疎開児童から21世紀への伝言
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昭和二十年疎開地図こぼればなし 4
磯貝真子(東京日本女子大付属校)
二十年四月二十四日、帝国ホテルでは志賀直哉の三女満亀子と柳宗悦の次男宗玄の結婚披露宴が行なわれた。実は十九年三月五日以降、ホテルでは泊り客以外に食事が出せなくなり、これまでのような結婚披露宴はできなくなっていたが、食糧を両家が持ち込み、ホテルが調理して供する事は可能だった。
この日午前八時半に空襲警報が鳴った。一時間あまりで解除になったが仲人の梅原龍三郎は疎開先の伊豆大仁から上京できず、東京にいる者だけ十五人での披露宴となった。志賀家の食糧調達を依頼されたのは熱海に疎開していた広津和郎で、彼はさっそく食糧調達名人の宇野千代のルートで肉を一貫目入手する手はずを整えた。卵は近所の養鶏場を手配していた。しかし朝の空襲で熱海との交通が途絶し、肉が届かないので志賀家としては大弱りだった。柳家の食糧はホテル側の手で何とか間に合い胸をなでおろした。お酒もフランス大使からもらったシェリー酒や日本酒一升、ビールなど。デザートは志賀家、柳家の女性たちが作った和菓子やフルーツポンチ、ドイツ風のケーキなども出された。「近頃での豪華版だった。‥ ‥こういう結婚式を親達の身とすれば全然気が張らず大変いいと思った」と志賀は結婚式に出席できなかった娘に書き送っている。
世田谷区新町に住んでいた志賀は、このあたりは絶対安全だとつねづね自慢していたが、軽井沢に別荘を持っていたので、いざとなれば疎開は軽井沢を考えていた。実は十七年に米英の資産凍結で没収された別荘が安く売られるということで、十月にアメリカ大使館員の別荘を家具、食器類すべて付いて三万円という安値で入手していたのである。しかし十九年末になると軽井沢の食糧不足と物価高の情報が耳に入ってくる。
世田谷で卵一個七十銭、高くても一円五十銭なのに五円もするという。志賀も知人と会えば栗ぜんざいやシュークリーム、鰻の蒲焼など今は無い食べ物の話に花が咲いた。配給以外の余分な食糧は育ち盛りの娘達に食べさせるようにしていたが、六十二歳の老人にはこたえる。足元が怪しくなり、頭がのべつぼんやりし、涙もろくなったと嘆いた。
一方別荘の値段は急上昇し、今なら十万円で売れると言うではないか。さつそく友人武者小路実篤の兄で元ドイツ大使もした武者小路公共に九万五千円で売却してしまった。これで娘の結婚の費用はもとより、戦時下に執筆がままならない志賀にとって大きな安心であっただろう。時局は悪化の一途をたどり、焼け出された親戚ノ知人は十人を越した。志賀も長野県に疎開している数人の知人に疎開先探しを依頼していたが、もうこの時期はどこも一杯でなかなか見つからなかった。
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昭和二十年疎開地図こぼればなし 5
磯貝真子(東京日本女子大付属校)
宇野千代は熱海に疎開していた頃、「広津の家へ行って見るとそこに志賀直哉が来ていて、一緒に仲間になって麻雀をしたことがある。あの、志賀直哉が仲間になって麻雀をした、ということで、私は多少吃驚したのを覚えている」と書いていた。舟橋聖一は「熱海疎開文士」の名を列挙し「志賀直哉先生は伊豆山の先の稲村に居られたが、時々熱海に映画などを見においでになった」と書いている。しかし志賀の弟子阿川弘之によると、終戦時、新町の自宅は運良く戦災を免れたが、広い家とはいえ志賀家には焼け出された娘一家を含む総計十七人が同居という有様で、日々数人の来客もあり執筆などが出来る状態ではなかった。そこへ熱海稲村の先、大洞台に戦前に建てた山小屋風洋風建築の別荘を提供するという人が現れた。戦後の焼け野原の東京にくらべ戦災を免れた熱海、親しい広津和郎もいるということで気持ちが動いた。リビングルームの前は芝生で、さえぎるものはなく広々とした海を望み、正面に初島、彼方には大島の噴煙もみえるというロケーションが気に入り引越しを決意した。志賀はここに七年も住むことになった。熱海に疎開したわけではなかったようだ。
