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東京っ子の戦中・戦後 その3 (けんすけ)

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通常 東京っ子の戦中・戦後 その3 (けんすけ)

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1
前の投稿 - 次の投稿 | 親投稿 - 子投稿なし | 投稿日時 2007/7/7 10:28
編集者  長老 居住地: メロウ倶楽部  投稿数: 4298
 家が無い(1)

 昭和19年11月1日、府中の下宿から馬喰町《ばくろちょう》の我が家に帰り、神田通りを歩いていると、警戒警報からすぐに空襲警報が鳴り響いた。見上げると高い空にきれいな形の飛行機が1機飛んでいた。これがわたしがB-29《米国の爆撃機》を見た初めである。

 あわてて道端に掘ってある防空壕に入った。しばらくじっとしていたが何事も起こらなかった。
 
 サイパンから帝都に初めて姿を現したB-29、東京を偵察に来たらしい。

 11月24日に東京初空襲。これから連日のように空襲が続くようになった。
 正月の三ヶ日は空襲が無かった。警戒を兼ねて出社し、設計室で図面を描いた。

 富士山上空で東に旋回し、東京に向かうB-29の通り道、でも府中が空襲されることは無く、飛行機好きのわれわれは、編隊で頭上を飛ぶB-29を見ていた。日本の迎撃機らしい機影がぴかりと光って見えたが、編隊は崩すことなく飛行機雲をひいて飛んでいた。

 昭和20年2月25日は雪が降っていた。空襲警報で、設計室前に掘ってある防空壕に避難した。
 当時常に空腹だった皆の話題は食い物だった。“どこそこのあれがうまかった”“どこそこでは全部食べきるとタダになった”なんていう話が弾んだ。

 翌日、神田に住む友人が自分の家のほうの様子を見に行って、日本橋のほうは空襲で一面焼けていると教えてくれた。どうも我が家のほうもやられたらしい。

 28日に給料をもらってからうちへ帰った。最寄の浅草橋の駅は焼けていて、降りることは出来るが乗ることは出来ない。それでもホームの外壁は焼け残っていた。
 外に出て浅草橋の交差点に出ると、その先は一面の焼け野原だった。我が家の方角に急いだ。暗い焼け跡のあちこちでちらちらと火が燃えている。誰かが焚き火《たきび》をしているなと、そばによって見ると誰もいない。暗い中で火だけが燃えているのは気味の悪いものだ。

 我が家のあった場所に着いた。家が無い。一面の焼け野原。空襲の時に持ち出すと言っていたリュックサックのやけ残りを見た時は、ひょっとすると一家全滅かと思った。
 人影の無い焼け跡では聞くことも出来ないので下宿に帰ることにした。
 浅草橋の駅は焼けていて営業していないから、焼け跡の暗い道を神田の駅まで歩いた。焼けた残骸《ざんがい 》のビルが、ところどころ黒い影を写していた。

 下宿に戻ってさぁどうしようと考えた。空襲にあったら世話になると云って、荷物を疎開させていた相模原の親戚に行っているかもしれない、そこを先ず訪ねてみよう。

 翌日会社に顔を出し、事情を説明して休みをもらい、食堂でおにぎりを作ってもらって相模原の親戚に向かった。駅から約1時間歩いて着いたが変わった様子は無い。おばさんに事情を説明し、来ていないことを聞いて、それじゃ母親の生まれ故郷の小田急線秦野《はだの》の田舎《いなか》かもしれない、そっちに回ってみようと、町田の駅に出て小田急に乗ろうと思ったが、駅のホームは被災者であふれるばかり、とても電車に乗れる状態ではなかった。

 いったん下宿に帰って、翌日もう一度我が家の焼け跡へ行ってみた。やはり焼け出された近所の奥さんが焼け跡に来ていた。うちの人達はどうしましたと聞くと、人形町の待合に避難したと言う。一応全員無事だということはわかった。

 翌日また相模原へ。駅を降り親戚への道に向かって線路を渡ろうとした踏切で、家族にばったり逢った。焼ける前に持ち出した品物を預けた家に取りに行くと言う。
 皆の無事を見て安心し、わたしは会社に戻った。

 いつまでも親戚に厄介になっているわけには行かない。一家が住むために、姉の彼が会社に交渉してくれて、社宅を借りることになった。会社から約10分、北側に畑をはさんだかなたに少年院の見える一郭《いっかく=一つの囲いの中の地域》に2軒長屋11棟22軒が建っていた。その一番奥の一棟の半分を借りた。隣とは壁一枚、6畳と3畳の家に、父、母、兄、姉2人にわたしの6人で住むことになった。

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編集者 (代理投稿)

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