@





       
ENGLISH
In preparation
運営団体
メロウ伝承館プロジェクトとは?
記録のメニュー
検索
その他のメニュー
ログイン

ユーザー名:


パスワード:





パスワード紛失

疎開児童から21世紀への伝言 55

投稿ツリー


このトピックの投稿一覧へ

編集者

通常 疎開児童から21世紀への伝言 55

msg#
depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2010/9/4 7:51
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298

 昭和二十年疎開地図こぼればなし 8
 磯貝真子(東京日本女子大付属校)

 画家の小堀四郎(夫人は森鴎外の娘杏奴)から自分の家族とともに信州へ疎開しよう「もしこの機会を逸する時は遠からず東京にて餓死せずば焼死するより外に道なかるべしと言い、手をとらぬばかりに説きすすめられた」のだが、東京を離れ難い荷風はどうしても決心がつかなかった。四月半ばになって作曲家菅原明朗夫妻が住む東中野の国際文化アパートに空き室がみつかり、住むことになった。二階の洋間六畳に日本間四畳に台所、便所があり、中庭に面してそれぞれが独立した玄関がある当時としては高級なアパートである。

 画家や演出家、フランス文学者など文化人が多く住んでいたが、四月十五日の空襲以来ガスがなくなり、毎日の炊事は建物疎開跡の木屑を拾い集めて燃やすという生活だった。食料品の価格は胡麻油一合十五円、メリケン粉百匁 三十円、牛肉百匁 二十五円、バター百匁 五十円などと日記にある。

 東中野の生活も一ヶ月あまりで五月二十五日の空襲に遭遇する。「無数の火塊路上到るところに燃え」るなかを必死で逃れる。焼け跡で一夜を過ごし「おそるおそる咽の中を歩みわがアパートに至り見るに、既にその跡もなく、唯瓦礫土塊の累々たるのみ。菅原氏夫妻の日夜弾奏せしピアノの如き唯金線の一団となり糸のようにもつれしを見る」。荷風は菅原夫妻と代々木の杵屋五叟家を訪ねるが、ここも四月の空襲で焼失していた。仕方なく三人は駒込の菅原の弟子でピアニストの宅孝二の家にいき、厄介になる。しかし世田谷の地も決して安全とはいえない。「毎夜月よく折々梟の鳴くをきく、東都の滅亡を弔ふものの如し」。

 遂に明石市の菅原の実家に疎開する夫妻に荷風も同行して東京を後にした。明石の菅原家はすでに罹災者の家族が入っていて空き部屋がなく近くの西林寺に宿泊する。この風光明媚な明石と閑静なお寺が気に入り、「夕陽の縁先に座して過日菅原氏が大阪の友より借来りしヴエルレーヌの選集を読む」荷風だったが、「明石も遠からず焼き払わるべしとて流言百出」、ここも安住の地ではなかった。岡山にはすでに宅孝二もいる、勝山には谷崎も疎開しているではないかと説得され荷風は岡山に向かう。六月十二日に岡山に着き宅孝二の知人宅、岡山のホテルと転々としたあげく、三人はやっと旅館松月に落ち着いた。この日勝山では谷崎は荷風が岡山滞在中との伝言を受取った。

  条件検索へ