東京っ子の戦中・戦後 その4 (けんすけ)
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東京っ子の戦中・戦後 その1 (けんすけ) (編集者, 2007/7/5 7:40)
- 東京っ子の戦中・戦後 その2 (けんすけ) (編集者, 2007/7/6 8:01)
- 東京っ子の戦中・戦後 その3 (けんすけ) (編集者, 2007/7/7 10:28)
- 東京っ子の戦中・戦後 その4 (けんすけ) (編集者, 2007/7/8 7:44)
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東京っ子の戦中・戦後 その5 (けんすけ) (編集者, 2007/7/9 6:44)
- 東京っ子の戦中・戦後 その6 (けんすけ) (編集者, 2007/7/10 7:29)
- 東京っ子の戦中・戦後 その7 (けんすけ) (編集者, 2007/7/11 7:03)
- 東京っ子の戦中・戦後 その8 (けんすけ) (編集者, 2007/7/12 10:57)
- 東京っ子の戦中・戦後 その9 (けんすけ) (編集者, 2007/7/13 8:23)
- 東京っ子の戦中・戦後 その10 (けんすけ) (編集者, 2007/7/14 8:09)
- 東京っ子の戦中・戦後 その1 1 (けんすけ) (編集者, 2007/7/15 7:30)
編集者
居住地: メロウ倶楽部
投稿数: 4298
東京っ子の戦中・戦後 その4 (けんすけ)
(返信1)
夜、焼け跡に着いた時は、家族全員絶望かと悪いほうへ考えました。
あくる日親戚のうちへ行った時、青い顔をして元気が無かったとか、後に聞きました。
その翌日、焼け跡で遇った近所の人から、全員無事と聞いた時は、本当にほっとしました。
でもあの踏切で、実際に元気な顔を見た嬉しさは忘れられません。
(返信2)
わたし自体は恐い思いをしていないのです。よく機銃掃射《=機関銃で敵をなぎはらうように射撃する》で狙《ねら》われて、逃げ回ったと言う話は聞きますが、そういう経験は全く無いです。
下宿から我が家に帰って、夜空襲なんかあっても、自分のうちに直接被害が無いようなら、空から落ちてくる焼夷弾《しょういだん》のカーテンはきれいでした。
工場が機銃掃射を受けた時、わたしは健民修練所と言うところで訓練を受けていました。これもまた別に書きたいですね。
ここのほうがこわかった。
(返信3)
メロウ伝承館なんかを読むと、すごい恐い戦争体験が載ってますね。
ああいうのを読むと、わたしの体験はのんきだったと思います。
わたしの日記を見て、「戦争ってそんなもんじゃない」と思ってる方もいるかも知れません。
(返信4)
工場の隣は府中の刑務所でした。囚人も飛行機の部品を作っているらしく、塀の出入り口のそばに、ジュラルミン《=合金。軽量で強度が大きいため、飛行機・建築などの材料にする》の加工した削りかすが積んでありました。
ある日飛燕《ひえん=旧日本陸軍の戦闘機》が刑務所の上で旋回を繰り返していました。
囚人への激励に来たのでした。
隣の飛行機工場では、国卒の生徒を動員しても生産は上がらず。戦争に間に合ったと言う話は聞きませんでした。
飛燕がB29《米、爆撃機》に馬乗りになったと言う話は聴きました。
日本橋三越のホールには実物の飛燕が飾ってありました。
(返信5)
わたし自身はあまり悲惨な体験をしていません。同じ焼け出されでも直接自分でない、よそから見てるような話もいいんじゃないかと思いました。
原爆被災者を始め、悲惨な話はたくさん書かれています。避けようとする人もいるでしょう。であまり悲惨でないわたしの体験談を書きました。
(返信6)
まだまだ世界は平和とは縁遠いです。
戦乱の絶えなかったヨーロッパが一つになりました。
世界が一つの連邦《注1》になる、というわけにはいかないのでしょうか。
東西ドイツが一つになったように、韓国、北朝鮮が一つになればよいと願っています。
(返信7)
