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疎開児童から21世紀への伝言 53

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 53

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/9/2 8:37
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 昭和二十年疎開地図こぼればなし 6
 磯貝真子(東京日本女子大付属校)

 一方谷崎は三月の東京大空襲の惨状を目にし、戦況の悪化をひしひしと感じた「硫黄島、沖縄の守りも潰えぬ、帝都も大方焼き払われぬ、今は米軍本土に上陸せんこと必せり。まずおかさるるは房総半島か駿河湾か、伊豆半島か、などいう噂しきりなるにつれ、西山の小庵も安からずなりぬ、われは老いたれども男なれば兎も角もならん、家人とうら若き娘を抱へたるだにあるに家人の妹たち二人まで預れるをいかにして守るべきぞと思へば、きのうは人の身の上と眺めしことの忽ちおのれにふりかかりたるぞ笑止なる。かくて俄に比の(此の)小庵を人に譲り、取敢へず義妹の縁をたよりて作州津山なる宕々庵に再疎開することに決す」。去年の四月、熱海に来てから丁度一年たっていた。

 「花に来て花に別るる西山の 柴の庵の旅のひととせ」

 「事急なれば家財道具など送るべくもあらず、貨車の焼かるることも夥しと聞けばただ日常に欠くべからざる品々ばかりをと言いつつも、いざとなればあれもこれもとて浅ましき数に上がりぬ。とかくして五月六日というに漸く熱海を発足す」。

 谷崎夫妻はようやく手に入れた切符で、神戸市東灘区魚崎の自宅へ向った。当時、切符があっても満員で乗車できないことさえある列車だったが「空席はなけれども便所にいけないと言うほどでは」ないのが幸運と思わねばならない。文豪谷崎潤一郎といえども通路に風呂敷を敷いて坐るありさまだった。
 魚崎の家に一週間滞在する間にも空襲があり、庭の防空壕(金庫、電燈、ラジオ、厨の設備あり)に家族、親類の女性たちと避難した。谷崎は「目を固く閉じ顔中くしゃくしゃにして、体をかがめ壕の隅で脅えていた」と夫人はいう。空襲が終わると近くの学校には負傷者が続々と運び込まれる。そんな日でも谷崎家では牛肉が手に入ったので、来客を引き止め、お酒こそなかったが蕗、高野豆腐、菊菜、こんにゃく等で「豪華版」 の夕食を共にしている。

 切符の入手に苦労してやっと五月十五日谷崎は津山に向った。朝の列車は満員で乗れず、二時間後の列車でやっと岡山県津山市の藩主・松平氏別邸にたどり着いた。睡蓮の咲く池に臨んだ十畳と六畳の御殿作りの座敷が谷崎に用意されていた。庭には見事なつつじ、梅、楓が配され、池には睡蓮が咲き、鯉が泳いでいた。

 「鯉をどり睡蓮しげる水の上に われも浮身を宿すべきかな」

 結構ずくめの疎開先のようであったが、この土地で全面的に頼るつもりだった町会議員の岡氏が病に倒れ間もなく亡くなってしまう。谷崎は失望落胆しこの地を去りたいと思う。「五月十九日 本日の夜食は杓子菜煮びたし、大豆と若布煮き合わせ、ウニ、胡麻塩外に水菜の漬物なり。熱海よりは急に質素になりたれどもこれにても飢えをしのぐに足る」。津山では卵は一個一円、杓子菜を買えば大風呂敷に一杯、持ちきれぬほどの値段が三円五十銭である。

 六月に入り岡山の小京都と呼ばれた勝山町に休業している料理屋の離れの一棟を借りることが出来た。二階六畳二間、階下八畳二間で、部屋代は六十五円。「ああわれ齢六十路におよびてかかる遍陬(へんすう)に客とならんとは、げに人の運命ほど測り難きはなし」と谷崎は嘆いている。いつもお手伝いが同行するのだが、切符が二人分しか入手できず、老夫婦二人で五、六個の荷物を持って炎天下の津山駅に降り立った心境を「その折の悲しさ言わん方なし」と日記に書く。「さすらいの群れにまじりて鍋釜を負い行く妹をいかにとかせん」

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