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東京っ子の戦中・戦後 その7 (けんすけ)

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編集者

通常 東京っ子の戦中・戦後 その7 (けんすけ)

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depth:
1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/11 7:03
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
訂正

 先日の“東京大空襲”の記事に大変な記憶違いのあったことを、その後調べてわかりました。

 「たけのこ生活」という言葉は、終戦の翌年のようです。
 戦時中は政府(軍部)の力が強く、闇で品物の取引が行われたのは、戦後のように思われます。
 60年も前のことを記憶だけで書く恐さを知りました。
 続いて終戦の事を書く気力が萎《な》えました。

 以上謹んでお詫びします。


(返信1)

 ここまでくればもうすぐ終戦です。広島、長崎の原爆の恐さも、沖縄戦の悲惨な状況も、川向こうの火事ぐらいにしか感じなかった、わたしの戦争体験が、書き残す価値があるのだろうかと、疑問に思っています。

(返信2)

 今になって思うと、サイパン島で捕虜になり、米本土まで連れてゆかれて、収容所生活を送った従兄が、帰国してから話してくれた捕虜生活も、もっと良く聞いとけば良かったと思います。

 この話、記憶を元に少し書いてみようかな。

(返信3)

 戦後の方かと思ったら、戦争を知っておられるのですね。丁度育ち盛りの頃戦争だったのかな。
 食糧不足は戦時中より戦後のほうが苦労したように思います。

(返信4)

 経験談を、どこまでどう書いていいか判断に迷います。

 例えば男には徴兵検査というのがありました。
 検査官の前で真っ裸になり、前の性病検査。四つんばいになってお尻の穴まで調べられた。こんなの書いていいんでしょうか。


 第3乙種合格

 健民修練所
 
 京王線高幡不動の裏山に日の丸兵舎があった。そもそもは満州開拓団の訓練施設であったが、昭和20年1月の徴兵検査で、第3乙になった者の訓練のためその1棟が使われた。

 前年までは、甲種、第1乙種、第2乙種までが兵役があり、あと丙種以下だったが、この年から第3乙種が出来た。わたしはその第3乙だった。
 
 日の丸兵舎は丸い建物で、周りが高くなって畳が敷いてあり、中央は土間だった。

 他の棟には家族連れの開拓団の人が訓練していた。訓練が終われば満州に渡るという。
 事実われわれがいるうちに、バンザイに送られて満州に発った。あと4ヶ月で終戦という頃である。
 あの時期に満州に渡って、どんな苦労をしたか気になるところである。

 体力に劣る若者を、兵役に堪えられる体に鍛えようというので、体操、家畜の世話、畑の作業などで毎日を送った。
 東京空襲は相変わらず続き、東京に家のある人は家が気になり、指導者に訴えて結局全員一泊帰宅が許された。「早く焼けちゃったほうが気楽でいいぞ」と罹災者《りさいしゃ=災害(空襲)にあった人》のわたしは言っていた。

 ある日の体育の訓練で、俵を担《かつ》いで懸命に走っていると「近藤さん頑張ってー」と黄色い声。設計室の女学生が2.3人、わたしの姉の彼に連れられて様子を見に来たらしい。これには参った。

 若者が自由を奪われた団体生活で気がすさんでいたか、集団暴行事件もおきた。一人のちょっと動作の遅い男が、ある夜みんなに顔を殴られるという目にあった。わたしもやられるかとびくびくしていた。
 朝礼の時、顔をばんばんに膨らました彼も並んでいた。指導者は気が付いたはずだが何も言わなかった。良くある出来事なのかもしれない。
 この頃かな、沖縄の米軍が全滅したというデマが飛んだ。

 約1ヶ月の訓練で帰宅を許された。5月5日の府中のお祭りはたしか実行されたと思う。
 6月、7月と設計室の人達が招集されていった。そのたびに送別会が開かれた。


(返信1)

 戦時中に若いものの体力をつける目的で、「体力章検定」があって、100m走、2000m走、幅跳び、高飛び、手榴弾《しゅりゅうだん》投げ、懸垂、重量運搬等がありました。
 100mは16秒、その他全部基準があって、それを目標に訓練しました。重量運搬は何キロだか忘れましたが、担いで50メートル駆けるのでした。もちろん米俵ではありません。

(返信2)

 思い出したくない方もたくさんおられるでしょう。だんだんと体験者がいなくなり、今のうちに書き残して欲しいという人もいます。
 わたしはひきこもりで、他に日記に書くこともないから書いています。

(返信3)

 “家がない”“東京大空襲”と続けて、いきなり終戦にしようと思ったのですが、あまり世の中に知られていないわたしの体験を書くのも意義があるかと思いました。

(返信4)

 徴兵検査が確か1年早まったと思います。
 わたしと同年で、入隊して行った人達は、終戦後軍隊からいろいろのものをもらって帰ってきました。
 「どうも、餞別《=別れる人へのはなむけ》泥棒になってしまいました」なんて云って。

(返信5)

 少年時代から軍国主義の中に育ったので、そういう教育を受けて成長しました。
 今でいう成人式の前に戦争が終わりました。

 あの時代のことを一言で言えば、“いつも腹が減っていた”でしょうか。

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編集者 (代理投稿)

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