自分誌 鵜川道子
- このフォーラムに新しいトピックを立てることはできません
- このフォーラムではゲスト投稿が禁止されています
投稿ツリー
- 自分誌 鵜川道子・11 (編集者, 2009/4/6 15:35)
- 自分誌 鵜川道子・12 (編集者, 2009/4/7 8:21)
- 自分誌 鵜川道子・13 (編集者, 2009/4/8 8:18)
- 自分誌 鵜川道子・14 (編集者, 2009/4/9 7:27)
- 自分誌 鵜川道子・15 (編集者, 2009/4/10 8:20)
- 自分誌 鵜川道子・16 (編集者, 2009/4/12 8:15)
- 自分誌 鵜川道子・17 (編集者, 2009/4/13 8:06)
- 自分誌 鵜川道子・18 (編集者, 2009/4/14 9:21)
- 自分誌 鵜川道子・19 (編集者, 2009/4/15 7:41)
- 自分誌 鵜川道子・20 (編集者, 2009/4/16 7:47)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
それから二年経た頃に教会の仲間になった昭と半年くらいの交際の末結婚する事になった。勿論叔母夫婦にも話して長野の実家から父母も呼んで牧師の了解により正月に婚約するとそのまま父母と長野の実家へ帰った。
四月に結婚の日取りまで決めてどうして遠い所へ離ればなれにさせられたのだろうか、あの時は自分の意思は全然なくて父母や叔父叔母の云うことを素直に聞く以外にはなかったのだろうかと不思議に思う。十七歳の春に父母の元を離れて五年間、これでもう親や兄弟の住む家で共に生活をする期間もないのかと思えば父母もたとえ四ヶ月でも手許(てもと)に置いて親らしいことをしたいと考えたのかも知れない。婚約者となった昭も何も云わず新宿駅迄見送りに来たがそのまま別れた。あの時は婚約の記念にと思ったのか時計と手袋をくれたのを覚えている。
そして四月二十七日の結婚式の一週間前迄はお互いが文通のみの交際であった。今思うと本当に不思議に思われて仕方がない。相手のことは殆んど何一つわからないと云ってもいいような交際期間だった。
実際昭の年令だって見かけは30才を越えているかと思われる位に私の目から見ると頼もしく写っていたのだが年を聞いて耳を疑ったほどであった。二十三歳になったばかりであったし兄弟姉妹八人の末子だと聞いて又びっくりする。そして親は父六十九才母七十歳と云い、その父や母が私に逢いたいから家に来るように云われた時は女の私が彼の家に先走って顔を出すことがいいことなのかと迷いとうとう婚約式の時、牧師と一緒に叔母の家を訪問した義母を見たのが初めてであった。父親は中風で歩くのもやっとで来られないと云っていた。
信州には父の妹で小学校教師をしている独身の叔母がいたが丁度結婚の話があって私よりも二日早い結婚式が決まり、父母はいろいろと心配している最中であったがとに角四月は東京での二つの結婚式に出席することが気がかりだったと思う。
私は未だ若かったので別に急ぐ必要はなかったのだが昭の親が高齢者のために私達を早く結婚させたいと思ったのかと今になって思う。昭和三十三年の春のことであった。叔母の家の裏庭に六帖一間の部屋に玄関と台所一帖とトイレのついた小さな家を建てて貸してくれた。叔母夫婦の気持ちを考えると父や母以上に私のことを思いこの結婚の幸せを願ってくれた気持ちが今更乍ら有難いものであったと思い起こすのである。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
結婚式の翌朝姑は私達の家を見に来た。新婚旅行にも行かずの第一日目の早朝の訪問にびっくりして飛び起き不意をつかれた私のうろたえた姿は筆舌には表わすことの出来ないものである。姑の目から見た私達の姿はきっと頼りない幼な子のように写ったであろうか、四月二十八日の出来事であった。
夫昭の四月分の月給までまだ日があるからと何がしかのお金と今まで使用していたと云う印鑑を私に預けて行ったのである。しかし印鑑は預ったものの一冊の通帳もなく一カ月分の食費を手渡されたのである。
兄姉達からのお祝いだと云って洋服ダンスとベビーダンスと飯台が用意されていた。私の親からはお祝いと云って弐萬円也を頂き下駄箱と鏡台そして台所用品等を買い揃えたのだった。ふとんは、使用していたものの綿を打ち返して用意したような気がする。ただこれだけの家庭用品が新しい小さな家の中に運びこまれて形だけは何とか生活が始められた。五月の末になり主人から初めての月給を生活費として受け取ったのだが、とても頼りない収入であることを実感した。口に出してはまだ云えず困惑した。しかし二、三ヶ月経っても充分生活して行くことには程遠い収入でだんだん不安がつのって来たのである。
