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心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/2/1 9:37
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 四.生徒の外出  その2

 したがって外出して訪ねて来る生徒には父母の送り物とは決して書わなかった。また区隊長同志でも今迄その事について話したことは無い。私は妻が居たから生徒の外出時の世話などしたが、独身の区隊長はどうしたか聞いたことが無い。近年になって判った同期の小川区隊長のアルバムには、下士官生徒が訪ねた時の写真があることが判った。小川君は独身の他の区隊長達と共に旧料亭に下宿し、本人は当時カメラを持って多くの写真を撮っている。戦後村松町の写真屋が焼けて学校関係の写真の原板が全部無くなっているので、小川君の写真は貴重な存在である。

 この様にして、十二月一日入校以来、雪深い新潟県の山近い小さい軍都で、太平洋戦争の反攻が始まった頃にもかかわらず、極めて平和で静かな周囲の風景や人情風俗の中で少年通信兵の教育が行われたことは幸いであった。

 四月になれば深い雪も消えはじめ、周囲の山野は緑が日増しに濃くなり、芝生が出揃った広い練兵場に生徒の白い作業衣袴が目立ち、村松公園の桜も満開となり、四月二十九日の天長節の前後には護国神社の例大祭があり剣道の奉納試合があった。今や村松町は歩兵連隊の軍都から、少年通信生徒の若い声がこだまする陸軍少年生徒の学都となっていた。

前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/2/2 8:50
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 五.村松町の冬の生活  その1

 私が東京の陸軍少年通信兵学校から村松陸軍少年通信兵学校へ転勤した昭和十九年の新年は雪が多かった。十二月一日の入校式の写真には雪が無いので、その後に降ったものと思われる。新年になって雪が多かったと思うのは元来村松町は、否新潟県のあlの地方は毎年雪が多かったのかも知れない。

 宿舎から学校までは営所通りという街を約三粁徒歩で通勤する。将校服に外套を着、革の長靴であるから寒くは無いが、降り積った道路は歩き難いので、軒下の廊下の様に屋根の掛った土間を歩いた。殆ど軒並みに屋根が続いていた。

 校舎は二個中隊が一棟になっており、一階に通しの廊下があり、雪や雨の時は廊下伝いに他中隊又は将校集会所などにも行けた。
 雪の校庭は、生徒が体操、騎馬戦、棒倒しなどに絶好の場所だった。

 校地に続いて在る広い練兵場はスキー行軍の練習には適していたが、余り使うことは無かった。
 正月休みには同期の区隊長の懇親会を木村屋と言う料亭で行った。女性三人は芸者であるが、一年前の青森電四時代の様に島田に結った芸者らしい女で無く、普通の髪形の娘のような感じの女達だった。軍都とは言うものの料亭も二~三軒で芸者も数人しか居なかったのではなかったか。もっともこの頃が芸者の最後で、料亭は下宿屋となり、私と同中隊の瀬崎、小川の両区隊長もこの下宿屋にいた。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/2/3 6:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 五.村松町の冬の生活  その2

 私の第四中隊では、中隊長久保友雄大尉の提案により、将校と中隊事務室の下士官の約十名で月一回歌会を開くことになった。各一首を出し合って互選点数で賞を決めた。半年ぐらい続いただろうか。その歌集のガリ版刷りを戦後も持っていたが今はどこに蔵い忘れたか判らない。

 また、これも久保大尉の提案で将校の読書会を町の何処かで一夜開いた。青年将校十名ぐらい集まり久保大尉の「正気の歌」などの詩の解釈があった。いわば明治維新の勤王精神の鼓吹の感があった。これには高木正實校長も出席していたので、今にして考えると過激な思想に走ることを警戒しての出席ではなかったかと思う。

 久保大尉は東京出身で幼年学校から陸士五十一期出身の秀才で、その美男と姿の良さと併せて、後輩の陸士卒将校は一目置いていた。中隊長講話は哲学的な話で、生徒は勿論、将校下士官も難解でその意味が解らなかった。達筆で自らガリ版刷りの原稿を将校下士官に配布した。私はその原稿を戦後も持っていたが今は蔵い忘れている。

