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特攻インタビュー(第6回)・その2

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通常 特攻インタビュー(第6回)・その2

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/5/13 6:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 堀山久生氏

 ◆軍人の家庭に育って

 --------幼少の頃の思い出は何かありますか?

 堀山‥昭和3年頃、父の勤務で北朝鮮の羅南に住みました。国境守備を担当する第十九師団の主力の駐屯地で、父は陸軍経理学校出の歩兵第七十六聯隊の主計大尉。軍旗祭などに幼稚園時代の思い出があります。その後、昭和6年、父は善通寺の第十一師団経理部の主計少佐で予備役編入。上京して昭和8年から杉並第五小学校、東京府立四中を経て、陸軍士官学校に進みました。最後の「市ヶ谷台」組で昭和16年4月、陸士の予科に入校。昭和19年4月、本科卒業です。

 小学校の一番の思い出は、丸亀の城西小学校3年の時に祖父に連れられ、兄と明野陸軍飛行学校を見学し、教官の奥山清蔵中尉(少候5期/終戦時中佐/第十練成飛行隊長/淡路)に、八八式偵察機に乗せて頂いて「飛行将校」になろうと決心しました。飛行帽をかぶせて頂き、奥山中尉との機上の写真もあります。

 --------陸軍軍人を志したのは、お父様の影響が強かったのですか?

 堀山‥堀山家の系図は、南朝の忠臣・北畠親房から始まる伊勢の国司・北畠家九代の家臣で、昔は武士の家で、父も陸軍将校でした。当時、軍人の家庭は家督継承のため、長男を残して次男以下を軍人にしたように思います。浅草の大正館で早川雪洲のトーキー映画「大桶公」を見て、楠木正成・正行父子の別れの場面で泣いた記憶があります。小学校6年で1年、膿胸で休学しましたが、中学4年から陸士に入りました。

 --------陸軍軍人を目指したのも自然な流れで。

 堀山‥当時、私の入った府立四中(現・東京都立戸山高校)は陸士・海兵への合格者が特に多かったと思います。また、陸軍のお覚えが良く、「配属将校の第一号」は府立一中(現・東京都立日比谷高校) ではなく四中で、近衛歩兵第一連隊から派遣されました。陸士は東京地区では私立の場合、成城中学校が一番多いですが、府立は四中でした。最近、後輩の大東信祐君(戸山高/防大1期/普通科/陸将補) が、明治以降の陸士への入校者を調べたところ570人もいます。大将は東條英機さん。陸軍特攻の富嶽隊長西尾常三郎少佐(航士50期/重爆)や海軍の神宮特攻の野中五郎少佐などがあり、戦争文学では、陸軍は「ビルマの竪琴」の竹山道雄さん、海軍は「戦艦大和の最期」の吉田満さんがあります。

 --------その後、陸軍予科士官学校から本科である陸軍士官学校に進まれるわけですが、その時、兵科というのはご自分で決められるものなのでしょうか。それとも、命令で決まるのですか?

 堀山‥一応は志願で、決定は学校がしました。私は膿胸が崇って航空を撥ねられ、広島の野砲兵でした。希望が通らず、大泣きする悲劇もありましたが、皆、やがて治まりました。

 予科士官学校では歩兵の訓練が中心で1年3カ月、隊付(たいづき) 3カ月、本科は1年7カ月、予科・本科合わせて3年1カ月です。生死を誓う同期生の3年間の裸の付き合いですから、裏表はありません。予科時代は提出日誌の裏表紙に「従順」と書いた位、素直ないい生徒でした。高谷武区隊長(50期/東京幼年/歩兵科2番/恩賜/歩兵39/陸大/陸将補)に可愛がって頂き、夏休みに新婚のお二人と私服で府立一申出の原田健一君と奥多摩に4人でハイキングに行きました。こんな話は誰もちょっと信用しないでしょう。

 広島の隊付では三瓶山で10センチ楷弾砲の実弾射撃の指揮を取り、規則通りの射撃が立派に出来ました。当時(昭和17年夏頃) は、大東亜戦争の勝ち戦で、我が第五師団はシンガポール攻略の大砲兵戦で、ジョホールバルの北岸から「機動90式野砲」、陸軍唯一の砲口制退器付の長距離野砲で1万2800mで射撃号令をかけたら近くの野戦重砲が驚いたそうです。塔の3階にあった目標の敵の観測所に見事に命中したなど52期の先輩に吹かれ、一生懸命に射撃は勉強しました。

 本科時代は少しぐれまして、馬来祥介区隊長(53期/東京幼年/野砲7/陸大/陸将) に逆らい大変失礼しました。本科時代は射撃は巧かったのですが、学業、操行はよくありません。自由にやっていましたから。まあ、ご想像下さい(笑)。

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