二十年になるとB29が夜ごと頭上を飛んでいく。熱海で宇野は燃える東京を他人事のように物干し台の上から眺めた。「戦況が激化すればするほど闇の物資を買い漁った自分は、世間からは何とかけ離れていたことか」と後になって思った。漁師の持ってくる鰯を丸ごと買い、塩鰯を作って小包で知人に送る。客があると床下に隠してある自家製の濁酒をふるまって喜ばれるのが嬉しい。最期に手に入れた物は、何と石油缶一杯の胡麻油であった。煮物にも少しずつ入れて味をつけても二年はもつだろうと思うと嬉しさがこみあげた。
そのうち熱海も再疎開する人が増えてきた。宇野は北原武夫の実家栃木県壬生に再疎開をすることにした。家の片付けを終えて壬生に向かう彼女の背中には、風呂敷に包まれた大事な大事な胡麻油の缶があった。品川の近くで空襲警報が鳴って列車は急停車した。無蓋の貨物車に鮨詰め状態の乗客たちは、油を背負った女性が同乗している事を知ったら何と言っただろうか。壬生に着いても家を目の前にして戦闘機が低空で飛来してきた。機銃掃射を覚悟し、もうおしまいと思った瞬間、そのまま飛び去り危機を脱した。
北原の父は医師で広い家に住んでいた。宇野は舅姑との同居生活は始めての経験であったが、舅たちは「千代の作ってくれるものは何でも旨い」と喜んでくれた。熱海から“命がけ”で運んだ胡麻油が隠し味として使われていたことは言うまでもない。宇野はここでも才能を発揮して、あらかじめ送っていた衣類を手に、近所の農家を駆け回っては蜂蜜などと交換することに精を出した。八月十五日、敗戦の詔勅をこの家の座敷で聞く。
日本の敗戦と期を同じくして、彼らの貯金もまさに尽きようとしていた。宇野は自分の着物と薄い布団を持ち、北原は紫檀の小さい机を背中に縛り付けて東京行きの汽車に乗った。戦争が終わったのだ。誰もが鮨詰めの汽車で東京をめざしていた。
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昭和二十年疎開地図こぼればなし 6
磯貝真子(東京日本女子大付属校)
一方谷崎は三月の東京大空襲の惨状を目にし、戦況の悪化をひしひしと感じた「硫黄島、沖縄の守りも潰えぬ、帝都も大方焼き払われぬ、今は米軍本土に上陸せんこと必せり。まずおかさるるは房総半島か駿河湾か、伊豆半島か、などいう噂しきりなるにつれ、西山の小庵も安からずなりぬ、われは老いたれども男なれば兎も角もならん、家人とうら若き娘を抱へたるだにあるに家人の妹たち二人まで預れるをいかにして守るべきぞと思へば、きのうは人の身の上と眺めしことの忽ちおのれにふりかかりたるぞ笑止なる。かくて俄に比の(此の)小庵を人に譲り、取敢へず義妹の縁をたよりて作州津山なる宕々庵に再疎開することに決す」。去年の四月、熱海に来てから丁度一年たっていた。
「花に来て花に別るる西山の 柴の庵の旅のひととせ」
「事急なれば家財道具など送るべくもあらず、貨車の焼かるることも夥しと聞けばただ日常に欠くべからざる品々ばかりをと言いつつも、いざとなればあれもこれもとて浅ましき数に上がりぬ。とかくして五月六日というに漸く熱海を発足す」。
谷崎夫妻はようやく手に入れた切符で、神戸市東灘区魚崎の自宅へ向った。当時、切符があっても満員で乗車できないことさえある列車だったが「空席はなけれども便所にいけないと言うほどでは」ないのが幸運と思わねばならない。文豪谷崎潤一郎といえども通路に風呂敷を敷いて坐るありさまだった。