昭は朝会社へ行く様な格好で家を出るのだが真直ぐに会社に出勤していないことが、会社からの電話によりだんだん分って来たのだ。思い余って理由を問い正してもなかなか真相が分らず給料日になるとその結果が否応なく出てくるのである。こうなっては私も家で内職などはしていられないと勤めに出ることを考えずには居られなくなった。何となくあせりのような気持ちになり近くの工場に働きに行ったり亀戸の化粧品会社の事務員として手伝いに行くことになったが、若い頃の高望みは一斉捨ててパートの様な勤務体形の会社ばかりに他ならなかった。私が一年半位働いている間に昭は大っぴらに会社を休んでは家で寝ていることが多くなっていった。
クリスチャンとして聖日には教会へ行き礼拝をし清く正ししい生活がお互いの基盤と考えていたが、結婚前の約束などいつしかくずれ去って行くのが何ともくやしい思いであった。神前で誓った永遠に幸せな夫婦生活を夢見ていたのに現実は全く逆の方向に走っている思いがつきまとう様な気がしてならなかった。それでも日曜日になると教会に足が向いて行き夫婦で同じ信仰の道に進みたいたいと夫には何度も誘ったのだが。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
丁度その頃、体の変調に気付きつわりが始まって日毎に強くなって二十四才になろうとする夏から秋にかけての出来事であったが私の気持ちの中では子供が生まれたら、昭もいつまでも自分が子供のような気持ちではいられなくなって仕事にも一生懸命になってくれるのではにかと思っていた。
しかし、それは私だけの考えだったのかと後悔する日日が多くなり何ともつらい気持で月が満ちて行った。はがゆく思い乍らも、少しでも経済的に切りつめた生活をと考えながらも勤めていた会社をさっさと止めて近所で見つけて来た内職をすることにした。生まれるその日迄内職をやっていた。作った製品を大きいビニール袋に入れて外に出し書き置きをして夕方産院に入院した。 昭和三十五年三月十五日、十六日の朝方春雷を聞きながらの出産であった。大望の女の子であった。退院した日、田舎の母が手伝いの為上京して来た。結婚式以来二年振りに母に逢ってつい近況報告をし乍ら不安な心境を話してしまった。
夫のことは何一つ知らずに婚約後は離れて暮らした四ヶ月余りが悔やまれていると気を許してしまい母に告げた。生まれて来た我が子を胸にして泣いた私の姿を見た母はどんな思いであっただろうか。母は娘の私がきっと幸せにやっているものとばかり思っていた気持ちを破ってしまったのだろう。母の気持ちを裏切った親不孝な娘だと又情けなくなって泣いていたようにも思う。
が今更夫の昭と別れるわけにもゆかないと云う気持ちはあった。教会で神と人に誓ってしまった私達の結婚であったからなのだ。どんなに苦しくても神は見捨てるようなことはないと信じていたから。娘は美智代と命名した、私にとっては出来過ぎた可愛い子であった。そんな可愛い子供の顔を見ても主人は抱いたりあやしたりすることもせず会社を休んではふらっと家を出て夕方には帰って来ると云う日々は以前と同じで収入は相変わらず最低生活を強いられ給料日まであと三日もあるのに財布の中には三百円しかなく調味料も買えないと云うことすらあった。
子供が出来たら他に家を見つけると云う条件であったので早速不動産屋を歩き日の当たらない部屋で六帖、共同炊事場、共同トイレと云うアパートをさがし当てた。とにかく家賃さえ安い所と云うのが私の第一条件であったから昼間でも電気をつけなければ家具も畳も見えない部屋である。昔引揚げて来た当時土蔵で暮らした事が思い出された。日光が当たらない部屋に住んだお陰で風邪ばかり引いていた。そんな部屋に何ヶ月か暮らしていたが向い側の住人が越して行ったのを機に北側に窓のある四帖半の部屋に換えて貰うことにした。
