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心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 13

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通常 心のふるさと・村松 元少通生らが寄せる村松への思い 13

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2014/2/3 6:46
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 五.村松町の冬の生活  その2

 私の第四中隊では、中隊長久保友雄大尉の提案により、将校と中隊事務室の下士官の約十名で月一回歌会を開くことになった。各一首を出し合って互選点数で賞を決めた。半年ぐらい続いただろうか。その歌集のガリ版刷りを戦後も持っていたが今はどこに蔵い忘れたか判らない。

 また、これも久保大尉の提案で将校の読書会を町の何処かで一夜開いた。青年将校十名ぐらい集まり久保大尉の「正気の歌」などの詩の解釈があった。いわば明治維新の勤王精神の鼓吹の感があった。これには高木正實校長も出席していたので、今にして考えると過激な思想に走ることを警戒しての出席ではなかったかと思う。

 久保大尉は東京出身で幼年学校から陸士五十一期出身の秀才で、その美男と姿の良さと併せて、後輩の陸士卒将校は一目置いていた。中隊長講話は哲学的な話で、生徒は勿論、将校下士官も難解でその意味が解らなかった。達筆で自らガリ版刷りの原稿を将校下士官に配布した。私はその原稿を戦後も持っていたが今は蔵い忘れている。

 戦後、彼は日本広告通信社を創立し、社長となり、私は上京して会ったりして尊敬していたが、数年前に亡くなった。私より二つだけ年上だった。昭和二十年四月に前橋市の予傭士官学校中隊長に転出(少佐)したのだが、健康を害しなければ陸大卒で参謀になる人物だったと後輩の陸士卒は言っていた。


 あれやこれや静かな村松町での一冬あったが、戦争はアメリカ軍の反攻が始まり長期戦が予想されたが、村松町は未だ平和な日本一小さい軍都だった。

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