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疎開児童から21世紀への伝言 54

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 54

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/9/3 8:11
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 昭和二十年疎開地図こぼればなし 7
 磯貝真子(東京日本女子大付属校)

 月の半ばに永井荷風が疎開地を求めて岡山のホテルに滞在中と人づてに聞く。間もなく手紙が来た。谷崎は荷風の来訪を心待ちにしていたが、八月十三日になってやっと荷風が勝山へきた。

 「荷風先生見ゆ。カバンと風呂敷包みとを振り分けにして担ぎ、外に予が送りたる龍を提げ、醤油色の手拭を持ち背広にカラなしのワイシャツを着、赤皮の半靴を穿きたり。焼け出されてこれが全財産なりとの事なり。然れども思ったほど萎れても居られず、中々元気なり。拙宅は満員に付き赤岩旅館に案内す。旅館にて夜食の後又来訪され、二階にて、渡邊氏も共に夜更くるまで話す」。あくる日谷崎は荷風と町を散歩し、出来れば勝山に移りたい様子の荷風に、三日に一度ぐらい食料の配給がある岡山に比べ、勝山はずっと厳しいことを話し「予は率直に、部屋と燃料は確かにお引き受けすべけれども食料の点責任を負い難き旨を答う。結局食料買い入れの道を開きたる上にて荷風氏を招くことに決め」た。この日、谷崎家は地元で牛肉一貫(二百円)入手。その上、津山の知人から一貫以上の牛肉が届けられた。さつそく荷風を招いて昼は東京風のお赤飯を炊き、豆腐の吸い物。夜はお酒を二升入手し、荷風とすき焼きを食べて夜遅くまで語り合った。

 翌八月十五日十一時二十六分の列車で岡山へ帰る荷風を見送り、急いで帰宅すると十二時に天皇の玉音放送が始まった。「家人来り今の放送は日本が無条件降伏を受託したるにて陛下がその旨を国民に告げ玉へるものらし、警察の人々の話なりと言う。皆半信半疑なりしが、三時の放送にてそのこと明瞭になる。町の人々は当家の女将を始め皆興奮す。家人も三時のラジオを聞きて涙滂沱たり」。
                       
 荷風の日記には「八月「五日陰(くも)りて風涼し。宿屋の朝食、鶏卵、玉葱味噌汁、はや小魚つけ焼き、茄子香の物なり。これも今の世にては八百膳の料理を食するが如き心地なり。」「鉄道乗車券は谷崎君の手にてすでに訳もなく購ひおかれたるを見る」「出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す。白米のむすびに昆布佃煮及び牛肉を添へたり。欣喜措く能はず」「S君夫婦、今日正午ラジオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりという。あたかも好し、日暮れ染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る、休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ」。

 思えばこの戦争には、初めから終わりまで背を向けていた荷風だったが、空襲でこんなに苦労した作家も少ないのではないか。

 永井荷風は三月十日の大空襲で大正九年から二十五年間住んだ麻布市兵衛町の偏奇館を焼失した。炎を上げる我が家を、荷風は電柱、木立の幹に身を隠しながら見届けた。

 「ああ余は着のみ着のまま家も蔵書もなき身とはなれるなり」。とりあえず代々木に住む従弟の杵屋五叟家に身を寄せた。あくる日偏奇館の焼け跡に行くと、かつて谷崎が贈った断腸亭の印と楽焼の茶碗、鷲津毅堂の煙管の三点が灰の中から無傷で見つかっただけであとは見事に灰になっていた。

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