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東京っ子の戦中・戦後 その2 (けんすけ)

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通常 東京っ子の戦中・戦後 その2 (けんすけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/6 8:01
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 設計室
 
 前回の“鉛筆”でみなさんの生まれる前の話です。と書いたら生まれていたと言う方が居られたので、話を10年さかのぼらせてもらいます。

 昭和19年(1944)9月、東京府中にあった日本小型飛行機製作所に就職しました。
 7月にはサイパン島も玉砕《ぎょくさい》して、戦局は悪化の一路をたどっていました。学生たちは学校に行かずに、動員されて工場で軍需品の生産に従事していました。

 でもまだ、東京の空襲が始まる前でしたから、何となくのんびりとはしていました。
 
 飛行機好きのわたしは、先に勤めていた姉の、交際相手の青年の勧めで、就職を決めました。

 工場は府中刑務所の南にあって、4棟の工場、事務所、寮、食堂があり、木製飛行機を作っていました。

 わたしが勤務したのは技術部設計課、設計室の半分は、現図を描くための膝《ひざ》ぐらいの高さの広いステージ。

 半分は真ん中にテーブルを挟んで製図台が2列、一番後ろに技術部長の男爵、宮原旭さん、隣が姉の交際相手、その前がわたし。正規の従業員は製図、現図あわせて12名。

 朝7時半から夕6時半までの勤務でしたが、9時ごろになると千歳中学の生徒と、岩佐女学校の生徒が十人位ずつ手伝いに来ました。設計室の中は急に賑やかになります。
 女学校の監督は、生徒に“お杉婆さん”とあだ名を付けられていた女の先生。この監督が、「男の子と一緒に仕事をさせないように」と注文をつける。
 ところが彼女たち、お杉婆さんが入ってくると、わざと男の子のそばに寄ってくる。

 4時だか5時だかに生徒たちが引き上げてしまうと、室内が火が消えたよう。

 空襲が始まるようになってから、この生徒たちを見なくなったがいつから居なくなったか、記憶にない。

 戦後この女生徒と遇ったのは、府中の本屋六社堂でのポンキョウさん、実家が調布の牧場だとのことで、わざわざ義兄と訪ねていったら、「何しに来たの」と言われた持丸さん、府中本町あたりを歩いていてばったり遇って分倍河原まで一緒に歩いたクリちゃん(この人の姓は思い出せない)。彼女は小学校の先生になっていた。

 高知で先生になったタノさんが出てきたとき、神田の友達のうちで歓迎会をしようと呼んだ、名古屋さん、内藤さん。
 指名でわたしが飯田橋の駅まで迎えに出た。しばらくぶりで会った彼女たちはまぶしかった。

 そのタノさんと訪ねていった川崎さん。
 後年妻と府中の親戚に行った時、実家の前で子供と遊んでいた瀧島さん。気づいたけどお互い声もかけず通り過ぎてしまった。

 この人達の姓名は(クリちゃんを除いて)覚えているが、残念ながら男子の千歳中学の生徒の名前は思い出せません。


(返信1)

 空襲の話はこの次に気が向いたら書きます。

 国民学校(今の小学校)卒業した子供たちが、日本中から集められて方々の工場で働いていました。
 男子寮と女子寮があって、わたしの姉は女子寮の寮長をやっていました。わたしも始めは寮にいたんですが、当時の寮は娯楽設備も何も無く、あまりにも冷たい感じなので、姉の彼が借りてる部屋に同居させてもらいました。


(返信2)

 日の永い間、9月までだったかな、6時半まで強制残業でした。

 工場を拡張すると云って、政府から補助金をもらって、雨の漏るような欠陥工場を建てかけてありました。その工場はついに完成しないで終戦になりました。
 いつの時代でも欲の深い奴は居るものです。

 うちの婿さんも、19年生まれです。

(返信3)