魚崎の家に一週間滞在する間にも空襲があり、庭の防空壕(金庫、電燈、ラジオ、厨の設備あり)に家族、親類の女性たちと避難した。谷崎は「目を固く閉じ顔中くしゃくしゃにして、体をかがめ壕の隅で脅えていた」と夫人はいう。空襲が終わると近くの学校には負傷者が続々と運び込まれる。そんな日でも谷崎家では牛肉が手に入ったので、来客を引き止め、お酒こそなかったが蕗、高野豆腐、菊菜、こんにゃく等で「豪華版」 の夕食を共にしている。
切符の入手に苦労してやっと五月十五日谷崎は津山に向った。朝の列車は満員で乗れず、二時間後の列車でやっと岡山県津山市の藩主・松平氏別邸にたどり着いた。睡蓮の咲く池に臨んだ十畳と六畳の御殿作りの座敷が谷崎に用意されていた。庭には見事なつつじ、梅、楓が配され、池には睡蓮が咲き、鯉が泳いでいた。
「鯉をどり睡蓮しげる水の上に われも浮身を宿すべきかな」
結構ずくめの疎開先のようであったが、この土地で全面的に頼るつもりだった町会議員の岡氏が病に倒れ間もなく亡くなってしまう。谷崎は失望落胆しこの地を去りたいと思う。「五月十九日 本日の夜食は杓子菜煮びたし、大豆と若布煮き合わせ、ウニ、胡麻塩外に水菜の漬物なり。熱海よりは急に質素になりたれどもこれにても飢えをしのぐに足る」。津山では卵は一個一円、杓子菜を買えば大風呂敷に一杯、持ちきれぬほどの値段が三円五十銭である。
六月に入り岡山の小京都と呼ばれた勝山町に休業している料理屋の離れの一棟を借りることが出来た。二階六畳二間、階下八畳二間で、部屋代は六十五円。「ああわれ齢六十路におよびてかかる遍陬(へんすう)に客とならんとは、げに人の運命ほど測り難きはなし」と谷崎は嘆いている。いつもお手伝いが同行するのだが、切符が二人分しか入手できず、老夫婦二人で五、六個の荷物を持って炎天下の津山駅に降り立った心境を「その折の悲しさ言わん方なし」と日記に書く。「さすらいの群れにまじりて鍋釜を負い行く妹をいかにとかせん」
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昭和二十年疎開地図こぼればなし 7
磯貝真子(東京日本女子大付属校)
月の半ばに永井荷風が疎開地を求めて岡山のホテルに滞在中と人づてに聞く。間もなく手紙が来た。谷崎は荷風の来訪を心待ちにしていたが、八月十三日になってやっと荷風が勝山へきた。
「荷風先生見ゆ。カバンと風呂敷包みとを振り分けにして担ぎ、外に予が送りたる龍を提げ、醤油色の手拭を持ち背広にカラなしのワイシャツを着、赤皮の半靴を穿きたり。焼け出されてこれが全財産なりとの事なり。然れども思ったほど萎れても居られず、中々元気なり。拙宅は満員に付き赤岩旅館に案内す。旅館にて夜食の後又来訪され、二階にて、渡邊氏も共に夜更くるまで話す」。あくる日谷崎は荷風と町を散歩し、出来れば勝山に移りたい様子の荷風に、三日に一度ぐらい食料の配給がある岡山に比べ、勝山はずっと厳しいことを話し「予は率直に、部屋と燃料は確かにお引き受けすべけれども食料の点責任を負い難き旨を答う。結局食料買い入れの道を開きたる上にて荷風氏を招くことに決め」た。この日、谷崎家は地元で牛肉一貫(二百円)入手。その上、津山の知人から一貫以上の牛肉が届けられた。さつそく荷風を招いて昼は東京風のお赤飯を炊き、豆腐の吸い物。夜はお酒を二升入手し、荷風とすき焼きを食べて夜遅くまで語り合った。
