東京っ子の戦中・戦後 その8 (けんすけ)
投稿ツリー
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東京っ子の戦中・戦後 その1 (けんすけ) (編集者, 2007/7/5 7:40)
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東京っ子の戦中・戦後 その2 (けんすけ) (編集者, 2007/7/6 8:01)
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東京っ子の戦中・戦後 その3 (けんすけ) (編集者, 2007/7/7 10:28)
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東京っ子の戦中・戦後 その4 (けんすけ) (編集者, 2007/7/8 7:44)
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東京っ子の戦中・戦後 その5 (けんすけ) (編集者, 2007/7/9 6:44)
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東京っ子の戦中・戦後 その6 (けんすけ) (編集者, 2007/7/10 7:29)
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東京っ子の戦中・戦後 その7 (けんすけ) (編集者, 2007/7/11 7:03)
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東京っ子の戦中・戦後 その8 (けんすけ) (編集者, 2007/7/12 10:57)
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東京っ子の戦中・戦後 その9 (けんすけ) (編集者, 2007/7/13 8:23)
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東京っ子の戦中・戦後 その10 (けんすけ) (編集者, 2007/7/14 8:09)
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東京っ子の戦中・戦後 その1 1 (けんすけ) (編集者, 2007/7/15 7:30)
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編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298

終戦
空襲によって焼け出され、府中にあった木製飛行機製作会社の、2軒長屋《ながや=細長い家を二軒に仕切った》の社宅の片方に親子兄弟6人で住むことになった。6畳と3畳に6人はいかにも狭かった。
新聞は無く、ラジオは壁一重隣のうちのが聞こえていた。
上の姉が結婚して家を出て行き、近所のアパートの部屋を借りた。相手は近衛師団陸軍主計少尉。戦争中で式も挙げなかった。
8月6日、9日の原爆投下もこれといって大きく報道がされたわけでなく、いつもの空襲ぐらいに思っていた。ただ姉は義兄から原爆の惨状を聞いていて「警報がなったら卑怯《ひきょう》といわれようとなんといわれようと防空壕に隠れろ」と言われていたようだ。
8月14日、明日正午に天皇陛下の放送があると知らされた。
15日正午に事務所の前に全員集まった。ラジオから玉音《=天皇の声》放送が流れた。雑音のせいもあるが意味がよくわからない。その後の解説で日本が負けたと知った。
放送を聞いた後、1番最初にしたことは、食堂に行って飯を食うことだった。
工場の事務室で「戦争終わった。下駄でも作るか」と云っている製造部長の声が聞こえた。
設計室の隣に植えてある梅林に入って、座り込んで泣いた。姉の彼がそばに黙って座っていた。
その晩、電灯の覆《おお》いがはずされた。これからは空襲でびくびくしないでいいんだ、とつくづく思った。
翌日から、図面や書類の整理と焼却が始まった。書類をリアカー《=鉄パイプでできた二輪の荷車、人が引いたりした》で広い空き地まで運んで燃やした。暑い日で越中ふんどし一つで燃してるやつがいた。近所の東芝や日本精工でもさかんに燃していた。熱と風にあおられて燃えカスが飛んできた。
(返信1)
みなさん、コメントをありがとうございます。
終戦の時わたしは“19歳”だったということをもう1度申し上げたい。
日本は神国で天皇陛下は現人神《あらひとがみ=生きている神様》だという偏った教育を受けた一人の少年だったのです。
(返信2)
真夏の暑い日の下で、山のように積んだ図面を燃している、ふんどし姿の友達の逞《たくま》しい体を思い出します。
これですべてが終わったんだと思いました。
後で考えるとあんな図面、秘密でもなんでもなかったと思います。
(返信3)
家に新聞もラジオも無かったから、どこからあの情報が入ったか良く覚えていないんですが、天皇陛下の言葉なんて聞いたことも無かったから、国民に対する励ましの言葉でも放送されるんじゃないかと思ってました。
貴重な資料も大分焼かれてしまったようですね。後で考えるとおしいことをしましたね。
わたしの工場じゃそんなものは無かったと思います。