昭和三十五年の秋であった。三、四カ月住んで年が開け正月三日の夜中普段あまり夜泣きをしない長女が急に激しく泣いて目が覚めた。おむつを取り替え入口の方に歩いた時に突然倒れ込んだ。頭痛がしておかしいと気付いたのはレンタン中毒、酸欠だったと咄嗟に頭をかすめた。夫を起こし娘と三人で近くの病院へ走った。もう少し遅かったら一家三人心中と云う運命待っていたであろうと本当に思った。こんなことがあって狭い四帖半の部屋に住み続ける気持がなくなり又部屋さがしに歩いた。何しろ家賃の安い所ばかりを相変わらずさがし歩いた。赤ん坊をかかえてあまり収入の定まらない夫の働きと内職だけの僅かな収入で短期間に何度も引越しをするのはとてもつらいことだったがそんなことは云って居られない。毎日の生活費に事欠く状態となった。内職と部屋さがし、いつもいつも頭の中はそればかりを考えていた。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
或る時新小岩に向って歩いていると以前勤めていた同僚に出逢った。本当に短期間しか勤めていなかった人だったのにお互いに名前を覚えていてどちらからともなく挨拶を交わして近況報告のような会話があった。お互いに背中には女の子をおんぶしていたのだった。そして割合近い所に住んでいることが分った。
内職をしているが働きに行きたいと思っていると云う。家庭事情が分ってしまい、年令も同じと云うことが親密度が嫌が上にも深くなって行った。そして二人共内職ではなく子供連れで働きに行こうと云うことになったのだった。長女はもうすぐ一歳の誕生日を迎える頃だったが友人の子供はそれよりも半年前に一歳を過ぎて体も大きく丸々と太っていた。仕事中はおんぶして作業の途中でミルクを与えたりおむつの交換をするのである。母子共に辛い状態の中でわずかな報酬を頂くのである。お金の有難さは身にしみてわかるのであった。こんな苦しい時にお互いの悩みを話し合って来た友人は遠く西と東に別れても未だにずっと心の通い合う友となっているのである。
それから引っ越した所は同潤会通りの小学校に近い三軒長屋の真中の六畳間であった。右隣の住人は母親と女の子二人、左隣には七十代の母親と四十代の独身女性の二人暮しであった。トイレは右隣りにしかついてない。水道は三軒で一つの洗い場を交替で使用するものであった。一番つらいのが夜中でも隣家の台所の戸を開けて用足しに行くことであった。
長女が一歳八ヶ月になった頃、長男が誕生した。雨漏りがしないだけがとり柄の家であった。南に高い窓が一つあるが太陽の光も満足に入らない、そして北側に入口があるのだった。春になって暖かくなると家の柱や板が古いためその中から虫が出て来る。雨が降ると入口に水が溜まる。二段に別れている台の上の方には食器を伏せて置くざると下の台には石油コンロが置かれていたが、今考えてもよくあんな所でと思う。
叔母の家の近くだった為に洋裁のまとめを内職としてさせて貰うことになり夜は電燈を風呂敷で囲って洋服の袖ぐりのまつりボタン付けなどをして朝には出来上がったものを届けるのであった。
こんな生活が続いていたが昭はよく会社を休んでは家に居ることが多く私の心もおだやかではない毎日であった。家の無いのがこんなにつらく悲しい思いをしなくてはならないのかと思い都営住宅の申し込みを年に二回づつは必ず行っていた。早く人間らしい生活がしたいとの願いは年と共にふくらんで行きその願いがやっと叶う時が来た。かかさず申し込みをして五年間、ようやく篠崎に四階建ての鉄筋アパートに入居許可を得た。長女も長男も三歳と一歳になって保育園へ入所させ、私は保険外交員として働くようになっていた。主人昭と私の収入を合わせても民生住宅に入居出来る資格があった。 この時ばかりは地獄から天国に移り住んだ心地であった。新しい保育園も団地内に出来上り二人の子供も以前とは送り迎えが楽になりいよいよ保険の外交と集金に力を入れて仕事が出来るようになっていたが主人は住み心地のいい四階の部屋でテレビを見たり本ばかり読み会社が不満だと云って止めてしまったのである。どうしてこんなことでと私から見れば本当に頼りにならなない夫の行動には理解できぬ日々もあった。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
何はともあれ新しい都営住宅は六帖と四帖半の畳の他に四帖半くらいの台所つきである。トイレも水洗トイレである。もう云う事なしの住宅がやっと自分達の生活の場になったと思えたのであるが果たして昭はどう思ったのだろうか? 結婚して間もなくから仕事として充分に働いてくれたことは無かった。
子供が二人も出来たと云うのに生活に意欲が感じられず、私の目から見ると子供の為にも別れた方がいいのではと考えたこともあった。そして時にはこの不満がどうにもならないことも幾度となくあったが最初の縁は教会で知り合って結婚した、神の前で誓い合ったと云うことにいつも苦しめられている様であった。