翌八月十五日十一時二十六分の列車で岡山へ帰る荷風を見送り、急いで帰宅すると十二時に天皇の玉音放送が始まった。「家人来り今の放送は日本が無条件降伏を受託したるにて陛下がその旨を国民に告げ玉へるものらし、警察の人々の話なりと言う。皆半信半疑なりしが、三時の放送にてそのこと明瞭になる。町の人々は当家の女将を始め皆興奮す。家人も三時のラジオを聞きて涙滂沱たり」。
荷風の日記には「八月「五日陰(くも)りて風涼し。宿屋の朝食、鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚つけ焼き、茄子香の物なり。これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり。」「鉄道乗車券は谷崎君の手にてすでに訳もなく購ひおかれたるを見る」「出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す。白米のむすびに昆布佃煮及び牛肉を添へたり。欣喜措く能はず」「S君夫婦、今日正午ラジオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりという。あたかも好し、日暮れ染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」。
思えばこの戦争には、初めから終わりまで背を向けていた荷風だったが、空襲でこんなに苦労した作家も少ないのではないか。
永井荷風は三月十日の大空襲で大正九年から二十五年間住んだ麻布市兵衛町の偏奇館を焼失した。炎を上げる我が家を、荷風は電柱、木立の幹に身を隠しながら見届けた。
「ああ余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり」。とりあえず代々木に住む従弟の杵屋五叟家に身を寄せた。あくる日偏奇館の焼け跡に行くと、かつて谷崎が贈った断腸亭の印と楽焼の茶碗、鷲津毅堂の煙管の三点が灰の中から無傷で見つかっただけであとは見事に灰になっていた。
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昭和二十年疎開地図こぼればなし 8
磯貝真子(東京日本女子大付属校)
画家の小堀四郎(夫人は森鴎外の娘杏奴)から自分の家族とともに信州へ疎開しよう「もしこの機会を逸する時は遠からず東京にて餓死せずば焼死するより外に道なかるべしと言い、手をとらぬばかりに説きすすめられた」のだが、東京を離れ難い荷風はどうしても決心がつかなかった。四月半ばになって作曲家菅原明朗夫妻が住む東中野の国際文化アパートに空き室がみつかり、住むことになった。二階の洋間六畳に日本間四畳に台所、便所があり、中庭に面してそれぞれが独立した玄関がある当時としては高級なアパートである。
画家や演出家、フランス文学者など文化人が多く住んでいたが、四月十五日の空襲以来ガスがなくなり、毎日の炊事は建物疎開跡の木屑を拾い集めて燃やすという生活だった。食料品の価格は胡麻油一合十五円、メリケン粉百匁 三十円、牛肉百匁 二十五円、バター百匁 五十円などと日記にある。
東中野の生活も一ヶ月あまりで五月二十五日の空襲に遭遇する。「無数の火塊路上到るところに燃え」るなかを必死で逃れる。焼け跡で一夜を過ごし「おそるおそる咽の中を歩みわがアパートに至り見るに、既にその跡もなく、唯瓦礫土塊の累々たるのみ。菅原氏夫妻の日夜弾奏せしピアノの如き唯金線の一団となり糸のようにもつれしを見る」。荷風は菅原夫妻と代々木の杵屋五叟家を訪ねるが、ここも四月の空襲で焼失していた。仕方なく三人は駒込の菅原の弟子でピアニストの宅孝二の家にいき、厄介になる。しかし世田谷の地も決して安全とはいえない。「毎夜月よく折々梟の鳴くをきく、東都の滅亡を弔ふものの如し」。
