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東京っ子の戦中・戦後 その9 (けんすけ)

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通常 東京っ子の戦中・戦後 その9 (けんすけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/13 8:23
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 ふるさと 東京

 東京と言っては広すぎるので、わたしが生まれ育った、旧日本橋区馬喰町界隈《ばくろちょうかいわい=馬喰町あたり》と、子供の行動範囲で覚えていることを書きます。

 我が家の向かいは神田区で、お互いの小学校を貶《けな》して囃《はやし》し立てました。「○○学校いい学校、上がってみたら、ぼろ学校」

 わたしの小学校は、両国橋近く、道1つ向こうは隅田川でした。花火の時は屋上が解放され、椅子なども置いてあって、仕掛け花火が良く見えました。ただ、屋上に上がる階段のところしか電気がついてなく、3階建ての校舎は気味悪く、ちょっと恐かったです。
 校門の前に消防自動車が1台止まっていました。

 馬喰町(ばくろちょう)は、問屋街横山町に隣接し、衣料品問屋と、地方発送のための梱包《こんぽう》材料店が多かったように思います。
 店を広く使うため、風呂のある家は殆ど無くて、お湯に行きました。近所の商店の小僧さんや、中には倶利伽羅紋紋《くりからもんもん=刺青をした人》のおじさんなんかもいました。
 夏は小学校のプール通いで、ふんどし跡がくっきり残った子供たちのいい遊び場になっていました。

 そばに川があって鞍掛橋《=竜閑川(堀割り)に掛かる橋・昭和25年に埋め立て完了 竜閑川消滅》という橋があり、大伝馬町、小伝馬町と馬に関係のある名が多いのは江戸時代からの名残りでしょう。 町内に宿屋も2軒ありました。
 小伝馬町の牢獄跡は十思小学校《じっし小学校》で、隣家の子はこの小学校に通っていました。

 鞍掛橋の隣の橋、竹森橋は家の前の通りでした。夏は橋の上はもち竿を持った子供たちで一杯。竿は欄干《らんかん》から下の水面に向かって下ろされ、ギンヤンマが橋と橋の間を行ったり来たりするのを狙っていました。とんぼが橋を掠めて空へ上る瞬間に、竿が一斉に揺らされます。夏の裏通りの橋は通り抜けるのに苦労するほど、子供があふれていました。

 竹森神社という小さな神社があり、二の日と七の日だったか、 縁日が出ました。古本や、塗り絵や、お好み焼きや、えんどう豆を炒ってる店など、子供の喜びそうな店が並びました。この道とTの字に、川に沿って植木屋さんが並んでいました。

 夏は縁日に向かう駒下駄《こまげた》の音が賑やかでした。
 縁日はたくさんありました。六毘沙、九毘沙など、それぞれ6の日と9の日の毘沙門天《びしゃもんてん=七福神のひとつ》の縁日で、こういう縁日があちこちにありました。人形町の水天宮《=安産・水難よけの神》の縁日などは昼間からたくさんの露店が並びました。
 五目並べなど面白がって見ていました。「2手で四三の勝ち」なんて、入れ替わり来て同じところで間違えては金を取られている大人に、なんてバカやってんだろうと見ていました。

 柳橋《やなぎばし》から始まる神田川の土手に神田松竹(通称ドテチク)という映画館があり、2本立て3本立て興行をやっていました。遅く 行くと割引があり、よく連れてってもらいました。
 他にもちょっと歩けば、映画館が2軒あり、子供たちが連れ立ってエノケンの映画を見たりしました。行く道で馬車の荷台にそっと飛び乗ったりして、見つかって怒られて飛び降り、気が付かなければ又飛び乗ったりしてました。

 子供たちの遊び場は道でした。三角ベースをしたり、駆逐戦艦《くちくせんかん=戦争ごっこ》をしたりしました。ベーゴマもやりました。
 模型飛行機も飛ばしましたが、狭いところで建物の壁にぶつかって、紙がすぐに破れてしまいました。それでも広い公園などはありませんでした。

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編集者 (代理投稿)

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