昭和20年に徴兵《=国家が国民を強制的に兵役につかせる》検査を受けました。
その年から、甲種、第1乙種、第2乙種に加えて第3乙種が出来ました。一人でも多く兵隊にしたかったのでしょう。
わたしはその第3乙種でした。
わたしと同年の若者は、6月ごろ入隊して行きました。内地勤務で敵の上陸に備えての訓練です。
8月に終戦になって、1日も早く帰りたかったようです。
わたしはついに兵隊に行きませんでした。
ですから話に聞くひどい訓練も受けませんでした。
日記に、続いて終戦の頃の話を書こうとして、下書きを書いたりしてレスが遅くなりました。失礼しました。
(返信8)
この前の世界大戦のとき朝鮮(その時は一つだった)は日本の支配下にありました。
ソ連は共産主義で世界中の労働者を支配して赤化《=共産主義化する》しようとたくらんでいました。それに米英など自由の国は反発していました。
大きく分けると、枢軸国《すうじくこく=友好協同の関係》(日独伊)と自由の国(英米その他)ソ連と3っに分かれていました。
戦前いろいろの駆け引きはありましたが、枢軸国と、米英ソの戦いとなり、ご存知のように米英ソが勝ちました。
戦争が終わると、もともと思想の違う米英とソ連が、戦後の世界支配で対立しました。
そのため、ドイツは東西に分裂され、朝鮮は南北に分裂されました。日本も危うく分裂支配されるところでした。
中国は共産党の支配になりましたが、後にソ連が崩壊し、ソ連の支配下にあった東ヨーロッパが解放され、東西ドイツも一つになりました。
ソ連は崩壊しましたが、共産化された中国が北朝鮮の後押しをしたために朝鮮は未だに南北に分かれたままです。
いずれはドイツのように統一されるのでしょうが、キムという男が反抗しています。自分の地位が危ないからです。悪あがきをしています。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国という長い名前です)と言う国がなくなってしまうのが恐いのでしょう。
中国も北朝鮮が無くなり、朝鮮半島全体が自由の側につくのは好ましくないと思っているでしょう。
長くなりました。理解の一助になれば幸いです。
(返信9)
戦争の話は難しいです。あまりにむごたらしいのは敬遠されるし、あまりにのんきすぎるのは、実際修羅場《しゅらば=戦乱や闘争で悲惨をきわめている場所》をくぐってきた人には物足りないでしょう。
(返信10)
B29をきれいだと認めてくれた人がいた。
遠くから見ている限り、夜間空襲はきれいでした。
ただその時、地上では生死をわける闘いが行われていたのですね。戦争は人間の感情を変えてしまいます。感覚が麻痺《まひ》してしまうのでしょうか。その修羅場を思いやる気持ちもなくしていました。
(返信11)
マッカーサー《注2》がソ連の主張を強引に退けたようですよ。
ご存知のようにソ連は日ソ不可侵条約《=互いに相手国を侵略しないことを定めた条約》を一方的に破棄し、少しでも日本の領地に侵攻しようと、15日を過ぎても攻撃を続けたのです。
スターリン《注3》が北海道占領を主張したけれど、アメリカが拒否したとか。
(返信12)
お父様が、戦争の本当の悲惨さを話せなかった気持ちもわかるように思います。
その苦しかったことを忘れたいと言う気持ちもあったのでしょう。本当に悲惨な体験をした方は話したがらないのかもしれません。
(返信13)
★ 日本の迎撃機《げいげきき=攻めて来る相手を迎え撃つ飛行機》はよっぽど気をつけて見なければ、見えませんでした。
護衛機も見えなかったです。日本の防衛体制を甘く見て、護衛無しじゃないかと思いました。実際はわかりません。きらっと光らなければ見えませんでしたから。
(返信14)
おじいちゃんは兵隊に行ったのですか。それともわたしと同じように、戦争の時代を経験したということですか。
あの頃子供たちは、集団疎開で苦労したようです。
戦争は、女や子供がむごい目に遭います。非戦闘員を殺す、こんなことがあっていいのでしょうか。
イラクからイランへ、不穏《ふおん》な空気を感じます。いつになったら、世界は平和になるのでしょう。