遂に明石市の菅原の実家に疎開する夫妻に荷風も同行して東京を後にした。明石の菅原家はすでに罹災者の家族が入っていて空き部屋がなく近くの西林寺に宿泊する。この風光明媚な明石と閑静なお寺が気に入り、「夕陽の縁先に座して過日菅原氏が大阪の友より借来りしヴエルレーヌの選集を読む」荷風だったが、「明石も遠からず焼き払わるべしとて流言百出」、ここも安住の地ではなかった。岡山にはすでに宅孝二もいる、勝山には谷崎も疎開しているではないかと説得され荷風は岡山に向かう。六月十二日に岡山に着き宅孝二の知人宅、岡山のホテルと転々としたあげく、三人はやっと旅館松月に落ち着いた。この日勝山では谷崎は荷風が岡山滞在中との伝言を受取った。
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昭和二十年疎開地図こぼればなし 9
磯貝真子(東京日本女子大付属校)
荷風は「燕の子いつか軒裏の巣より一羽残らず巣立ちして飛び去れり」と二十七日の日記に書いた。二十八日に旅館のお上さんも燕の子が昨日巣立ちしたまま帰らないことに気づき「今日明日必ず異変あるべしと避難の用意をなす。果たして二十八日夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起これり。警報のサイレンさへ鳴りひびかず、市民は睡眠中突然爆音を聞いて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き川原の砂上に伏して九死に一生を得た」 B29七十機による空襲で、岡山の街は大半を焼失。死者は一七〇〇人、羅災者十万人を数えた。旅館松月も焼失した。ちょうど菅原夫妻は仕事で広島へ出かけ、荷風は一人でいた夜だった。三月十日の大空襲で偏奇館を焼失して以来、東中野、明石、岡山と行く先々で空襲に会い居場所を失う荷風の気持ちはいかばかりであったか。
仕事先から帰った菅原夫妻と荷風は焼けなかった知人宅に身を寄せるが、この頃荷風の言動が少しおかしいと菅原夫妻は感じる。東京の杵屋五叟に『永井先生は最近すっかり恐怖病におかかりになり あのまめだった方が横のものも縦になさることなく、まるで子供の様にわからなくなってしまい、私達の一人が昼間一寸用事で出かけることがあっても、「困るから出ないでくれ」と言われるし、食べた食事も忘れて 「朝食べたかしら」なぞと言われる始末です』と近況を送った。防空壕に入ったまま出てこないこともあったという。
戦場の兵士が銃弾や爆撃に恐怖し、精神に異常をきたす「シェルショック」という戦争後遺症にかかったのではないかと川本三郎は「荷風好日」 に書いている。
谷崎に会いたいと思うが勝山までの切符が買えず、やっと八月の十三日になって谷崎に会うことが出来た。偏屈な荷風が心を許して語ることのできる数少ない友である。二人は久しぶりに夜のふけるまで語り合った。
あくる日は谷崎と早朝の街を散歩する。荷風はこのまま勝山に疎開する心積もりで来たのだったが、谷崎の話を聞くと「人心日に増し平穏ならず、米穀の外日用の蔬菜を配給せず、他郷の罷災民はほとんど食を得るに苦しむ由、事情すでにかくの如くなりたるを以って長く谷崎氏の厄介にもなりがたし」と思い、荷風は再び岡山へ帰ろうと心に決めた。夕方谷崎から「牛肉を買いたればすぐにお出ありたし」と使いが来る。すき焼きと日本酒で谷崎夫人を交えての楽しい晩餐であった。
一夜明けて八月十五日、岡山に帰ると戦争は終わりを告げていた。
参考文献
『谷崎潤一郎全集・第三十巻』中央公論社
『生きて行く私』宇野千代 角川文庫
『志賀直哉全集・第九巻』 岩波書店
『志賀直哉・下』阿川弘之 岩波書店
『摘録・断腸亭自乗・下』永井荷風著磯田光一編 岩波書店
『荷風好日』川本三郎 岩波現代文庫