そしてこれが神から与えれた私への試練だったのかと考える毎日であったのかと考える毎日であったように思われた。私は夫の心の中をのぞいてみたいと思い悩む日々であったが末っ子で親や兄弟達に甘えて育った生活の延長が結婚生活の上に現れていると思えば私が頑張って仕事をして行く以外にないのだと考える様になってしまったのかも知れない。
生活は現実的であり内職から務めに切り替え二人の子供達は早いうちから独立心の旺盛な性格となり私にとってあまり心配させられるようなことはなかったように思う。
長男は四年生になるとすぐ新聞配達をやりたいと云い真面目に仕事をする様になった。 長女が中学生になった頃、私も保険の仕事で、知人からいい方法を教えるから家を建てる気はないかと云われ都営住宅はあまりにも狭く感じる様になっていたので夢が叶えられるならばと習志野に土地を見に行って主人にも相談をしたのだが家など必要ないと云う返事が帰ってきた。それならば主人を頼ることは一切なく仕事に精を出して頑張る以外に道はないとあきらめ知人の教えてくれた方法を確実に実行してみようと考えはじめることにした。
保険会社のノルマに苦しみ乍ら十年目にして子供達の将来のことを考え公務員として勤められないかと考える様になり区役所に履歴書を提出し試験を受ける事にしたのである。この時も保険の仕事をしていた頃の知人により勧められたのだった。面接の時にヘルパーと云う職種のあることを初めて知ったのだったが、高齢者の身の廻りのお世話をしてみる気はありますか?と開口一番の問にすぐ返事が出来たのは本当に良かったと思った。それは姑がいつも私のよき話し相手をしてくれていたお蔭であったように思う。老人と話している時は何となく気持ちが落ち付くのである。 孫二人を姑に逢わせに行くのが近くに住んでいたせいもあって非常に喜んでくれたからである。しかし孫を見せて喜ばせるだけでなく昭の話になると大変悲しませる事の方が多かったかも知れない。しかし私にとっては実の母以上に心の寄り所のように思っていたのである。区役所(江戸川)に入所して老人援護係に籍をおき昭和四十八年六月よりヘルパーとして先輩方について家庭訪問をする様になった。
新人研修は年に何十時間と云う決まりがあって時々老人ホーム等の実習があったが慣れないながらも楽しいこともありノルマに追われていた頃の大変な仕事を経験して来た私にとってそんなに辛い仕事ではないし喜んでくれる相手の顔がすぐに見られるのはどんな仕事にも勝っているように思えて楽しい日々を送っていた。その年、長女は中学生長男は小学五年生になっていた。
秋には契約していた家が九月の終り頃に完成し十月に習志野へ引越したのだった。都営住宅に入っていたので都の方から二百七十万円の借金をしたが自分の給料に見合うローンを組み土地は建築会社より借金したが割合順調な返済方法で滑り出しはよかったと今までの苦労に対しても感謝の思いであった。
しかし翌年の八月になって五年前にわかっていた筋腫の手術で入院、その入院中に主人が自分から会社を止めて来たと枕元で云われたのである。
全くわけのわからない行動に云い様のない怒りと不安を覚えた。何でこんな時に!と手術の後の身動きならない痛みと精神的な苦痛を味あわされたと云う思いが大きく、自律神経が狂ってしまい夜も眠れず、昼間はうつらうつらすると恐ろしい夢を見るかと思えば空中を鳥のように飛んで見知らぬ土地や山に登ると云う経験をすることが何日かあり、予定の退院日が一週間も遅れてしまった。昭はそれ以後何ヶ月か失業保険を貰って生活の足しにするような生活であった。時々職安に行くがなかなか思うような仕事もなく家で本を読んだりテレビを見たりする毎日が続いていた。江戸川に住んでいた頃と違い今迄の勤務先が遠くなったことでやはり無理だったのかと思ってあきらめたのではないかと考えたりもしたが家に毎日居ても私の留守の間に何もする気にもなれずに夫昭にとっては洗濯機も掃除機も何の役にもたたないのであった。
今まで働くの大嫌いな人だったので今更頼んでまで家事を手伝って貰う気持ちはなかった。失業保険を受給している間も割合のん気にしている様に見受けられたが、本人にしたら九ヶ月と云う時間の流れは次第に身の置き所がない程に窮地に追いつめられていったのかも知れない。
子供が二人も出来たと云うのに生活に意欲が感じられず、私の目から見ると子供の為にも別れた方がいいのではと考えたこともあった。そして時にはこの不満がどうにもならないことも幾度となくあったが最初の縁は教会で知り合って結婚した、神の前で誓い合ったと云うことにいつも苦しめられている様であった。
