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自分誌 鵜川道子・15

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通常 自分誌 鵜川道子・15

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2009/4/10 8:20
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 何はともあれ新しい都営住宅は六帖と四帖半の畳の他に四帖半くらいの台所つきである。トイレも水洗トイレである。もう云う事なしの住宅がやっと自分達の生活の場になったと思えたのであるが果たして昭はどう思ったのだろうか? 結婚して間もなくから仕事として充分に働いてくれたことは無かった。
 子供が二人も出来たと云うのに生活に意欲が感じられず、私の目から見ると子供の為にも別れた方がいいのではと考えたこともあった。そして時にはこの不満がどうにもならないことも幾度となくあったが最初の縁は教会で知り合って結婚した、神の前で誓い合ったと云うことにいつも苦しめられている様であった。 
 そしてこれが神から与えれた私への試練だったのかと考える毎日であったのかと考える毎日であったように思われた。私は夫の心の中をのぞいてみたいと思い悩む日々であったが末っ子で親や兄弟達に甘えて育った生活の延長が結婚生活の上に現れていると思えば私が頑張って仕事をして行く以外にないのだと考える様になってしまったのかも知れない。
 生活は現実的であり内職から務めに切り替え二人の子供達は早いうちから独立心の旺盛な性格となり私にとってあまり心配させられるようなことはなかったように思う。
 長男は四年生になるとすぐ新聞配達をやりたいと云い真面目に仕事をする様になった。 長女が中学生になった頃、私も保険の仕事で、知人からいい方法を教えるから家を建てる気はないかと云われ都営住宅はあまりにも狭く感じる様になっていたので夢が叶えられるならばと習志野に土地を見に行って主人にも相談をしたのだが家など必要ないと云う返事が帰ってきた。それならば主人を頼ることは一切なく仕事に精を出して頑張る以外に道はないとあきらめ知人の教えてくれた方法を確実に実行してみようと考えはじめることにした。 
 保険会社のノルマに苦しみ乍ら十年目にして子供達の将来のことを考え公務員として勤められないかと考える様になり区役所に履歴書を提出し試験を受ける事にしたのである。この時も保険の仕事をしていた頃の知人により勧められたのだった。面接の時にヘルパーと云う職種のあることを初めて知ったのだったが、高齢者の身の廻りのお世話をしてみる気はありますか?と開口一番の問にすぐ返事が出来たのは本当に良かったと思った。それは姑がいつも私のよき話し相手をしてくれていたお蔭であったように思う。老人と話している時は何となく気持ちが落ち付くのである。 孫二人を姑に逢わせに行くのが近くに住んでいたせいもあって非常に喜んでくれたからである。しかし孫を見せて喜ばせるだけでなく昭の話になると大変悲しませる事の方が多かったかも知れない。しかし私にとっては実の母以上に心の寄り所のように思っていたのである。区役所(江戸川)に入所して老人援護係に籍をおき昭和四十八年六月よりヘルパーとして先輩方について家庭訪問をする様になった。
 新人研修は年に何十時間と云う決まりがあって時々老人ホーム等の実習があったが慣れないながらも楽しいこともありノルマに追われていた頃の大変な仕事を経験して来た私にとってそんなに辛い仕事ではないし喜んでくれる相手の顔がすぐに見られるのはどんな仕事にも勝っているように思えて楽しい日々を送っていた。その年、長女は中学生長男は小学五年生になっていた。
 秋には契約していた家が九月の終り頃に完成し十月に習志野へ引越したのだった。都営住宅に入っていたので都の方から二百七十万円の借金をしたが自分の給料に見合うローンを組み土地は建築会社より借金したが割合順調な返済方法で滑り出しはよかったと今までの苦労に対しても感謝の思いであった。
 しかし翌年の八月になって五年前にわかっていた筋腫の手術で入院、その入院中に主人が自分から会社を止めて来たと枕元で云われたのである。 
 全くわけのわからない行動に云い様のない怒りと不安を覚えた。何でこんな時に!と手術の後の身動きならない痛みと精神的な苦痛を味あわされたと云う思いが大きく、自律神経が狂ってしまい夜も眠れず、昼間はうつらうつらすると恐ろしい夢を見るかと思えば空中を鳥のように飛んで見知らぬ土地や山に登ると云う経験をすることが何日かあり、予定の退院日が一週間も遅れてしまった。昭はそれ以後何ヶ月か失業保険を貰って生活の足しにするような生活であった。時々職安に行くがなかなか思うような仕事もなく家で本を読んだりテレビを見たりする毎日が続いていた。江戸川に住んでいた頃と違い今迄の勤務先が遠くなったことでやはり無理だったのかと思ってあきらめたのではないかと考えたりもしたが家に毎日居ても私の留守の間に何もする気にもなれずに夫昭にとっては洗濯機も掃除機も何の役にもたたないのであった。
 今まで働くの大嫌いな人だったので今更頼んでまで家事を手伝って貰う気持ちはなかった。失業保険を受給している間も割合のん気にしている様に見受けられたが、本人にしたら九ヶ月と云う時間の流れは次第に身の置き所がない程に窮地に追いつめられていったのかも知れない。

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