 わたしが在籍した1年足らずの間に、まず大物では零式輸送機(DC3)の主翼の木製化、新司令部偵察機の尾翼の木製化、エンテのグライダーK-16の製作と試験飛行、97重の尾翼の木製化。あと終戦近くでは、ケ号?とかいう防御用の特殊砲弾みたいなもの。

 要するにアルミの不足を補おうとしたんだね。

 当時、シナベニヤにいきなり現図を描いて工場に持っていって製作を始めるから、図面係は、スケール《=物の長さや角度を測る目盛りをつけた器具》を持って現物を計って図面にしていた。現場の職人に違ってますか?なんて云われて返事に困っていた。


(返信4)

 試作工場で、零式輸送機の主翼を製作中、裏返しにする必要があり、三叉《さんまた》存知でしょうか、丸太を3本三脚のように立て、上部にチェーンブロックを取り付けたもの。建築現場などで重いものを持ち上げるのに使った)を使って作業中に落としてしまったことがあります。

 時の日本の工場の設備の貧困なこと。これでアメリカと戦ったのです。


(返信5)

 戦争の始まる前、アメリカの新鋭機が続々発表になりました。P-36,P-38,P-39,P-40,P-43.
 皆最高時速640キロを誇っていました。
 日本は秘密主義ですから写真すら発表されません。
 われわれ航空マニアはやきもきしてました。

 ゼロ戦の写真を始めてみたのは、開戦の年の10月号“空”という雑誌でした。引っ込み脚の戦闘機らしき飛行機の編隊。日本にもこんな機体があるんだ、と思いました。

 日本は、精神力、精神力とこれに頼りすぎたんでしょうね。物資の少ない国でやむを得なかったのかもしれません。


(返信6)

 模型飛行機なら一人で出来ますが、実物の飛行機はそうはいきません。

 終戦直後、整備兵が一生懸命戦闘機を磨いてたんだって。
 おい、どうしたんだって聞いたら、「隊長がこの機体をくれるといいました」って答えたそうです。
 その後どうしたって?又聞きだからそのあとは知りません。

 手は器用だと思っています。でも美を美と感じる感性に欠けています。部屋の中を飾ろうなんて考えたこともありません。
 6尺《=約180センチ》の壁にカレンダーが1部だけ掛かっています。


(返信7)

 川西ですか、飛行機の話になると止《と》まんなくなりますけど、いいですか。
川西は戦後新明和工業となり、義兄が勤めました。そこから出向社員として日本航空機製造で、YS11の開発に従事しました。という私的な話はこっちに置いて、、、

 川西は大型の飛行艇《=水面で離着水できるようにした飛行機》を作っていました。4発の97式飛行艇。南海のチモール島への定期便に使われました。「南海の花束」という映画も出来ました。
 その後は2式大艇というやはり4発の大型飛行艇が、南方で輸送に活躍しました。

 戦局が急を告げてくると、じかに敵と戦うには戦闘機を作らなければいけないということになり、紫電という海軍の戦闘機を作り、それを改造して紫電改を作りました。戦争後期の日本海軍を代表する優秀な戦闘機です。

 親戚のお姉さんは多分この紫電か、紫電改の製造に従事したのでしょう。


(返信8)

 日本の悪かったことは、物資不足はやむを得ぬとして、人命を大切にしなかったことでしょう。1銭5厘のはがきでいくらでも召集できると思ったのでしょう。
 熟練したパイロットはたやすく補充《ほじゅう》は出来ません。

 多くの人が母艦と命をともにしました。

 日本海軍では大艦巨砲主義が幅を利かしていました。
 ハワイ、マレイ沖で航空機が華々《はなばな》しい戦果を挙げ、アメリカは航空機に目覚めたのに、日本は目が覚めませんでした。
 それがミッドウェイの海戦《=ミッドウェイ沖で行われた海戦で日本軍の優勢が覆されて以後アメリカ優位と変わる》にあらわれたと思います。

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編集者 (代理投稿)

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