そしてこれが神から与えれた私への試練だったのかと考える毎日であったのかと考える毎日であったように思われた。私は夫の心の中をのぞいてみたいと思い悩む日々であったが末っ子で親や兄弟達に甘えて育った生活の延長が結婚生活の上に現れていると思えば私が頑張って仕事をして行く以外にないのだと考える様になってしまったのかも知れない。
生活は現実的であり内職から務めに切り替え二人の子供達は早いうちから独立心の旺盛な性格となり私にとってあまり心配させられるようなことはなかったように思う。
長男は四年生になるとすぐ新聞配達をやりたいと云い真面目に仕事をする様になった。 長女が中学生になった頃、私も保険の仕事で、知人からいい方法を教えるから家を建てる気はないかと云われ都営住宅はあまりにも狭く感じる様になっていたので夢が叶えられるならばと習志野に土地を見に行って主人にも相談をしたのだが家など必要ないと云う返事が帰ってきた。それならば主人を頼ることは一切なく仕事に精を出して頑張る以外に道はないとあきらめ知人の教えてくれた方法を確実に実行してみようと考えはじめることにした。
保険会社のノルマに苦しみ乍ら十年目にして子供達の将来のことを考え公務員として勤められないかと考える様になり区役所に履歴書を提出し試験を受ける事にしたのである。この時も保険の仕事をしていた頃の知人により勧められたのだった。面接の時にヘルパーと云う職種のあることを初めて知ったのだったが、高齢者の身の廻りのお世話をしてみる気はありますか?と開口一番の問にすぐ返事が出来たのは本当に良かったと思った。それは姑がいつも私のよき話し相手をしてくれていたお蔭であったように思う。老人と話している時は何となく気持ちが落ち付くのである。 孫二人を姑に逢わせに行くのが近くに住んでいたせいもあって非常に喜んでくれたからである。しかし孫を見せて喜ばせるだけでなく昭の話になると大変悲しませる事の方が多かったかも知れない。しかし私にとっては実の母以上に心の寄り所のように思っていたのである。区役所(江戸川)に入所して老人援護係に籍をおき昭和四十八年六月よりヘルパーとして先輩方について家庭訪問をする様になった。
新人研修は年に何十時間と云う決まりがあって時々老人ホーム等の実習があったが慣れないながらも楽しいこともありノルマに追われていた頃の大変な仕事を経験して来た私にとってそんなに辛い仕事ではないし喜んでくれる相手の顔がすぐに見られるのはどんな仕事にも勝っているように思えて楽しい日々を送っていた。その年、長女は中学生長男は小学五年生になっていた。
秋には契約していた家が九月の終り頃に完成し十月に習志野へ引越したのだった。都営住宅に入っていたので都の方から二百七十万円の借金をしたが自分の給料に見合うローンを組み土地は建築会社より借金したが割合順調な返済方法で滑り出しはよかったと今までの苦労に対しても感謝の思いであった。
しかし翌年の八月になって五年前にわかっていた筋腫の手術で入院、その入院中に主人が自分から会社を止めて来たと枕元で云われたのである。
全くわけのわからない行動に云い様のない怒りと不安を覚えた。何でこんな時に!と手術の後の身動きならない痛みと精神的な苦痛を味あわされたと云う思いが大きく、自律神経が狂ってしまい夜も眠れず、昼間はうつらうつらすると恐ろしい夢を見るかと思えば空中を鳥のように飛んで見知らぬ土地や山に登ると云う経験をすることが何日かあり、予定の退院日が一週間も遅れてしまった。昭はそれ以後何ヶ月か失業保険を貰って生活の足しにするような生活であった。時々職安に行くがなかなか思うような仕事もなく家で本を読んだりテレビを見たりする毎日が続いていた。江戸川に住んでいた頃と違い今迄の勤務先が遠くなったことでやはり無理だったのかと思ってあきらめたのではないかと考えたりもしたが家に毎日居ても私の留守の間に何もする気にもなれずに夫昭にとっては洗濯機も掃除機も何の役にもたたないのであった。
今まで働くの大嫌いな人だったので今更頼んでまで家事を手伝って貰う気持ちはなかった。失業保険を受給している間も割合のん気にしている様に見受けられたが、本人にしたら九ヶ月と云う時間の流れは次第に身の置き所がない程に窮地に追いつめられていったのかも知れない。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