 戦後、彼は日本広告通信社を創立し、社長となり、私は上京して会ったりして尊敬していたが、数年前に亡くなった。私より二つだけ年上だった。昭和二十年四月に前橋市の予傭士官学校中隊長に転出(少佐)したのだが、健康を害しなければ陸大卒で参謀になる人物だったと後輩の陸士卒は言っていた。


 あれやこれや静かな村松町での一冬あったが、戦争はアメリカ軍の反攻が始まり長期戦が予想されたが、村松町は未だ平和な日本一小さい軍都だった。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/2/4 5:56
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 五.村松町の冬の生活  その3

 (注)

 渡部善男氏は、大正九年、山形県遊佐相生。山形県立鶴岡工業学校卒。
 昭和十六年一月、現役兵として青森電信第四連隊に入営。
 幹部候補生を経て十七年陸軍少尉。
 十八年六月、当時、東京東村山にあった陸軍少年通信兵学校十期生第二区隊長を命ぜられたが、同年十月、村松少通校の新設によって同校に赴任、以後、十一期の第四中隊第三区隊長、十三期第一中隊第三区隊長を歴任、十九年九月、陸軍中尉、二十年八月、復員(陸軍大尉)。


 勿論、以上は渡部氏自身が担当された区隊を中心とした思い出であり、現実には夫々の中隊や区隊によって相当の開きがあったと思いますが、しかし私は、全校的には、高木校長の「少年兵は純真であれ」の訓育方針が浸透し、「人を殴って教育するのは真の教育ではない」と私的制裁は固く禁じられ、陸軍生徒としての品性の陶冶に、より多くの時間が割かれるなど、其処は「厳しい軍規の中にも慈愛のある教育」が行われてーいたように感じています。
 
 また、私達生徒がお世話になった村松町の皆様も、軍都・村松の最後に少通校が来たのですから、恐らく幼い少年達が必死に訓練に励む姿に、それまでの軍隊に見られなかった「健気さ」を感じて下さったに違いなく、一方その頃は村松でも多くのご家庭に赤紙(召集令状)が届けられていましたから、戦地に送った我が子、我が夫を想う気持ちを少年兵に置き換えて余計温かく接して下さったのではないでしょうか。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/2/5 7:33
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 三、関係者から寄せられた村松の思い出

 ついては、現在、私共の許に、戦後に数々の思い出や思いを綴った文章が残されていますので、次に、それらの中から数点を選んでみました。また、小島さんの文章は、町の「松の実会便り」からの転載で、更に、私(大口)の家族からの手紙はこれらとは少し違って、ご遺族が亡きお子様やご兄弟を偲ぶ縁ともなれば、の思いで当時の会誌に載せたものです。


 追 憶

 十一期四中隊一区隊 石綿 光

 何年もの間、所在の知れなかった村松少通校時代の写真が発見された。数枚の、そして長い年月の経過を物語る色あせた写真を手に取り冥想すると二十二年前の中学生だった頃の思い出が次々と浮んで来た。

 不思議なものだ。両親に内緒で願書を提出し、入学試験は東京の青山会館で夏休み中に受けたのだった。
 合格通知が自宅に届いた時の両親の驚きは如何ばかりだったのか、父親からは勘当だとも言われ、母親は何も言わずに眼に一杯の涙で見つめていた。

 昭和十八年十一月下旬、若冠十六才の美少年は上司、先輩、友人の武運長久の祈りをこめた寄せ書きの日の丸を十文字に勇躍として郷里を後にした。一時は勘当とまで怒りを示した父も新潟まで同行してくれた有難さは忘れることのない感激である。
 村松陸軍少年通信兵学校四中隊一区隊の一人となった私の軍服姿に目を輝かせ安心したような嬉しそうな顔で家道についたのも忘れられません。終戦後に母より聞いた話では私の軍服姿や内務班の様子について自慢一杯に絶えなかったそうです。

 翌十九年には私達の村松少通校の前住者であった山崎部隊がアッツ島での玉砕があり、楽しみにした休暇が七月にあったのはご存じと思う。久しぶりの家族一同再会の思い出の写真も若かりし父母や弟達の幼ない顔が残されていた。二十一年前の思い出の一端です。
 次に両親との面会は昭和十九年十一月三日でした。約一ヶ年の教育期間が過ぎ繰上げ卒業へのご配慮からでした。軍服に身体を合わせよと言われた頃に比べていくらかでも軍人らしくなったとほめられました。両親と肩をならべて村松駅まで送って行ったのも思い出されます。

