自分誌 鵜川道子・14
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
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或る時新小岩に向って歩いていると以前勤めていた同僚に出逢った。本当に短期間しか勤めていなかった人だったのにお互いに名前を覚えていてどちらからともなく挨拶を交わして近況報告のような会話があった。お互いに背中には女の子をおんぶしていたのだった。そして割合近い所に住んでいることが分った。
内職をしているが働きに行きたいと思っていると云う。家庭事情が分ってしまい、年令も同じと云うことが親密度が嫌が上にも深くなって行った。そして二人共内職ではなく子供連れで働きに行こうと云うことになったのだった。長女はもうすぐ一歳の誕生日を迎える頃だったが友人の子供はそれよりも半年前に一歳を過ぎて体も大きく丸々と太っていた。仕事中はおんぶして作業の途中でミルクを与えたりおむつの交換をするのである。母子共に辛い状態の中でわずかな報酬を頂くのである。お金の有難さは身にしみてわかるのであった。こんな苦しい時にお互いの悩みを話し合って来た友人は遠く西と東に別れても未だにずっと心の通い合う友となっているのである。
それから引っ越した所は同潤会通りの小学校に近い三軒長屋の真中の六畳間であった。右隣の住人は母親と女の子二人、左隣には七十代の母親と四十代の独身女性の二人暮しであった。トイレは右隣りにしかついてない。水道は三軒で一つの洗い場を交替で使用するものであった。一番つらいのが夜中でも隣家の台所の戸を開けて用足しに行くことであった。
長女が一歳八ヶ月になった頃、長男が誕生した。雨漏りがしないだけがとり柄の家であった。南に高い窓が一つあるが太陽の光も満足に入らない、そして北側に入口があるのだった。春になって暖かくなると家の柱や板が古いためその中から虫が出て来る。雨が降ると入口に水が溜まる。二段に別れている台の上の方には食器を伏せて置くざると下の台には石油コンロが置かれていたが、今考えてもよくあんな所でと思う。
叔母の家の近くだった為に洋裁のまとめを内職としてさせて貰うことになり夜は電燈を風呂敷で囲って洋服の袖ぐりのまつりボタン付けなどをして朝には出来上がったものを届けるのであった。
こんな生活が続いていたが昭はよく会社を休んでは家に居ることが多く私の心もおだやかではない毎日であった。家の無いのがこんなにつらく悲しい思いをしなくてはならないのかと思い都営住宅の申し込みを年に二回づつは必ず行っていた。早く人間らしい生活がしたいとの願いは年と共にふくらんで行きその願いがやっと叶う時が来た。かかさず申し込みをして五年間、ようやく篠崎に四階建ての鉄筋アパートに入居許可を得た。長女も長男も三歳と一歳になって保育園へ入所させ、私は保険外交員として働くようになっていた。主人昭と私の収入を合わせても民生住宅に入居出来る資格があった。 この時ばかりは地獄から天国に移り住んだ心地であった。新しい保育園も団地内に出来上り二人の子供も以前とは送り迎えが楽になりいよいよ保険の外交と集金に力を入れて仕事が出来るようになっていたが主人は住み心地のいい四階の部屋でテレビを見たり本ばかり読み会社が不満だと云って止めてしまったのである。どうしてこんなことでと私から見れば本当に頼りにならなない夫の行動には理解できぬ日々もあった。