(返信15)
あの時代、兵隊に行かなかったのは大変幸運です。
もう少し戦争が長引けば、或いは米軍が本土上陸をしたら、わたしも兵隊に取られたでしょう。
(返信16)
戦争はわたしの体験した、ついこの間あったのです。
風化させてはいけないのでしょうが、
本当のつらさを味わった人は、あまり語りたがらないようです。
注1 連邦=複数の州または国家が結合し、全体を包括する一つの国家として形成されたもの。内政には相互に独立性の高い自治的権能を有し、外交・軍事には連合して一主権を構成する
注2 マッカーサー=戦後、日本占領連合国軍最高司令官として日本に駐在
注3 スターリン=ソ連の政治化・ロシア革命ではレーニンを助けて活躍
(返信1)
夜、焼け跡に着いた時は、家族全員絶望かと悪いほうへ考えました。
あくる日親戚のうちへ行った時、青い顔をして元気が無かったとか、後に聞きました。
その翌日、焼け跡で遇った近所の人から、全員無事と聞いた時は、本当にほっとしました。
でもあの踏切で、実際に元気な顔を見た嬉しさは忘れられません。
(返信2)
わたし自体は恐い思いをしていないのです。よく機銃掃射《=機関銃で敵をなぎはらうように射撃する》で狙《ねら》われて、逃げ回ったと言う話は聞きますが、そういう経験は全く無いです。
下宿から我が家に帰って、夜空襲なんかあっても、自分のうちに直接被害が無いようなら、空から落ちてくる焼夷弾《しょういだん》のカーテンはきれいでした。
工場が機銃掃射を受けた時、わたしは健民修練所と言うところで訓練を受けていました。これもまた別に書きたいですね。
ここのほうがこわかった。
(返信3)
メロウ伝承館なんかを読むと、すごい恐い戦争体験が載ってますね。
ああいうのを読むと、わたしの体験はのんきだったと思います。
わたしの日記を見て、「戦争ってそんなもんじゃない」と思ってる方もいるかも知れません。
(返信4)
工場の隣は府中の刑務所でした。囚人も飛行機の部品を作っているらしく、塀の出入り口のそばに、ジュラルミン《=合金。軽量で強度が大きいため、飛行機・建築などの材料にする》の加工した削りかすが積んでありました。
ある日飛燕《ひえん=旧日本陸軍の戦闘機》が刑務所の上で旋回を繰り返していました。
囚人への激励に来たのでした。
隣の飛行機工場では、国卒の生徒を動員しても生産は上がらず。戦争に間に合ったと言う話は聞きませんでした。
飛燕がB29《米、爆撃機》に馬乗りになったと言う話は聴きました。
日本橋三越のホールには実物の飛燕が飾ってありました。
(返信5)
わたし自身はあまり悲惨な体験をしていません。同じ焼け出されでも直接自分でない、よそから見てるような話もいいんじゃないかと思いました。
原爆被災者を始め、悲惨な話はたくさん書かれています。避けようとする人もいるでしょう。であまり悲惨でないわたしの体験談を書きました。
(返信6)
まだまだ世界は平和とは縁遠いです。
戦乱の絶えなかったヨーロッパが一つになりました。
世界が一つの連邦《注1》になる、というわけにはいかないのでしょうか。
東西ドイツが一つになったように、韓国、北朝鮮が一つになればよいと願っています。
(返信7)
昭和20年に徴兵《=国家が国民を強制的に兵役につかせる》検査を受けました。
その年から、甲種、第1乙種、第2乙種に加えて第3乙種が出来ました。一人でも多く兵隊にしたかったのでしょう。
わたしはその第3乙種でした。
わたしと同年の若者は、6月ごろ入隊して行きました。内地勤務で敵の上陸に備えての訓練です。
8月に終戦になって、1日も早く帰りたかったようです。
わたしはついに兵隊に行きませんでした。
ですから話に聞くひどい訓練も受けませんでした。
日記に、続いて終戦の頃の話を書こうとして、下書きを書いたりしてレスが遅くなりました。失礼しました。
(返信8)
この前の世界大戦のとき朝鮮(その時は一つだった)は日本の支配下にありました。
ソ連は共産主義で世界中の労働者を支配して赤化《=共産主義化する》しようとたくらんでいました。それに米英など自由の国は反発していました。
