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疎開児童から21世紀への伝言 56

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通常 疎開児童から21世紀への伝言 56

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/9/5 7:29
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 昭和二十年疎開地図こぼればなし 9
 磯貝真子(東京日本女子大付属校)

 荷風は「燕の子いつか軒裏の巣より一羽残らず巣立ちして飛び去れり」と二十七日の日記に書いた。二十八日に旅館のお上さんも燕の子が昨日巣立ちしたまま帰らないことに気づき「今日明日必ず異変あるべしと避難の用意をなす。果たして二十八日夜二時頃岡山の町襲撃せられ火一時に四方より起これり。警報のサイレンさへ鳴りひびかず、市民は睡眠中突然爆音を聞いて逃げ出せしなり。余は旭川の堤を走り鉄橋に近き川原の砂上に伏して九死に一生を得た」 B29七十機による空襲で、岡山の街は大半を焼失。死者は一七〇〇人、羅災者十万人を数えた。旅館松月も焼失した。ちょうど菅原夫妻は仕事で広島へ出かけ、荷風は一人でいた夜だった。三月十日の大空襲で偏奇館を焼失して以来、東中野、明石、岡山と行く先々で空襲に会い居場所を失う荷風の気持ちはいかばかりであったか。

 仕事先から帰った菅原夫妻と荷風は焼けなかった知人宅に身を寄せるが、この頃荷風の言動が少しおかしいと菅原夫妻は感じる。東京の杵屋五叟に『永井先生は最近すっかり恐怖病におかかりになり あのまめだった方が横のものも縦になさることなく、まるで子供の様にわからなくなってしまい、私達の一人が昼間一寸用事で出かけることがあっても、「困るから出ないでくれ」と言われるし、食べた食事も忘れて 「朝食べたかしら」なぞと言われる始末です』と近況を送った。防空壕に入ったまま出てこないこともあったという。

 戦場の兵士が銃弾や爆撃に恐怖し、精神に異常をきたす「シェルショック」という戦争後遺症にかかったのではないかと川本三郎は「荷風好日」 に書いている。

 谷崎に会いたいと思うが勝山までの切符が買えず、やっと八月の十三日になって谷崎に会うことが出来た。偏屈な荷風が心を許して語ることのできる数少ない友である。二人は久しぶりに夜のふけるまで語り合った。

 あくる日は谷崎と早朝の街を散歩する。荷風はこのまま勝山に疎開する心積もりで来たのだったが、谷崎の話を聞くと「人心日に増し平穏ならず、米穀の外日用の蔬菜を配給せず、他郷の罷災民はほとんど食を得るに苦しむ由、事情すでにかくの如くなりたるを以って長く谷崎氏の厄介にもなりがたし」と思い、荷風は再び岡山へ帰ろうと心に決めた。夕方谷崎から「牛肉を買いたればすぐにお出ありたし」と使いが来る。すき焼きと日本酒で谷崎夫人を交えての楽しい晩餐であった。

 一夜明けて八月十五日、岡山に帰ると戦争は終わりを告げていた。

参考文献

 『谷崎潤一郎全集・第三十巻』中央公論社

 『生きて行く私』宇野千代 角川文庫

 『志賀直哉全集・第九巻』 岩波書店

 『志賀直哉・下』阿川弘之 岩波書店

 『摘録・断腸亭自乗・下』永井荷風著磯田光一編 岩波書店

 『荷風好日』川本三郎 岩波現代文庫

 『私の履歴書・文化人4・船橋聖一他』日本経済新聞社

 『昭和二十年・第一部=8』鳥居民 草思社

 カットは 有隣堂での展示から・筆者画


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