『私の履歴書・文化人4・船橋聖一他』日本経済新聞社
『昭和二十年・第一部=8』鳥居民 草思社
カットは 有隣堂での展示から・筆者画
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小さな履歴書 その1
大石規子(間門校)
I 誕生
一九三五年三月十日 横浜市中区本牧和田で生まれる
丘の麓 海に近い穏やかな屋敷町
二年後 日本軍の中国侵略
兆しは幼子の細胞に届いていたはずだが情報を感知する能力はなかった
♪金璃輝く 日本の/栄えある光 身に受けて
今こそ祝え この朝/紀元は 二千六百年/ああ一億の 胸は鳴る
五歳の私は提灯を持ち大人たちに埋もれながらわが家の門前に並んだ
提灯行列が続く 赤い火 ゆらゆら
戦争と歩く運命が始まったのだ
知らなかった 知ラナカッタ 何モ知ラナカッタ
Ⅱ 幼稚園
本牧幼稚園への細道
土手の草にくすぐられながら一人で歩いた 遠かった
♪赤イ花 サイタ/黄イロイ花 サイ夕
照レ 照レ オ日サマ/照レ 照レ オ日サマ
♪かもめの水兵さん/ならんだ水兵さん
白い帽子 白いシャツ 白い服
波にチヤツプチヤップ うかんでる
朝日講堂での発表会
お遊戯 舞台で水兵さんになる
芋掘りの遠足
土の中から現われるサツマイモを初めて見た
お弁当は おにぎり ゆで卵 竹皮に包んだ梅干し
熱の高い日
人力車で女のお医者さんが往診に来た
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小さな履歴書 その2
大石規子(間門校)
Ⅲ 国民学校
丘があり海があり校庭の先から海水浴ができた
夏は臨海学校で 他校の学童たちが合宿に来た
一年生の冬 戦争が始まった
海に向いた朝礼台で 校長先生が戦争の話をした
私の誕生日 三月十日は陸軍記念日
特別長い話で 早く終わってほしいと聞いていた
(後に 三月十日は東京大空襲記念日 今も 悲しい記憶は続いている)
教室で 神武 綴靖 安寧 敢徳…百二十四代の天皇の名を暗唱
隣りの教室まで行って見本を示す あの頃は記憶力がよかった
三年生の時に 兄が病気で死んだ
運動会も廃止された
徒競走も一年生の時は三番 二年生の時は二番
三年生の時は一番だったはずなのに
遠足もなかった
気になる同じクラスの男の子 初恋だったのか
今はどうしているだろう 風の便りもない
叔父 妻子を残し 大学繰上げ卒業で戦地へ
Ⅳ 疎開・空襲
四年生の時 学童疎開が始まった
行かなければいけないのに 残留組
みんなが疎開してゆき 学校は寂しくなった
毎晩の警戒警報 空襲警報
露に足元を濡らしながら 夜中の防空壕へ急ぐ
疎開しなければ 危ない
五年生になってからの遅い出発
箱根宮ノ下の老舗旅館で 先発隊と合流
痺い かゆい 虱の歓迎 いじめにも歓迎される
畳の上で勉強する 隣りに頭の大きな女の子
その子は 病気で横浜に帰った
五月二十九日 横浜大空襲
その子も死んだ 私の家も焼けてしまった
記憶の中の物いっさいが 消えてしまった
心の中の記憶は 年を追って ますます鮮明になる
知人の家族も 一家全滅も あちこちに
両親が亡くなり 子どもだけ残った家もあった
編集者
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小さな履歴書 その3
大石規子(間門校)
Ⅴ 敗戦
空襲から一週間後 面会に来たはずなのに
父は私を横浜に連れ戻した
ー死ぬなら一緒に
旅館の女中さんが
ー新婚旅行でいらっしゃい と送ってくれた
遠い遠い話 現実感がなかった
横浜は まだ熱い 焼け野原
呆然と見渡す
すべてが 無くなってしまった
私のものがない 私の家がない!