(返信4)
悔しくて泣いたと思います。でもそれ以上にほっとしたのでしょう。
でも「これから下駄《げた》でも作るか」という声には反感を持ちました。
(返信5)
夜は暗黒の世界でしたから、明かりがつけられることは嬉しかったです。
戦争中より戦後の食糧不足はひどかったです。
(返信6)
そういう難しいことはわたしに聞かないで、、
天皇陛下の言葉は、はっきり云ってなんだかわかりませんでした。あの独特な調子での勅語の棒読みでしたから。
そのあとアナウンサーが読み、解説が加えられて始めて戦争に負けたと知りました。
東京が焼け野原になり、戦局はますます悪くなってゆくのはわかっていましたから、負けているのは知っていても、実際に負けたとなると悔しかったです。
梅林に座り込んで泣きました。そばに義兄(まだなってなかった)が黙ったまま座っていました。
十何年もそう教育されてきた日本の終末でしたからね。
これは何十年もあとのことですが、同じ会社の中で重役の一人が短波放送を聞いていて、すべて知っていたという話しです。
(返信7)
終戦直後、狂ったように飛び回っている日本の戦闘機がありました。敗戦を認めたくない操縦士がいたのでしょう。
(返信8)
わたしも聞いた時わからなかったですよ。
あの晩の電気をつけた明るさは本当に良かったですね。
空襲によって焼け出され、府中にあった木製飛行機製作会社の、2軒長屋《ながや=細長い家を二軒に仕切った》の社宅の片方に親子兄弟6人で住むことになった。6畳と3畳に6人はいかにも狭かった。
新聞は無く、ラジオは壁一重隣のうちのが聞こえていた。
上の姉が結婚して家を出て行き、近所のアパートの部屋を借りた。相手は近衛師団陸軍主計少尉。戦争中で式も挙げなかった。
8月6日、9日の原爆投下もこれといって大きく報道がされたわけでなく、いつもの空襲ぐらいに思っていた。ただ姉は義兄から原爆の惨状を聞いていて「警報がなったら卑怯《ひきょう》といわれようとなんといわれようと防空壕に隠れろ」と言われていたようだ。
8月14日、明日正午に天皇陛下の放送があると知らされた。
15日正午に事務所の前に全員集まった。ラジオから玉音《=天皇の声》放送が流れた。雑音のせいもあるが意味がよくわからない。その後の解説で日本が負けたと知った。
放送を聞いた後、1番最初にしたことは、食堂に行って飯を食うことだった。
工場の事務室で「戦争終わった。下駄でも作るか」と云っている製造部長の声が聞こえた。
設計室の隣に植えてある梅林に入って、座り込んで泣いた。姉の彼がそばに黙って座っていた。
その晩、電灯の覆《おお》いがはずされた。これからは空襲でびくびくしないでいいんだ、とつくづく思った。
翌日から、図面や書類の整理と焼却が始まった。書類をリアカー《=鉄パイプでできた二輪の荷車、人が引いたりした》で広い空き地まで運んで燃やした。暑い日で越中ふんどし一つで燃してるやつがいた。近所の東芝や日本精工でもさかんに燃していた。熱と風にあおられて燃えカスが飛んできた。
(返信1)
みなさん、コメントをありがとうございます。
終戦の時わたしは“19歳”だったということをもう1度申し上げたい。
日本は神国で天皇陛下は現人神《あらひとがみ=生きている神様》だという偏った教育を受けた一人の少年だったのです。
(返信2)
真夏の暑い日の下で、山のように積んだ図面を燃している、ふんどし姿の友達の逞《たくま》しい体を思い出します。
これですべてが終わったんだと思いました。
後で考えるとあんな図面、秘密でもなんでもなかったと思います。
(返信3)
家に新聞もラジオも無かったから、どこからあの情報が入ったか良く覚えていないんですが、天皇陛下の言葉なんて聞いたことも無かったから、国民に対する励ましの言葉でも放送されるんじゃないかと思ってました。
貴重な資料も大分焼かれてしまったようですね。後で考えるとおしいことをしましたね。
わたしの工場じゃそんなものは無かったと思います。
(返信4)
悔しくて泣いたと思います。でもそれ以上にほっとしたのでしょう。
でも「これから下駄《げた》でも作るか」という声には反感を持ちました。
(返信5)
夜は暗黒の世界でしたから、明かりがつけられることは嬉しかったです。
戦争中より戦後の食糧不足はひどかったです。
(返信6)
そういう難しいことはわたしに聞かないで、、
天皇陛下の言葉は、はっきり云ってなんだかわかりませんでした。あの独特な調子での勅語の棒読みでしたから。
そのあとアナウンサーが読み、解説が加えられて始めて戦争に負けたと知りました。
東京が焼け野原になり、戦局はますます悪くなってゆくのはわかっていましたから、負けているのは知っていても、実際に負けたとなると悔しかったです。
梅林に座り込んで泣きました。そばに義兄(まだなってなかった)が黙ったまま座っていました。
十何年もそう教育されてきた日本の終末でしたからね。
これは何十年もあとのことですが、同じ会社の中で重役の一人が短波放送を聞いていて、すべて知っていたという話しです。
(返信7)
終戦直後、狂ったように飛び回っている日本の戦闘機がありました。敗戦を認めたくない操縦士がいたのでしょう。
(返信8)
わたしも聞いた時わからなかったですよ。
あの晩の電気をつけた明るさは本当に良かったですね。
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編集者 (代理投稿)