私は身体も順調に快方に向ったのでヘルパーの仕事に復帰することが出来た。新しい家に移り住んで初めての試練を経験したのであったが翌年の五月頃のある日仕事を終えて自宅の玄関を開けるとガスの臭いが異様に鼻をつき台所へ行って見ると元栓からホースをつないで応接間へと延びている、急いで引き戸を開けようとしたが動かない。元栓をしめて裏の家に助けを求めた。何と云うことだろう。テーブルの上には酒と睡眠薬のビンが転がっていて殆んど飲みつくした形跡があり、ソファーの上で横たわっている夫の姿に少々やり切れない憤りを感じながら救急車の要請をしたのだった。
近くの病院に運ばれて行く夫の傍で付添い乍ら私は今思い返しても恐ろしい底無し沼に足を引っぱられて行くような思いでどう表現したらよいのかわからない。医師も看護婦も一生懸命甦生処置を施した後、どうしてこんなことをするに至ったのかと問われた。長女が中二、長男は小六の頃のできごとであった。この子供達に影響があるのではないかと心配であったが子供たちは普段の生活が荒れる様子もなく学校生活も特別支障がなかったことで私も胸をなでおろした。
三ヶ月くらいで何とか退院したものの家にとじ込もっているのは良くないと思ったのか年老いた姑が兄の所で働いてはどうかと話しをしてくれたのでプレス工場に2,3日行ってみたものの満足な製品が作れず仕事にならないと断られたのだった。
薬を飲み乍らの労働であったことが原因のようである。電車の中で座るとつい、うとうとして目的地を通り過ぎて何度も行ったり来たりして自分でも困っている様子だったのでその後は家で養生をする様にと二、三ケ月は家に居たが、私としては仕事を休むわけにはゆかず心配ではあったが自分の仕事に日中は没頭することが出来た。
夫は以前から家の中で何もしないで本を読んだりテレビを見ている生活が多かったので、あまり、あてににせずそっと静かにしておこうと云う心境になっていた。
末っ子で育てられた昭は姑や姉達から何もしないたゞ与えられる愛だけを受け乍ら苦労もなく人生を歩んで来た結果だと聞かされたが本人としては別に苦労する必要もなく少年時代を過して来た延長線上に結婚をしてしまったのかも知れないと思った。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
少しづヽ体も気持ちも元に戻ってゆくにしたがいどこか働きに行きたいと思う気持ちが出て来た。
新聞の折込に入って来た募集を見て、食品会社に応募し運よく採用された。食品会社と云うこともあって調理師の免許を取るようにとすヽめたところその気持ちになって調理師学校に通い始めた。会社の帰りに学校で授業を受けて帰宅するのである。そして一年半思えばあの頃が主人昭にとっては今迄にない新鮮な気持ちであったにちがいない。
そして途中で止めるようなこともなく調理師の免許を自分のものにすることが出来たので本人も何となく希望を見出すことが可能になったのではないかと妻としてはホッとしたところであった。
しかしそんな気持ちで過したのも束の間、仕事場ではようやく慣れた自分の居場所を配置転換されたと大変な落ち込み様であった。どうしてこんな気持ちになってしまうのだろうか?職場の中のトラブルを非常に気にしてその為に配置転換をさせられたのだと思い込む様な言葉を洩らすこともあった。
丁度三年勤務したのだからどこの会社でもその位のことはある筈だと言っても昭は納得出来ず再び会社に行こうと云う気力が無くなっていた。
体は人一倍大きくても気持ちの小さい主人昭にはとても悩まされ続けて来た私は無理矢理出勤を促す事も出来ず、子供はそれぞれ学校に出かけた後私はいつも通り仕事に出かけるしかなかった。
私の仕事は区役所のヘルパーで幸い外仕事で一日一日が変化のある仕事なので家に帰る迄は主人のことも忘れて一生懸命他人の生活を援助させて頂いていたのである。
そして長女はその頃短大に受験して幸い希望校に入学出来て非常に喜んでいたし、長男は高校二年となっていた。幼い頃からあまり私には心配をかけることもなく自分で進路を決めてアルバイトをし乍らでも着実に夢に向かって頑張っていたので、私を支えてくれるに充分な子供達であったのだ。
昭和五十三年の十二月の初め勤務を終って帰宅し鍵を開けた途端、何と云うことであろうか・・三年前の昭和五十年の魔の一瞬が又、やって来たのだ。
ガスの臭いが鼻をついた。三年前のこと、まだ忘れていなかったので夢中で救急車を呼び近くまで救急車を迎えに行きそっと自宅に来て欲しいとお願いした。一度ならず二度迄もこんなことをしてくれる主人の気持ちがわからず、それでも見殺しにするわけにもいかないので近くの救急病院に入院させた。