あるのは黒い土ばかり
点々と レコードの塊り 瀬戸物の欠片
子ども時代が消えてしまった
八聖殿の金魚屋さんに間借り
金魚のいない水槽を見て暮らす
コンクリートの底が ひからびていて
叔父 レイテ島沖で戦死
八月十五日 無条件降伏 敗戦
Ⅵ 六年生
次に 東京大森の伯父の家に居候 不便な二階暮らし
ここで一歳に満たない弟が死んだ 栄養失調だった
父が小さな枢を自転車に乗せて遠ざかっていった
写真も残ってない可哀想な弟 顔も思い出せない
ただ 小さな指で蚤をプッチユーンといって
つぶす恰好をしていたのだけ思い出せる
六年生になっていて 大森の学校に編入する
それまで学校に行くのを忘れてた
ざらざらの教科書 墨で塗りつぶされた
黒板の前の大きな算盤 はじめての算盤
指されても立ち往生 みんなは できるのになぜ?
算数が きらいになった
下校途中で頭から衿元から D・D・Tをぶっかけられた
横浜に戻り 上大岡の山奥の 農家の納屋に引越す
畑のサツマイモの葉 フスマ入り豆かす入りご飯 赤蛙も食べた
田んぼの畦道を歩くと 必ず下痢をした
山のきわの水たまりが 飲み水 炊事 洗濯用
お百姓さんが 鍬や桶を洗う場所だ
鯨の皮を熱して鯨油を取る
妙め物やランプの火にもなった
魚くさいランプの火屋拭きは 手の小さい子どもの役目だ
小屋のような家 盗むものもないのに
留守の間に一切合切 なくなっていた
また 零からの出発
お母さん あの頃は辛かったでしょうね
黙って淡々と生きていた お母さん
編集者
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小さな履歴書 その4
大石規子(間門校)
Ⅶ 中学生
抽選で当たった羅災者住宅 一、金三八〇〇円也
六畳と三畳 でも 立派な我が家だった
父 母 私 妹 あとから生まれた弟
五人の生活が始まった つつましくて貧しく
それでも明るかった 希望があったからだ
桜に包まれて入学式
私は六三制初の中学生になった
はじめは 制服がなかったが
そのうち 紺色のセーラー服になった
白いライン 白いリボン 襞のスカート
英語 国語 体育 書道
嫌いなのは 数学 理科
ある日 学校にララ物資が届いた
アメリカの臭いのピンタックやギャザーの酒落た洋服
この国と戦争してたんだ 信じられない
物資も兵器もたくさんの 強い国が勝つのだ
ずかずかと 土足で入り込んで来た
進駐軍 駐留軍 占領軍 豊かな物資を携えて
目路の限りの カマボコ兵舎 飛行場までできて
大通りは 白人 黒人 外国兵であふれた
焼け残った ビル ホテル 邸宅を
占拠する アメリカ軍と その家族
鼠色の私たちに 黄色 青 赤 金粉を振り撒いた
その華やかな振舞いに 昨日まで敵国だったのに憧れたりした
Ⅷ 高校生
学校では 図書委員 新聞委員
英語のスピーチ・コンテスト 題は「ザ・ハピネス」
物質的な幸福よりも 精神的な幸福を説いた
ささやかでも 未来があった たっぷり あった
戦争のことは 忘れた 忘れていたい
いやなことは 思い出したくない
悲しいことは この世から 消えろ!
のほほんと 学生時代が 過ぎていった
Ⅸ 今頃になって
結婚 子育て一応 済んで
時間が秒読みになってきて
わんわん響く 天上からの声 地底からの声
-私の代わりに何してくれた?
-私の人生を取り戻して
-父さん母さんに会わせて!
-行方不明のままなのよ
私も もうじき混ざるから
此処に 残していく
私だけでない 私たちの生きた道を
ささやかな履歴書にして残していく