大きく分けると、枢軸国《すうじくこく=友好協同の関係》(日独伊)と自由の国(英米その他)ソ連と3っに分かれていました。
戦前いろいろの駆け引きはありましたが、枢軸国と、米英ソの戦いとなり、ご存知のように米英ソが勝ちました。
戦争が終わると、もともと思想の違う米英とソ連が、戦後の世界支配で対立しました。
そのため、ドイツは東西に分裂され、朝鮮は南北に分裂されました。日本も危うく分裂支配されるところでした。
中国は共産党の支配になりましたが、後にソ連が崩壊し、ソ連の支配下にあった東ヨーロッパが解放され、東西ドイツも一つになりました。
ソ連は崩壊しましたが、共産化された中国が北朝鮮の後押しをしたために朝鮮は未だに南北に分かれたままです。
いずれはドイツのように統一されるのでしょうが、キムという男が反抗しています。自分の地位が危ないからです。悪あがきをしています。北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国という長い名前です)と言う国がなくなってしまうのが恐いのでしょう。
中国も北朝鮮が無くなり、朝鮮半島全体が自由の側につくのは好ましくないと思っているでしょう。
長くなりました。理解の一助になれば幸いです。
(返信9)
戦争の話は難しいです。あまりにむごたらしいのは敬遠されるし、あまりにのんきすぎるのは、実際修羅場《しゅらば=戦乱や闘争で悲惨をきわめている場所》をくぐってきた人には物足りないでしょう。
(返信10)
B29をきれいだと認めてくれた人がいた。
遠くから見ている限り、夜間空襲はきれいでした。
ただその時、地上では生死をわける闘いが行われていたのですね。戦争は人間の感情を変えてしまいます。感覚が麻痺《まひ》してしまうのでしょうか。その修羅場を思いやる気持ちもなくしていました。
(返信11)
マッカーサー《注2》がソ連の主張を強引に退けたようですよ。
ご存知のようにソ連は日ソ不可侵条約《=互いに相手国を侵略しないことを定めた条約》を一方的に破棄し、少しでも日本の領地に侵攻しようと、15日を過ぎても攻撃を続けたのです。
スターリン《注3》が北海道占領を主張したけれど、アメリカが拒否したとか。
(返信12)
お父様が、戦争の本当の悲惨さを話せなかった気持ちもわかるように思います。
その苦しかったことを忘れたいと言う気持ちもあったのでしょう。本当に悲惨な体験をした方は話したがらないのかもしれません。
(返信13)
★ 日本の迎撃機《げいげきき=攻めて来る相手を迎え撃つ飛行機》はよっぽど気をつけて見なければ、見えませんでした。
護衛機も見えなかったです。日本の防衛体制を甘く見て、護衛無しじゃないかと思いました。実際はわかりません。きらっと光らなければ見えませんでしたから。
(返信14)
おじいちゃんは兵隊に行ったのですか。それともわたしと同じように、戦争の時代を経験したということですか。
あの頃子供たちは、集団疎開で苦労したようです。
戦争は、女や子供がむごい目に遭います。非戦闘員を殺す、こんなことがあっていいのでしょうか。
イラクからイランへ、不穏《ふおん》な空気を感じます。いつになったら、世界は平和になるのでしょう。
(返信15)
あの時代、兵隊に行かなかったのは大変幸運です。
もう少し戦争が長引けば、或いは米軍が本土上陸をしたら、わたしも兵隊に取られたでしょう。
(返信16)
戦争はわたしの体験した、ついこの間あったのです。
風化させてはいけないのでしょうが、
本当のつらさを味わった人は、あまり語りたがらないようです。
注1 連邦=複数の州または国家が結合し、全体を包括する一つの国家として形成されたもの。内政には相互に独立性の高い自治的権能を有し、外交・軍事には連合して一主権を構成する
注2 マッカーサー=戦後、日本占領連合国軍最高司令官として日本に駐在
注3 スターリン=ソ連の政治化・ロシア革命ではレーニンを助けて活躍
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編集者 (代理投稿)