 今この文を書き綴る私の頭上から亡き父母の写真が笑いながらうなずいているようです。

  (昭和六十三年・かんとう少通)
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/2/6 9:16
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 少年兵の回想 その1
 村松十二期七中隊二区隊 山本 内良二

 「御国のために」 のひと言、ただそれだけで、なんの矛盾や、抵抗を感ずることもなく、少年兵を志願して、三十八年前の昭和十九年六月一日、遇然にも私の誕生日に、勇躍として、新潟県村松町に所在の、村松陸軍少年通信兵学校に入校、一年三ケ月、復員するまでの間、若人の情熱を燃やして勉学した当時のことが懐かしく想い出されます。

 私は、満十八歳になり年令の高い方で、旧制中学を中退してきた年令の低い者は、まだ十五歳位で、体格も小さく、私の目から見ても、甚だ失礼ながら「まだ子供のようだ」と感じたものでした。
 しかし入校すれば、十二期八百名の、「同期の桜」として、軍律厳しき中に、起居を共にして、通信修技に、電気磁気学に、軍事教練等と、日夜、苦楽を分ち合い、青春の一時期を、陸軍生徒として、少通校の体験をしたことは、私の人生にとって、誠に有意義なことであったと、感謝している次第です。

 通信兵は、電報の送受信をすることが主要任務であり、そのために、通信手段としての、モールス符号の記憶、修得が、必須の条件でありました。私は年令の高い方でもあり、純感でしたので、すべてに呑込みが悪く、入校当初、モールス符号を記憶するための苦労は、並み大抵のことではありませんでした。

 また、電鍵操作には、手首も固くなっていて、柔軟性に欠け、スムースにいきませんでしたが、スピードよりも、確実性に重点を置き、あせらず自分のペースで練習しましたので、幸いに「手崩れ」もおこさずに済み、幾多の辛酸をなめどうにか送受信の技を身につけました。苦労して覚えたものは、一度覚えてしまえば、なかなか忘れるものではありません。和文の送受信については、復員後に、逓信講習所に入り、再教育を受けた影響もあって、モールス符号はいつまでも記憶に残っていていまだに忘れてはいません。「雀百まで踊りを忘れず」の譬でしょうか。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/2/7 6:57
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 少年兵の回想 その2

 少通校に入校以来、夏は、日本海の関屋浜における遊泳演習、会津鶴ヶ城址および白虎隊自刃の地、飯盛山への訓育演習、秋は、白山々麓での薪取りや兎狩り、冬は、粉雪の舞う郡山での夜間通信演習、中隊対抗のスキ-競技、春は、泊りがけの野外通信演習等、過ぎし日の想い出は、走馬灯のように現われてきます。行軍の途中、地方人(営門外の人を指す軍隊用語)からの湯茶の接待や、民家へ宿泊させて戴いたことなど、楽しかったことのひとつとして記憶に残ります。私は同県人のよしみもあり、また、なによりもお年寄りの方々と、言葉がよく通じ合ったことが幸いしました。

 私の父は、終戦直後に亡くなりましたが、日露戦争の終了後に、現役で工兵隊に入隊、樺太の国境設定に従事したことがあり、軍隊の経験をいたしておりました。また兄は、戦時中に召集を受け、高田歩兵連隊に入隊していた時、面会に訪れていたことなどもあって、軍隊内部のことは、よく知っていたようです。その父が、私の在校中、一度だけ学校を訪れ面会に来てくれたことがあります。後日、私が、一斉休暇で帰省折、父が私に対して「あそこは、軍隊みたいでないぞ、村松(少通校のこと)は、いいなあー」と、しみじみと語っていた言葉が、今でも鮮やかに、耳の奥から建って来ます。「だから、しっかり奉公(勉強)しなさいよ」と、無言のうちに励ましてくれたものと理解して、父の言葉を有難く、感謝しながら、肝に銘じて、大雪の中を帰校いたしました。

