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東京っ子の戦中・戦後 その5 (けんすけ)

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通常 東京っ子の戦中・戦後 その5 (けんすけ)

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前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - | 投稿日時 2007/7/9 6:44
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 
 たけのこ生活

 社宅住まいになったため、会社には姉2人とわたしが勤めることになった。
 母は食糧調達のため近くのお百姓さんを回ったり、生まれ故郷の家に食糧を分けてもらいに行った。たいがいわたしが一緒だった。田舎に行けば腹いっぱい食べられた。

 家が焼ける前、母が保管していた米が、家と一緒に焼けてしまったことを、姉たちは非常に悔しがった。「どうせ焼いちゃうんなら、食べちゃえば良かった」

 少しでも食糧を得ようと、庭はもとより、空き地という空き地には、食べられるものを何でも植えた。狭い庭が陸稲《おかぼ=畑でつくる稲》と、とうもろこしで一杯だったのを覚えている。とうもろこしは実がまばらだった。

 疎開してあったものなどの品物は、殆ど食料に換えた。着るものを売ったりして生活を支えたことを“たけのこ生活”と言った。
 農家では、闇《やみ=法律に違反して取引される》で食糧を売って得たお札が1尺(約30センチ)になると1尺祝いをやったと言う話もあった。母の田舎でも、食糧と交換で得た着物をまるで自慢そうに母に見せていた。


東京大空襲

 3月10日の東京大空襲は、甲州街道で見ていた。東京方面が真赤に焼け、火事の火に照らされながら、B-29が低空攻撃をしていた。

 大空襲の何日後だったか、両国橋を被災者が大勢深川方面から神田方面に歩いていた。焼けた衣服を身にまとい、綿だけになったふとんで子を負ぶい、川に向かって手鼻をかむ、そんな 人達がぞろぞろと橋を渡ってくる。
 通学に毎日渡っていた両国橋に、昼間あれほどの大勢の人が歩いているのを始めてみた。

 家が焼ける寸前に、持ち出した物を預けたところもすべて焼けてしまった。防空壕代わりに使ったらしい地下の物置から、焼けた瀬戸物などを回収した。赤紫に変色した茶碗は戦後も長い間使われた。

 預けた中に姉の着物があったらしい。垂直の鉄の梯子で降りたわたしに、天井の1メートルぐらいの出入り口から顔を覘《のぞ》かせた姉が「その隅に置いたの」と必死になって指図する。だがそこはすべて灰だった。和服に対する女の執念を見た感じがした。

  

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編集者 (代理投稿)

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