自分誌 鵜川道子・18
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編集者
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近所の人にも親戚の人達にも絶体に打ち明けられないと思う反面、誰かにこの気持ち分かって欲しいと何度も思った。そしてこれから先のことを考えた。
習志野に思い切って家を建て三年目にして<第>一回目の自殺未遂そして六年目二回目の自殺未遂をする夫、どんなにつらい事があっても子供を一人前に育てること、マイホームを自分のものにしてゆかなければならないと、主人は何もかも放棄し楽になることだけ考えて全部この私に押しつけたのかとも思えた。
主人は三日三晩目を覚さず眠り続けた。本当に今度は駄目になってしまうのか?と思って半ば医師の言った言葉が現実になってしまうのだろうかと考えていた頃昭は目をあけた。
何と云ったらいいのか言葉もなく涙も出てはこなかったように記憶している それから二、三日して別の病院(精神科)に転医し医師には今迄のことを話す時間もなく書面で詳細を書き記してお願いをしたのであった。
私の覚悟はしっかり出来ていたので長々とした手紙を書き連ね、今後のこと一切おまかせしたのだった。
昭の母は 九十才になっていた。今迄どのくらい息子のことで悩み続けて来たことだろう。
姑は年取って十人目の末っ子として生み育てた昭のことを、自分の育て方が間違っていた為にあなたに随分苦労をさせてしまったと逢う度に詫びていた義母の気持ちを考えると結婚して二十年に見切りをつける勇気もなく来てしまったようにも思われた。
病院には毎月入院費の支払いをする為に仕事の帰りに立ち寄っていたが主人に逢うことはしなかった。支払いを終って病院の帰り道自然と涙がこぼれこんな夫婦は他にはいないのではないだろうか?と自問自答を繰り返していた。
でも誰に何と云われてもいい。「自分の道は自分で歩いて行く」と決意を新たにし帰路についたのである、義母は九十一の誕生日に倒れて入院してしまった。
昭和五十五年一月三日のことであった、私の父もこの年の二月二十五日長野の実家で入浴中帰らぬ人となった。体の弱い母を残して本当に心残りであったと思う。義母は二度ほど入院先の病院を変えたが同じ江戸川区の中であったので昼の休み時間帶に天気さえよければ義母を見舞うのが楽しみのようになった。
ヘルパーの仕事をしていたこともあってか老人が好きだと云う気持ちが強く働いていたようだ。
義母は逢えば「昭は?」と言い乍ら私に詫びる、そして私は嫁の立場で安心して最後を見届けて上げたいとそればかりを思うようになり「お母さん昭のことは何んにも心配しないで!私が最後までみますから」と約束をしてしまった。
こんな言葉を交わした次の日義母はすっかり安心したのか昭和五十五年五月十二日幽界に旅立たれたのだ。
義姉達は義母が口に出して云わなかったが誰かに逢いたい様だった、きっと昭のことだったんじゃないか知ら」と云われた時、私も「あゝやっぱり」と思った。末っ子の我が子の行く末を案じていたのだが、私の「最後まで看るから安心してね」の言葉に今迄心配していた心が救われたのだと確心した。