕食の際に大叱られ。それに、転科後の基本操縦時代に運が悪くて、狭山の基本操縦で九九高練を1週間に2機、着陸で大破させ、富士では九七戦で空中接触し(相手は無事)、落下傘降下(機は空中で炎上)で3機大破していました。叱られた時に素直に謝らず、「座間ではサボり、申し訳ありません。航空に転科後も3台壊したので、この上は特別攻撃隊に参加して、見事にこの償いをしますから許して下さい」と言いました。
いくら軍人でも、息子に「そうせよ」とは親子の情で言えず、ただ「しっかりやれ」とだけ言いました。
「いかに忠義の臣でも、親孝行とは言えない息子」でした。それを母は根に持っていて、戦後に「あのまま、お前が死んでいたら、お母さんは一生、お父さんを恨んだ」と言われました。もし、本土上陸作戦で体当たりをしたとしても、結局、負けてしまったでしょうから、母に責められる父を仏壇の中から見ずに済んで本当に良かったと思います。こればかりは陛下の終戦のご決断に感謝申し上げる次第で足を向けて寝られません。21才の若気の至りで、お恥ずかしい一席です。