医師も看護婦も三年前のことをよく覚えていたようで「奥さん苦労しますね!この人はよほどあの世に行きたいのでしょう」と口々に云って「今度はきっと御本人の希望通りになるかも知れませんから奥さんも覚悟していた方がいいかも知れませんよ」とつけ加えて云った。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
近所の人にも親戚の人達にも絶体に打ち明けられないと思う反面、誰かにこの気持ち分かって欲しいと何度も思った。そしてこれから先のことを考えた。
習志野に思い切って家を建て三年目にして<第>一回目の自殺未遂そして六年目二回目の自殺未遂をする夫、どんなにつらい事があっても子供を一人前に育てること、マイホームを自分のものにしてゆかなければならないと、主人は何もかも放棄し楽になることだけ考えて全部この私に押しつけたのかとも思えた。
主人は三日三晩目を覚さず眠り続けた。本当に今度は駄目になってしまうのか?と思って半ば医師の言った言葉が現実になってしまうのだろうかと考えていた頃昭は目をあけた。
何と云ったらいいのか言葉もなく涙も出てはこなかったように記憶している それから二、三日して別の病院(精神科)に転医し医師には今迄のことを話す時間もなく書面で詳細を書き記してお願いをしたのであった。
私の覚悟はしっかり出来ていたので長々とした手紙を書き連ね、今後のこと一切おまかせしたのだった。
昭の母は 九十才になっていた。今迄どのくらい息子のことで悩み続けて来たことだろう。
姑は年取って十人目の末っ子として生み育てた昭のことを、自分の育て方が間違っていた為にあなたに随分苦労をさせてしまったと逢う度に詫びていた義母の気持ちを考えると結婚して二十年に見切りをつける勇気もなく来てしまったようにも思われた。
病院には毎月入院費の支払いをする為に仕事の帰りに立ち寄っていたが主人に逢うことはしなかった。支払いを終って病院の帰り道自然と涙がこぼれこんな夫婦は他にはいないのではないだろうか?と自問自答を繰り返していた。
でも誰に何と云われてもいい。「自分の道は自分で歩いて行く」と決意を新たにし帰路についたのである、義母は九十一の誕生日に倒れて入院してしまった。
昭和五十五年一月三日のことであった、私の父もこの年の二月二十五日長野の実家で入浴中帰らぬ人となった。体の弱い母を残して本当に心残りであったと思う。義母は二度ほど入院先の病院を変えたが同じ江戸川区の中であったので昼の休み時間帶に天気さえよければ義母を見舞うのが楽しみのようになった。
ヘルパーの仕事をしていたこともあってか老人が好きだと云う気持ちが強く働いていたようだ。
義母は逢えば「昭は?」と言い乍ら私に詫びる、そして私は嫁の立場で安心して最後を見届けて上げたいとそればかりを思うようになり「お母さん昭のことは何んにも心配しないで!私が最後までみますから」と約束をしてしまった。
こんな言葉を交わした次の日義母はすっかり安心したのか昭和五十五年五月十二日幽界に旅立たれたのだ。
義姉達は義母が口に出して云わなかったが誰かに逢いたい様だった、きっと昭のことだったんじゃないか知ら」と云われた時、私も「あゝやっぱり」と思った。末っ子の我が子の行く末を案じていたのだが、私の「最後まで看るから安心してね」の言葉に今迄心配していた心が救われたのだと確心した。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
母が元気がなく膝が痛くて歩行困難であることを知った。弟も義妹も勤めの為日中家に居ない上二人の孫達も学校に行って留守。
今まで弱い体で父に頼って生きて来た母は仏段の前で涙ばかり拭っていると聞き、これは大変なことになっていると感じた。母は若い頃から心臓病(心筋梗塞)の発作を起したり喘息持ちで夜中に激しく咳込む姿を見て中学の頃母が居なくなったらと想像し不安な気持ちで毎日を送った頃があった。
その母が六十才を過ぎる頃から高血圧になり二八〇と言う数値に近所の医師もびっくりしたと云っていた。一時は信州大学の病院に入院した事もあって父が母の介護をしていた頃もあった。 その父に先立たれ母にとっては真に夜道の杖をもぎ取られた様なものであったと想像する。
そして半年間、父の新盆を迎えた母のその姿を見た瞬間、私は母を千葉の地に連れて帰りたいと云う衝動にかられた。夫の昭は入院中であり相談することもないと思う気持ちと共に自分の現在のヘルパーと云う職業柄他人のお年寄りのお世話をしているのに自分のたった一人になって悲しんでいる母をこのまゝにしておくわけにいかないと云う気持ちが止めようもなく湧き上がって来るのを感じた。