 内務班は、全員が同期生であり、かつ私的制裁もなく、学校当局者、関係者が、生徒の訓育に、最大の配慮をされていた。その姿勢と、その雰囲気が、その儘、父の印象に残り、そう言わせたものと思われます。私もまた、父の、そのひと言の表現が、学校生活の全体であったと感じています。「感謝している」と、前述した所以もまた、ここにある訳です。

 先輩の十一期生は、昭和十九年十一月六日繰上げ卒業をされて、輸送船で、南方戦線に赴かれる途中、五島列島の沖合いで、敵の潜水艦の攻撃を受け、戦わずして、貴い生命を失われた痛恨事は、誠にお気の毒なことでありました。心から追悼の意を表わしますと共に、村松に合祀されています少通出身戦没者の、御霊の心安かれと御祈りいたします。
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/2/8 6:37
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 少年兵の回想 その3

 終戦日の直前、昭和二十年八月一日、長岡市が敵のB二九の大空襲を受け、多量の焼夷弾を投下されて大火災を起こし一面火の海となり、千四百六十名(東京新聞社調)の尊い生命が失われ、一夜にして市街地は焼失、一面焼野原となりました。残っているのは、一部のコンクリートの建物だけです。

 その後片付けの為に、私は地元出身者の理由で五日後、急遽選抜隊として長岡市に急行したのです。焼け跡はまだ燻っていて、煙の出ている個所もあり、死体の焦げたと思われる悪臭が漂い、真に悲惨な状況でした。

 聞けば、防空壕に逃げ込み避難の方法を誤り、一家全滅の悲運に見舞われた家族もあるとのことです。火災時は、阿鼻叫喚の修羅場と化し、地獄絵を見るような状態を現出したもの、と想像致します。

 誰もが言葉少なくただ黙々と作業活動に従事しました。親戚の柳原町や大工町の家も勿論のこと焼失しています。夜間外出許可をもらって、徒歩で飯島へ帰る途中、渋海川に架かるる永盛橋が焼失していて、河原を歩いてから、暗くてよく見えないので川に落ちないように注意して、即製の仮橋を渡って飯島の家に辿り着きました。案の定、叔母さんの家族三名、姉さんの家族三名が避難して来ており、大家族が一つ屋根の下に注み、食事も一度では済まないという大変な有様でした。

 やがて八月十五日、真夏の太陽が照りつける猛暑の日に終戦の放送を聞きました。
 「目標がなくなって、日本はこれから先どうなるのか」、「進駐軍が来たら、どの様な政策が行われるのか」、「軍歴者はどのように扱われるのか」。種々な憶測と危惧杞憂、落胆と空虚な感情が校内に蔓延して、明るい希望を見付け出すことは殆ど不可能な状態でした。

 それでも、復員するまでの十五日間は、粛々と兵器・通信機等の手入れと整理、暗号書類の焼却を済ませて八月三十一日、苦楽を共にした戦友と別れを惜しみつつ校門を出ました。一人になってみると、万感胸に迫るものがあり、なにか敗残兵になったような惨めな心境で家に帰り着いたのです。

 戦争は、多少にかかわらず、国民全体を巻き添えにして、人間に不孝を齎すと共に、相手国民を傷つける元凶であり、二度とあってはならないと痛感致します。
 世界の人々と共に、「戦争は人の心の中で生まれるのであるから、人の心の中に、平和の砦を築かなければならない」 (ユネスコ憲章) を守り、あくまで恒久平和を希求していきたいものと考えます。

         
  (昭和五十七年・かんとう少通)
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

  コウリャン飯と米の飯 その1

        十三期二中隊三区隊 北原 秀信

 農作業のオヤツなどに、亀田製菓という銘柄の袋をよく見かける。
 かなり大きな菓子の工場があるのだろうと思って、百科辞典をみたら米菓を主とする食品工業も盛んと書いてある。
 別に菓子の事を書こうと思っているのではないが、この亀田町という地名を見る度に、五十六年前の少年通信兵時代の或る貴重な記憶が蘇るのである。
 昭和二十年七月だったか、或いは八月に入ってたか暑いときだった。
 二中隊はこの亀田町国民学校へ三日間泊まり込んで通信演習をした。他の中隊が県内の何処かの学校へ行っていて、 其処と無線通信の呼び出しを演習したのだろう。「ヤマ、ヤマ、ヤマ、ホへ、カワ、カワ、カワ」 等と、電鍵を打ったのだろうが、実は、この時の演習の内容は全然記憶していないのである。
 ここで書こうとしている貴重な思い出とは、これから後のことである。

