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特攻インタビュー(第6回)・その3

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通常 特攻インタビュー(第6回)・その3

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2012/5/15 6:59
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 陸軍航空特攻 堀山久生氏

 ◆転科命令に大ムクレ

 --------士官学校を卒業される頃、野砲兵から航空兵に転科とあるのですが、ご希望してそうなったのですか。

 堀山‥これは57期だけですが、本科在学中に120名を陸士始まって初めて航空士官学校に「転校」させた第一次航空転科があり、航空兵力の不足に対応しました。第二次の「航空転科」は前の期からありましたが、卒業1550名中、大量の400名を実施。「転校」は志願。「転科」は命令でした。この第二次「航空転科」組……座間から転科した者を「座間転」と呼びました。何となくちょっと劣等感がある呼び方でしたね。

 --------命令で航空に移ったわけですが、その時のお気持ちは?

 堀山‥私は航空に未練があり、志願して一次に肺活量で撥ねられ、二次で戦闘機になりましたので、心の中では満足していました。他の人は大ムクレで、「何のために今まで本科で苦労したんだ!」「俺たちが今から行っても操縦に1年かかる。その間に日本はどうなる。特操(特別操縦見習士官)を増員すべきだ」「俺たちの地上戦力がもったいない」と大騒ぎでした。

 もう一つは、「所属の兵科に捨てられた」という僻みでした。これに対して牛島満校長は「間違った考えかもしれんが、400の諸子を航空にやるのは惜しいような気がする。しかし皇国のためだ。行ってくれ」と言われ治まりました。温かいお言葉に皆、泣きました。不満も吹き切れました。所属の中隊長や区隊長、教練班長などの「やあ、おめでとう」などのしらじらしい言葉なんてクソ喰らえでした。しかし、上司もそれしか言えなかったのでしょうね。300名の操縦の中から18名が沖縄特攻で散りました。当時、沖縄の軍司令官だった牛島中将の許に、同期生は少しでも助けにと散ったと思いたいです。

 --------転科で、もやもやした気持ちのまま士官学校の卒業式を迎えたのでしょうか?

 堀山‥昭和19年4月20日、天皇陛下の行幸を仰ぎ、座間の「相武台」で卒業式が行われました。もう、その頃は皆、胸の中で落ち着いていました。その卒業式の閲兵の際、陛下は我々、野砲兵に二度もご答礼されました。私は驚き、「陛下は57期に頼んでおられる!」と直感し、「一死君恩に報ぜん」と決意したのです。軍人勅諭の精神が脳裏に閃きました。座間で多少ぐれていた私は正気に戻りました。士官学校の教育は正に、私に有効だったわけです。

 --------卒業して第96期召集尉官操縦学生になりますが、これはどういう制度なのでしょう。

 堀山‥当時は陸軍士官学校を卒業すると将校勤務見習士官になり、各兵科の実施学校でさらに訓練を受け、3カ月後に陸軍の現役の少尉に任官し、将校の生活が始まります。航空に転科した者は熊谷陸軍飛行学校に派遣され、6カ月基本操縦を習い、また戦闘、偵察、爆撃、襲撃の分科の飛行学校で乙種学生として実用機の教育を6カ月受けて、部隊に配属され、さらに飛行技術を練磨、仕上げをするわけです。

 400名の内、100名は偵察、航法、武装、気象に行き、約300名が操縦に行きました。操縦になった我々は、熊谷陸軍飛行学校が当時、特操2期の教育で手一杯となり、教育を委託した陸軍航空士官学校に入校することになりました。思いがけず、転科の操縦の我々は、東京の市ヶ谷台の陸軍予科士官学校の最後の入校生、埼玉県朝霞に最初の移駐をした第1期生、次いで神奈川県座間の陸軍士官学校に学び、最後に埼玉県豊岡の陸軍航空士官学校と、4つの士官学校で学ぶことになったのです。ただし、転科の操縦学生としては、熊谷の一連番号の「96期操縦学生」で整理されますが、私は狭山飛行場で飛竜隊(21中隊) 2区隊でした。約300名は狭山が200名、高萩が22中隊で100名でした。教育内容はどちらも同じです。

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