母の気持ちを確かめ弟を説得しなければならないので十日間の猶予期間を母に伝え自分の荷物をまとめて待っていて欲しいと話し合った、昭和五十五年八月二十五日は私の四十四才の誕生日でもあった。早朝出かけてその日のうちに母を連れて習志野に帰る予定であった。
母の気持ちは充分確かめてあってので何も云うことはなかったのだが弟の猛烈な反対にあうとは考えてもみなかった。私はこの際は母の気持ちを<第>一に考欲しいと云って譲らなかった。十日間と云う余裕があったのに母は弟に相談もせず自分の考えで一途に千葉行きを決めていたのかも知れなかった。弟の言い分もわからないわけではなかったのだが、母が帰りたい時いつでも信州に帰ればいいからと半ば強引に母を連れ出すことを実行したのだった。
かゝりつけの医師より薬も多めに貰い用意していた母は以前から父と一緒に我が家に時々来ていたのであまり心配する様子もなくお互いに話し相手となり又、浦安に住む次男の弟や稲毛のマンション住いをしていた妹の家に行ったりして孫の成長を楽しむようになった。
出来るだけ母が行き度いと云う気持ちがあれば弟や妹達の家に連れて行くのが私の役目かな?などと思うこともあった。信州の弟からは早く帰って来るようにと私の留守中にも何度か電話があったと聞いたが「お母さんが帰りたい気持ちがあればいつでも帰ればいいけど、ここがいいと思えばお母さんの気持ち次第だよ」といつも同じ考えでいられたことは実は二人が、崇教真光と云う神様を信じつゝ生活をしていたお蔭であった。
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
母の体は自他共に病気の問屋と云われる様な体であったが毎日、毎朝、毎夜お互いに神様の御力を信じ真光業(わざ:ルビ)を施受光するうちに心臓病の発作も、ひどかった咳息の発作もなく便秘の苦しみからは開放され毎日血圧計で計っていた高血圧も正常値となり、うその様に体調が好転して行く姿はお互い感謝と感激に満たされ毎日の会話は喜びに満ち溢れていたのであった。
母も自分の体調のあまりの変化に自分から進んで研修を受講することを希望して上野道場で熱心に勉強することを試みた。母七十二才の夏であった。夫昭は私にとって頼りにならない存在になってしまった。二人の子供達にとっても父親の居ない家庭に祖母と同居することが何となくプラスになると考えられる様になって、母は夜の僅かな時間ではあったが、私達の生活にも心のゆとりを感じさせてくれる存在になっていたのである。
昭和五十五年娘も崇教真光に入信、高校を卒業して希望した東洋英和短期大学にも入学したのだった。翌年二月には父の一周忌があり弟からその旨の通知を受けたので、母と共に長野に行くことになっていた。母は寒い信州に行きたくないと駄々をこねていたのだが父の一周忌に母が居ないと云うことは許されることではないと話し合った。
親戚一同が集まる法要を無事終えて又千葉の地に母を連れて帰宅することが出来たのである 父が亡くなって丁度一年経って母の姿を見た親戚は口々に母が元気になったと云ってくれたので私は本当に嬉しくなって千葉での母との生活が間違っていなかったと確信を持ったのだった。
信州からの帰りに弟から小犬を貰って来た、母の為にも家に可愛い小犬を飼うことが心の慰めにもなるだろうと考えたのである四匹生まれた小犬が一匹残っているからと弟も気持ちを察してくれたのだと感謝して貰って来たのだった。
仕事の為に留守にしがちな我が家の雰囲気も犬一匹でがらりと変わったようににぎやかになりなくてはならない家族の一員となった。犬の成長は早くてひつじの子供のような顔をしていた小犬も半年も経つとスピッツのように真白な毛のフサーとした成犬となった。
母も一日がとても楽しく心のいやしとなっていたようであった。母が我が家の一員となりその上可愛い子犬と一緒の生活が二人の子供達も気持ちはいつもおだやかで、主人の居ない我が家であっても幸せ一杯の生活に変化して行くのがわかった。母とは毎日が感謝と喜びに溢れた生活であった。このように親子が同じ信仰に生きていることで、時々母と一緒に月始祭や月並祭そして元霊魂座に行き同じ神向仲間と交流を持つことも出来て母にとっても唯一の魂の寄り所となっているようだった。そして弟や妹も割合近い所に住んでいたことで大きい安心感があったようである。