 三日間の演習が終わって帰校する日は、亀田から村松まで行軍することになっていた。午後二時出発して明朝未明に村松校に到着するという日程が通達され、昼食時飯盒一ばいの飯と中食一ばいの新香が配布された。
 これは、二食分であって昼飯に半分食べ、半分は夕食用として背嚢に装着して行くように、と指示された。
 勿論、入校以来お麟染みのコウリャン飯である。入校当時始めはすんなり喉を通る様な飯ではなかった。
 日をつむってやっと飲み込むと言った感じの物であった。

 しかし、よくしたもので食べ盛りの少年時代、数日を経ずして味にもなれて日々の訓練の激しさに、腹も減って良く噛めばそれなりに味も出て、美味いと思える様になって来た。
 そればかりか、今度は飯が足らないと感ずる様になって来た。
 本来、百姓の子。戦時中とはいえ、食べ物だけは食い放題いささか胃拡張気味の胃袋には、軍隊ソングじゃないけれど「トンツー、トンツーも上の空、一膳飯とは情けなや」 といった様な状態だった。
 そこへ、久方振りの大盛りの飯である。猫に鰹節と言うべきか何と言うべきか、目の前に現にある飯を半分残して蓋をするなんて事は、胃拡張の胃袋にはどうにも我慢出来ない残酷な事である。
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編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 コウリャン飯と米の飯 その2

 「えーツままよ!」と、後先も考えないで全部平らげてしまった。
 生来、俺には此のような悪ふざけと言うか、おっちょこちょいと言うか、軽率なところがある。その為にに小学校では始終先生に立たされたり叩かれたり。
 自己弁護しょうとする訳ではないが、その時、二食分の飯を全部平らげてしまったオツチョコチョイは俺ばかりではなく七、八人いたのである。
 この悪の同類同志、「満腹になって、荷が軽くなるなんてこんな合理的な事はない」 等と、強がりを言って調子づいていたのだった。

 午睡をしてから、午後二時頃亀田町を出発した。
 銃、背嚢、雑秦、水筒、巻脚絆、軍靴、清十四歳一ケ月の子供も自分が帝国陸軍の軍人である事を一番自覚する完全軍装である。
 とにかく暑い日であった、越後の暑さは信州と違ってて蒸し暑い様な気がする。亀田を発って数時間行軍の後、阿賀野川河畔で待望の大休止、まだまだ太陽はジリジリと真上、堤防の上で解散の号令と共に喜先にと涼を求めて堤防を駆け降り、河川敷の葦やぶの中に分け入った、ところがまだ十分も経たないと思われる時、堤防の上で集合ラッパ 「集まれー」の号令、一時間の大休止の筈なのに!まあ、どうであっても仕方ない。堤防の上に駆け上がって整列、遠山中隊長より 「ここは危険な処で休むには適当な処でないので、場所を変えて改めて大休止をする。もう少し頑張ってくれ」と言う様な説明があったが、これをさらに要約(ゲスの勘ぐりも加えて)すると、次のような事であるらしい。

 解散の号令で皆葦やぶの方へ行った時、堤防の上に残っていた幹部上官達の処へ、地元の農家の人かなんかが通って「兵隊さん達この場所で休まない方がよい、ここはツツガムシの生息地で、もし人がこれに刺されるとツツガムシ病になり、高熱がでて悪くすれば死に至る。最近も若い娘さんが亡くなったばかりです。ここは早く立ち去った方がよい」 と忠告してくれた。

 幹部の皆さんは吃驚して、急遽大休止の中止を決定されたのであろう。
 「行車中に若し体調が悪くなったら直ちに衛生兵に申し出るよう様に」 と念を押して言われたが、別に其のような被害者が出たとは聞かなかった。
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