自分誌 鵜川道子・19
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編集者
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母が元気がなく膝が痛くて歩行困難であることを知った。弟も義妹も勤めの為日中家に居ない上二人の孫達も学校に行って留守。
今まで弱い体で父に頼って生きて来た母は仏段の前で涙ばかり拭っていると聞き、これは大変なことになっていると感じた。母は若い頃から心臓病(心筋梗塞)の発作を起したり喘息持ちで夜中に激しく咳込む姿を見て中学の頃母が居なくなったらと想像し不安な気持ちで毎日を送った頃があった。
その母が六十才を過ぎる頃から高血圧になり二八〇と言う数値に近所の医師もびっくりしたと云っていた。一時は信州大学の病院に入院した事もあって父が母の介護をしていた頃もあった。 その父に先立たれ母にとっては真に夜道の杖をもぎ取られた様なものであったと想像する。
そして半年間、父の新盆を迎えた母のその姿を見た瞬間、私は母を千葉の地に連れて帰りたいと云う衝動にかられた。夫の昭は入院中であり相談することもないと思う気持ちと共に自分の現在のヘルパーと云う職業柄他人のお年寄りのお世話をしているのに自分のたった一人になって悲しんでいる母をこのまゝにしておくわけにいかないと云う気持ちが止めようもなく湧き上がって来るのを感じた。
母の気持ちを確かめ弟を説得しなければならないので十日間の猶予期間を母に伝え自分の荷物をまとめて待っていて欲しいと話し合った、昭和五十五年八月二十五日は私の四十四才の誕生日でもあった。早朝出かけてその日のうちに母を連れて習志野に帰る予定であった。
母の気持ちは充分確かめてあってので何も云うことはなかったのだが弟の猛烈な反対にあうとは考えてもみなかった。私はこの際は母の気持ちを<第>一に考欲しいと云って譲らなかった。十日間と云う余裕があったのに母は弟に相談もせず自分の考えで一途に千葉行きを決めていたのかも知れなかった。弟の言い分もわからないわけではなかったのだが、母が帰りたい時いつでも信州に帰ればいいからと半ば強引に母を連れ出すことを実行したのだった。
かゝりつけの医師より薬も多めに貰い用意していた母は以前から父と一緒に我が家に時々来ていたのであまり心配する様子もなくお互いに話し相手となり又、浦安に住む次男の弟や稲毛のマンション住いをしていた妹の家に行ったりして孫の成長を楽しむようになった。
出来るだけ母が行き度いと云う気持ちがあれば弟や妹達の家に連れて行くのが私の役目かな?などと思うこともあった。信州の弟からは早く帰って来るようにと私の留守中にも何度か電話があったと聞いたが「お母さんが帰りたい気持ちがあればいつでも帰ればいいけど、ここがいいと思えばお母さんの気持ち次第だよ」といつも同じ考えでいられたことは実は二人が、崇教真光と云う神様を信じつゝ生活をしていたお蔭であった。